二章 三宮春乃(3)


   ◇


 それは一年前、高校に入って初めてのプールの授業でのことだった。

「なにあれ? キモくない?」

「背中にぶつぶつがいっぱいある。根性焼きってやつ?」

「見るだけで気持ち悪くなる。俺ああいうの無理だわ」

 まだ授業が始まる前のちょっとした時間だ。みんなが着替えてきて、プールサイドに集まって来たくらい。でも、ほんのちょっとの時間でも、人というものはおぼれてしまえるものである。

 実際私は、周囲から背中に注がれる悪意の視線の大波から逃げられず、ただうつむくことしかできなくて、まるで息をすることすら責められているような、ちっそく寸前のような苦しさを感じていた。

「春乃、あんたなんで水着を……!」

 そんな時、隣のクラスで、一番の親友である結衣が、私を遠くから眺める彼らの間から飛び出してきてくれた。

 心配しているみたいな、焦っているような表情だ。私が苦しい時に結衣はいつもそんな顔をする。

「あ、結衣じゃん。なんでって、授業に出るのは当たり前でしょー?」

「だからって、あんたは無理しなくて良いのよ。中学の頃は休んでたじゃない」

「いや、体育の睦月先生が『じゃないなら泳げるだろ』って。まあ私も体動かすの好きだし? 泳ぐのも良いかなーって」

 笑顔は私の特技である。これまでも、沢山苦しいことや、痛いことはあったが、笑っていれば、いつもすぐに明るい気持ちになれた。

 お母さんはごめんねって言うのをやめてくれた。

 近所の人たちだって、出会い頭に「怒鳴り声が聞こえたけど大丈夫?」と聞いてくるのをやめてくれた。

 私が笑えば、みんなが安心したような顔をした。

 だから今回も、笑っていれば、きっと。

「じゃあ、なんであんた震えてんのよ」

 でも、私の親友は、一目で全てを見抜いていた。そしてすかさず、持っていたバスタオルを私の肩に掛けて、その上から強く抱きしめてくれた。

 優しくて、温かくて、思わず抱きしめ返してしまう。彼女の肩に顔を埋めると、ようやく息ができた気がした。

「ごめん、結衣。ちょっと、無理かも」

「あんたはいっつも無理しすぎなのよ。早く更衣室行くわよ」

 結衣は私を抱いたまま、プールに併設されたコンクリート造りの更衣室へと歩いて行く。その間も周囲からの視線は消えなかった。

 そして、そんな視線の向こうから、荒々しくて恐ろしい、とある教師の声が聞こえてきた。

「おうお前らどこ行くんだ。これから授業だぞ?」

 結衣と二人してそちらを振り返ると、そこにはでっぷりとした中年腹が特徴的な体育教師、睦月忠一がいた。

「……先生、どうして春乃に授業を受けさせるんですか?」

 てかてかと脂ぎった禿げ頭の下に付いている、黄ばんだ瞳を睨みつけ、結衣が声を低くした。しかし、睦月先生は一切気にしていない様子で言った。

「なんでって、生徒が授業に出るのは当然だろ? どこの教師がサボりを許すんだ?」

「サボりって、春乃には事情があるんです。先生だって相談を受けたはずですよね?」

「ああ、だが、実際に見てみなきゃわからんのに、三宮が服を脱ぐのを嫌がってな。だからしょうがないだろ? 俺は、正当な理由が無い生徒をサボらせるようなたいまん教師じゃないんだ」

 睦月先生が絵本に出てくる悪者のようにくさい息を吐き出す。そんなあからさまな悪党に対し、結衣は食い殺さんばかりの怒気を目元に据えた。

「このセクハラハゲ」

 辺りがしんと静まり返る。あまりにも直接的で、攻撃的すぎる結衣の言葉は、剣ややりみたいに鋭く、他の生徒たちは皆喉元に凶器を突きつけられたみたいに押し黙った。それだけ恐ろしい声音だったが、今は何よりも、頼もしかった。

「……お前、それ誰に言ってんだ? まさか俺じゃねえよな?」

 言い返す睦月先生もまた、震えてしまうくらい怖くて、暴力的な言葉と睨みを返してくる。何よりも危なそうで、とっあと退ずさると、結衣がまもる様に私の前に立ってくれた。

「言葉がわからないなんて、まるで野山のさるみたいね。こんなところまで下りてきて何がしたいのかしら……ああ、もしかしてこの言葉もわからない?」

 喉を鳴らして、息を吸いなおせば、結衣は腹の底に秘めていた激情を叩きつけるように怒鳴り散らした。

「どけっつってんのよクソ野郎!」

「てめぇ言わせておけば!」

 まるで大きな爆弾が、立て続けに爆発したみたいだった。怒鳴り返してきた睦月先生は、結衣に摑みかかろうとして、慌てて止めに入った数人の男子生徒に引き留められる。

 私もまた、完全に頭に血が上ってしまっている結衣の手を握り込んだ。

「結衣……やめてよ。私はいいから」

「なんでよ! なんであんなクズのためにあんたが我慢しなくちゃならないの! あんたは、何にも悪くないじゃない!」

 魂をむき出しにして叫んでいるような、感情的な言葉だ。結衣の心の底からあふれ出した思いで、彼女は、引き留めようとする私の手を強く握り返してくれた。そうすれば、結衣の体の中を流れる血液の熱量みたいなものが力強く伝わってきて、私は彼女を止めるのではなく、彼女にすがりたくなってしまう。

