俺の彼女は笑いたい
広瀬みつか
1限目 春の昼の夢
長く寒かった日々が終わり、温かい春が来た。
生活するのに快適な気温になってきたある春の日の午後十二時三〇分。
新入生たちは新しく購入した制服に初めて袖を通し、心浮かれている。
それぞれの想いが乱れている進学校“私立陽正高等学校”
この校内の一階と二階の階段に当校二年生秋中義人がいた。
生まれつきの赤い髪に鋭い目つきの義人はその第一印象のせいで、周囲から“不良”のレッテルを問答無用に張り付けられている。
しかし、見た目と反し、無遅刻無欠席であり、校則を破ることは一切ない、近年稀な真面目人間であった。
一年の時から授業を真剣に受け、成績は常に十位以内をキープしていた。
“人は見た目で判断してはいけない”という言葉があるが、それを体現した少年である。
しかし、どれだけ真面目であろうと、それを上回る不良オーラが彼を周囲から遠ざける。
そんな不幸を背負った少年義人は一階の食堂で昼食を終え、自分の教室に戻るべく二階に向かう階段を登っていた。
「おーい! 義人ー!」
呼びかける声に振り向くと、二階が立っていた。
体操着に着替えているところを見ると、三限目の体育に向かうようである。
薄く化粧をし、腰まで伸びた明るい茶髪をポニーテールに束ねた少女、皆川遥香であった。
周りから遠ざけられていると紹介した義人であるが、決して友人がいないわけではない。
数少ない友人の中で最も仲が良かったのが遥香である。
彼女は、小学校のころからずっと同じ学校の幼馴染で、彼の内面をよく理解していた。
そのためか、誤解されがちの義人の誤解を解く立場にいた。
そんな彼女に対して、義人は安心感を抱いていた。
「義人! 今日機嫌いいの?」
二階から友人と降りてくる遥香は、一階から登ってくる義人にいつものように明るく話しかける。
遥香は義人に会うたびに、必ずと言っていいほどこの言葉を投げかける。
よくも飽きないもんだと感心する。
「はいはい。機嫌いいですよ」
義人は面倒くさそうに頭を掻きながら、遥香に返答する。
「つうか、毎回それ聞くのやめてくんない? 答えるの、もうそろそろだるいんだけど」
「あはは。だっていつも目つきが悪くて、不機嫌そうなんだもん。聞かないとわかんないでしょ」
彼女の天真爛漫な表情に、義人は少なからず救われていた。
正直な話、このルーティーンともいえるやりとりも悪くは思ってなかった。
日頃から腫物を触るような目で見られている義人にとって、この時は心のもやが晴れるような気分になる。
もし、遥香がいなければ義人の高校生活はより絶望的なものだっただろう。
その点でも彼女の存在はありがたいもんだ。
義人は自分のニヤついているであろう表情を遥香に見られないように、顔を下に向けて階段の一歩目を踏み出した。
その時だ。
「きゃー!」
驚いて上に目を向けると、階段を降りようとしていた女子生徒が上から倒れてきた。
彼女は身体を半回転させて、背中から義人にめがけて落ちてくる。
義人はとっさに彼女の両脇をつかみ、右の二の腕から胸を使い彼女の上半身を支えている。彼自身も後ろに倒れそうになったが、左足で踏ん張ることで、ギリギリ耐えることができた。
とっさに投げた弁当箱が踊り場に散乱しているが、下まで転がり落ちることを考えると安いものだ。
義人は一つ息を吐くと、腕で支えている女子生徒に声をかけた。
「あんた大丈夫か?」
初めて右胸にある女子生徒の顔を目にした。
セミロングの黒髪に白く透明な肌、鼻筋がスーッと通った奇麗な顔立ちで、少し幼さが残っていた。
顔が近いせいか、彼女から漂うシャンプーの香りが義人の鼻をくすぐる。
「あわわ……」
落下する恐怖のせいか、大きな瞳が潤んでおり、頬を薄く赤らめながら小刻みに震えている。
その小動物のようにかわいらしい表情と、手でつかんだ彼女の柔らかい体に、義人は少し戸惑ってしまった。
「ちょっと千沙! 大丈夫?」
十秒足らずの静寂を破るように、遥香が二階から急いで降りてきた。
