15話 日記と涙の跡
────入った瞬間、嗅いだことのない臭いが立ち込めた。
「うっ!? 何だろ、これ……」
「わからない……」
微かなものだが、あまりにも異質すぎて狼狽えてしまった。形容しがたいが、少なくとも普通に過ごしていれば遭遇することのない臭いだ。
ティルとアンナちゃんも少し顔をしかめたが、部屋に足を踏み入れる。こちらは家具が揃っているだけでなく、装飾品などもいくつか残されていた。
机の端に、立てられた何冊かの本と、放置された一枚の写真を見つけた。
まず、色あせた写真を手に取るが────
「えっ……」
写真には、二人の人間が映っていた。白いスーツとドレスを身にまとった男女だ。
しかし、男の顔はペンか何かで黒く塗りつぶされていた。女の方は、幸せそうに笑っているのに。
「……この人、お母さんだ」
アンナちゃんが、私の持つ写真を見て言った。
乱雑な手付きだったのがひと目でわかる。ひどい憎悪や恨みがひしひしと伝わって、胸が痛い。
「母さんの日記がある」
私の横に立ったティルが、そう言いながら机の上から一冊の本を取る。
装丁が随分とボロボロになっているし、紙もだいぶ変色している。表紙を開いてすぐのページの端に「ハルモニア・ジルヴェスター」と書かれていた。
「お兄ちゃん、見ていいの?」
「……いいんだ。もう、この世にはいないんだから」
私とメアもティルに近づき、日記の中身を見せてもらうことにした。
最初の日記は、数十年前の日付であった。
「『素敵な御方と結ばれた。隣国の科学者なのだけど、賢くて頼りになる人だ。これでようやく、アリスティアおばあ様に安心してもらえる。みんなに願われた通り、私は幸せになる』……これって、結婚した当時ってこと?」
「そうなるな」
ハルモニアさんは、シュレイドの本質を知っていたのだろうか。この当時は何も知らず、幸せになれると信じていたのではないか。
さらに読み進めていく。日にちが少し飛んでいたときもあったものの、重要な出来事は欠かさず記録していたようだ。ティルが生まれたことも、ちゃんと日記に書かれていた。
『男の子が生まれた。あの人は忙しそうであまり私のそばにいてくれなかったけど、私は幸せ。名前は決めていいと言われたから、ティルと名づけた。私は、この子を幸せにしてあげられるかな』
ティルの手が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。しかし、彼は構うことなくページを進める。
あるページの殴り書きを見たら────彼女の悲痛な叫びがそのまま伝わってきたような気がした。
『ひどい、ひどい。あの人があんなことをするような人だなんて思わなかった。今でもあの子の泣き叫ぶ声が頭の中で響いている。
私はあの人の何を見ていたというの? みんなで幸せになりたかっただけなのに。
こんなの嘘だ、悪夢だ。すべて夢だったらよかったのに』
判読可能であることがせめてもの救いだった、としか言えない。そうでなければ、こんな現実を窺い知ることさえできなかった。
内容を見る限り、知って幸せだとは到底思えないが。
「……これ、俺があいつに実験台にされた日だと思う」
「ティルが……?」
「まだ鮮明に覚えてるよ。無理やり実験室の中に連れていかれて、台に乗っけられて動けなくされた。それから麻酔を打たれたはずなのに全部わかるんだ。胸を無理やりこじ開けられて血がいっぱい流れて────」
「お兄ちゃん、だめ!」
血塗られた記憶の呪詛を止めたのは、しがみついたアンナちゃんだった。日記をめくる手の震えはいつの間にか強くなっていて、まともに持てているとは思えなかった。
日記の中身もまた、さらに文字が乱れたものになっていた。
『もうだめ こどもがほしいといわれた たりない またひつようになったって いっていた
わたしは あのひとのどうぐ わたしには それしか かちがない って』
そこまで読んだところで、日記が勢いよく閉じられた。日記を持つ手どころか、身体すべてが震えて息が荒くなっていた。
「っ……だめだ……俺には、これ以上……」
日記を私に押し付け、頭を片手で抱えて急ぎ足で部屋を後にする。
「お兄ちゃん!!」
アンナちゃんは慌てて彼を追っていった。部屋には、私とメアだけが残された。
「……先を読むつもりなのか?」
ページをめくろうとした私に、そう声をかけてきた。
そう尋ねたくなるのも当然だ。あいつは、私が知る者の中で最悪すぎる人種だった。これ以上真実を追ったところで、こちらが傷つくだけかもしれない。
「メア……私は、この先を知らなきゃいけないの」
「どうしてだ。お前はその人と何の関係もない」
「そうかもしれない。でも、ティルたちを救うためには、全部知らなきゃいけないと思う」
表面上だけ知ったところで、意味はない。人間に憧れておきながら、人間をほとんど知らなかったなんて、笑っちゃう話だろう。
それに────形だけの救いなんて、誰も必要としていないはずだ。
「……そうか。じゃあ、私も一緒に見届けるよ」
「うん。ありがとう、メア」
「親友に付き合うのは当然のことだ」
二人で続きを見ることにした。
しかし、ページを追うごとに文章の判読が難しくなっていく。恐らくアンナちゃんが生まれたのがこの辺りになるだろうと推測した場所も、ほとんど読めなくなっていた。
文字だけじゃない。彼女の乱れは日記そのものにも表れていた。古びた紙がしわだらけで、中には破られたページもあった。
やがて、すべてのページに涙の跡が現れるようになった。
『しにたい あんなの ひとじゃない あくま
わたしがうんだのは にんげん じゃない あんなの ころしてしまいたい』
もう正常だなんて言えなかった。心労のあまり、気を狂わせていったのだろう。
悪魔なのは、一体誰だったのだろう。
「……む。ここで終わりのようだ」
いくつかページをめくった末、メアが静かにそう告げた。確かに、ここから先は白紙だ。
意を決して、最後を見る。思ったほど文字は乱れておらず、紙も少しだけしわができている程度だった。
『ここまで死んだように生きていて、ようやくわかった。私は生きている間、ずっと現実から目を背け夢を見続けていた。それがすべての間違いだった。
この世はみんな嘘吐きだ。あの人は悪魔。全部私のせい。こんなことになるなら生まれたくなかった。
ティル、アンナリア。神様なんていなかったね。ごめんね』
妙に文字が整っていたのが不気味で仕方なかった。手に力がうまく入らなくて、机の上に開いたまま落としてしまった。
おかしい。否定されているのは自分じゃないはずなのに、どうしてこんなにも心が苦しいの。
負の感情がぐちゃぐちゃと渦巻いて、押し潰されてしまいそうだ。
「────シュレイドっ!!」
突然、部屋の外からティルの叫び声が聞こえてきた。シュレイドって……戻ってきたというの!?
「っ、メア行こう!」
「ああ!」
部屋から飛び出し、埃だらけの廊下を駆けた。
一階に降りた先には、ティルと彼の後ろに隠れるアンナちゃんと、もう一人見たことのない男がいた。
そいつの短い髪と黒縁眼鏡で小さく見える瞳は、二人の子供と同じ青と赤だった────。
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