 私は何も悪くない。私の代わりにそう叫んでくれた親友の言葉は、なんて頼もしいんだろう。

 そして結衣は、一歩も引かずに言い放った。

「お前みたいな人の痛みもわからないやつはさっさと死んでしまえばいいんだ! ごくに落ちて、針山で他のクズどもと一緒にくそでも投げ合ってろ!」

 なぐりつけるようなせいは、あまりにも強すぎた。結衣の言葉で余計にいきり立った睦月先生は、周囲の生徒をなぎ倒し、でっぷりとした巨体で襲い掛かってきた。

「結衣、逃げて!」

 手を引くが、結衣は意固地になって睦月を睨んだままその場を離れようとしなかった。そして今にも睦月先生が結衣を殴らんばかりに近づいてきた時、すんでのところで、この場の誰よりも高いところにある坊主頭が、二人の間に割って入った。

 見上げるような逞しい背中は複数人の男子生徒でも止められなかった睦月先生の体を一人で受け止め、真横のプールへと突き落とした。

「みんな、一旦落ち着いてくれ!」

 睦月先生がプールに落ちた時にできた一瞬の隙を見逃さず、結衣と同じクラスである野球部の男子、双葉草太はそう言った。

 そんな双葉君の横、一段下がったプールの中から睦月先生が顔を出し、自分を突き落とした坊主頭を睨みあげる。

「おい双葉。お前、教師をプールに突き落とすなんてどういうつもりだ?」

「僕が言ったんです。『先生が暑そうだから、ちょっと涼んでもらったらどう?』って」

 声を荒らげる睦月先生に対して言葉を返したのは、双葉君の後ろからひょっこりと顔を出した癖毛の男子生徒だった。印象に残らない中肉中背の彼は、されどどこか周りとは異なった雰囲気で睦月先生の前へとしゃがみ込む。

「暑さで苛々してらっしゃったんですよね?」

「あぁ? お前何を」

「おいおい、なんの騒ぎだ? もう授業始まるぞ?」

 睦月先生が言いかけた瞬間、生徒たちの間をかき分けてもう一人の授業担当の体育教師が姿を現した。汗ばんだひたいを見るに、急いで来たらしい。そんな彼の後ろには、私と同じクラスの雪月すみれが、同じくひたいを汗ばませて立っていた。どうやらこの騒ぎにいち早く気付いて、先生を連れて来てくれたらしい。

 体育教師とすみれを見つけた途端、癖毛の男子生徒は立ち上がって、プール内の睦月先生をいちべつした。

「すいません。睦月先生が暑いなら授業開始時間なんて待たず、早くプールに入ろうって言ってくださって、みんなで喜んでたんです」

 澄ました顔で男子生徒はそう言い、再び睦月先生に目を向けた。その目を受けて、あれだけいきどおっていた睦月先生は、何も言い返せないように口をつぐんだ。それほどまでに癖毛の男子生徒のまなしは、結衣のそれとは違った、人に物言わせぬ説得力のようなものを持っていた。

「そうだったのか。まあ、確かにそうだな。でも準備運動は必要だ。お前ら早く並べー」

 事情を知らない体育教師は大きな声で指示を出し、生徒たちは少しざわめきながらもそれに従い始める。だが私は、先ほどまでの恐怖のいんと、あまりにも唐突な助けに対して、啞然としてしまっていた。

「何が起きたの?」

「……さあ?」

 あれほど憤っていた結衣すらも困惑して、我に返っている。そんな私たちの前を、列になるために癖毛の男子生徒が横切り、私は思わず「待って!」と声を投げた。

「え、えっと、助けてくれて、ありがとう」

 私が言うと、癖毛の男子生徒は、なんとも印象に残らないような無表情で振り返った。

「僕は、別に……草太、ちょっと来て」

「どうした、仁」

「言いたいこと、あるみたいだから」

 仁と呼ばれた男子生徒は、こちらを見た。

「お礼なら、草太とすみれに言ってください。睦月先生を止めたのは草太ですし、他の先生を呼んできてくれたのはすみれなので」

「い、いや、俺は別に礼とかはいらないぞ」

 咄嗟に言い返した双葉君に対して、仁君は、素直そうに疑問を飛ばした。

「なんで?」

「それは、その……」

 言い淀み、そして照れ隠しか、先ほど周りをしずめた時とは比べ物にならない小さい声で、双葉君は言った。

「あんな状況なら、普通、誰でも助けるから。俺は当たり前のことしただけだ」

 本当に小さい声である。けれど彼の言葉は、どんな怒鳴り声よりも鮮明に私の耳に残り、心臓の辺りから段々と顔まで熱くなってきて、私は思わず顔を伏せた。

 そして丁度、遅れてきた体育教師の呼びかけが聞こえる。

「おーい、早く並べー」

「やば、急いで行こうぜ、仁、吾妻、あと……」

 私を見た双葉君に対して、結衣は苛立ちを思い出したようにして答えた。

「この子はいいのよ、事情があるんだから。先生には改めて私が言っとくから、ほら、あんたは早く着替えて来なさい」

 気を遣ってくれた言葉が、優しく私の背を押す。

 しかし私は踏みとどまった。なんだか、胸の内に燃える炎のようなものが、先ほどまでの苦しさを全部焼いてしまったみたいで、気分が楽になったのだ。結衣から伝わった優しさの熱量と、双葉君に対する不思議な感情が、私を励ましてくれた。

「いいや、私も泳ぐよ。なんかアツいし。そもそも……」

 肩のバスタオルを結衣に返すと、彼女は心配するように見つめてきた。だが、その目があれば、もう十分だった。やっぱり背中には沢山の悪意の視線が注がれてくる気がするが、それでも、その中にも善意が混ざっていることを、双葉君たちが証明してくれた。

 だから、今度こそと、私は口元をほころばせた。

「私は何も悪くないんだから。みんな、ありがと」

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