自分の状況に気が付いたのか、少女は義人から慌てるように離れる。その華奢な身体が折れるかと思うぐらいの勢いで頭を下げた。
「あっ、ありがとうございましたーーー!!」
まるで野球部のグラウンドに対する最敬礼を見るようだ。
同級生の女子に深々と頭を下げられるとなんだかカツアゲをしているようで、悪いことをしている気がした。
「いいよ。大きな事故にならなかったんだから。ほら、頭上げて」
義人は倒れかけた体を起こし、少女に頭を上げるよう促す。
その時、少女は体をくの字に曲げたまま停止し、ブツブツとつぶやいている。
しかし、義人には彼女が何をいっているのか聞こえなかった。
自分の顔を近くで見せたせいで怖がらせてしまったかもしれない。
義人は、自分でも悲しいと思えるほど自虐的な結論を導き出した。
今までもそうだった。車に轢かれそうになった子どもを助けようと、手を引っ張ったらギャン泣きされ、周りから白い目で見られたことがある。
道でカバンから落ちた財布を拾って渡そうとしたら、自分がすったかのように誤解され、危うく警察沙汰になったこともあった。
どれだけいいことをしても、この容姿のせいで結局は悪者扱いされる。そんな星のもとに生まれたんだ。
子どもの頃に聞いたおとぎ話に出てくる心優しき怪物の気持ちを、自分以上に理解できる奴はいないだろう。
「怪我無い?」
遥香が近づき、背中をさすりながら怪我がないか確認する。どうやら彼女は遥香の知り合いだったらしい。
義人は複雑な感情を抱えつつ、顔をかきながら遥香たちを見つめていた。
そうすると少女はいきなり上半身を起こし、義人の両手をつかむ。
突然のことに、義人は上半身をのけ帰らせた。
少女は体を乗り出して、義人に顔を近づける。
「君には絶対このお礼はさせてもらうよ!」
先ほどの恐怖におびえた顔は消えており、明るい笑顔のままお礼を言った。
ここまでの感謝の表現をされることは今までなかったため、義人はどう返事をすればいいか分からない。
隣で見ている遥香は困惑の表情でその風景をただ見ている。
数秒間、少女は義人と見つめ合ったあと、再び顔を真っ赤にする。そして、義人の手を離し、距離を空ける。
「じゃあ、あたしはここで失礼するよ」
今度は軽く義人に頭をさげた後に一階に走り去った。
さっき階段から落ちてしまった反省の色は全く見えない。
身体を硬直させている義人に、置いてけぼりになった遥香が近づいてくる。
「あはは。ちょっと変わってるんだ、あの子。悪い子じゃないんだけどね」
走り去った少女のフォローをする遥香。
義人の事といい、彼女の事といい、きっと遥香はフォロー役があっているんだろう。
「ありがとうね、千沙を助けてくれて。もし義人がいなければあの子大けがしてるところだったよ。友だちとして感謝する」
遥香は義人に軽く頭を下げた。
「さっきの義人、なんだかかっこよく見えちゃった」
頭を下げた少女は顔を赤らめながら、そうつぶやく。
「え?なんか言ったか?」
「ふん。『義人の顔はいつ見ても怖いね』って言ったの」
そういうと、遥香は踵を返して、悠々と1階に降りて行った。
「いきなりなんだよ、あいつ。それ、今いうことなのか?」
義人は頭をかきながら幼馴染の背中を見送ると、階段の踊り場をしばらく眺めていた。
ここで繰り広げられた少し不思議な出来事を実感できていない。もしかしたら夢だったのかもしれないとも思える。
しかし、彼女の身体の柔らかさが未だにその手に残っている。それだけが現実であったことを証明する唯一の証拠だ。
「これが女子の感覚……」
今まで異性と付き合ったことのない義人にとって、それは新体験といえる。
急に自分の体温が上昇する。
義人は自分に活を入れるために、思いっきり自分の頬をたたく。
「いかんいかん。俺は一体何を考えているんだ。こんなことにかまけている暇はない。よし、午後の授業も頑張るぞ!」
自分に言い聞かせるように叫ぶと、教室に向けて階段を上っていった。
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