最弱無害のアンタッチャブル 完全版

水川 湖海

第六章 降臨 その5

 呪詛を唱えると峠守居が俺に覆いかぶさり、全身を包み込んだ。身体が引き上げられる感覚と共に、五感が息を吹き返していく。気がつくと、俺は芝生の上で立ち尽くしていた。

 不思議だ。指一つ動かせなかった身体が、羽のように軽い。薬でぼやけた意識も、今ではしっかりとしている。そして――月光を反射する水溜まりに、俺の姿が映っていた。

 顔に張り付く鴉の面。手に掲げる大錫杖。身体を包む黒い束帯。

 これが……衛境衆の長の姿か。


 俺がカルトになるとは感慨深いものがあるが、それより杏樹だ。杏樹はどこだ!?

 芝生に視線を巡らせると……いた! 数メートル離れた場所で、アガルタに仰向けで抑えつけられている。

 幽世にいた時間は決して長くないはずだが、アガルタが神祖召喚の儀を整えるには十分だったようだ。芝生には既に巨大な魔法陣が敷かれ、呪詛を受けて淡い光を放っていた。アガルタは中央にて、ナイフの切っ先を杏樹に突き立てようとしていた。


「杏樹ッ!」

 呼びかけると、杏樹が虚ろな目をハッとさせた。俺を探して頭を激しくふり、やがて視線が合った。

「御館……様……?」

 杏樹の瞳から、ぼろりと大粒の涙がこぼれる。その涙に様々な感情が詰まっていることが、手に取るように分かった。衛境を継いでくれたことに対する喜び。逃がした俺が戦場に舞い戻ったことへの悲しみ。そして一人ではないことを確信した安堵。

 全てが、こもっていた。


「御館様ぁッ!」

 杏樹が身を跳ね起こそうとするが、アガルタがその背中を踏みつける。

「何でよ……何でアンタばっかり……」

 アガルタが引きつった顔を、やるせない怒りでいっぱいにしている。

「私が……ヤられまくってる時は……誰も……誰も……助けてくれなかったのに……」

 アガルタがナイフを逆手に構えて、杏樹の胸元に狙いを定めた。野郎、神祖召喚をおっぱじめる気だな。させるかってんだ。

 第七沈鎮丸を振るい、アガルタめがけて影の触手を伸ばす。

 ホラ。今まで出していた触手は、やっぱり不完全だったんだ。

 影から飛び出した六本の触手は、芯に骨の鎖を宿していた。どれだけの強度を宿しているのかは不明だが、今までみたいに易々と千切られることはないはずだ。どんなものか、お前の体で試してやる。


「アンタだけずるいのよォッ!」

 アガルタがナイフを振り下ろし、杏樹の着物に切っ先が埋まった。

 間一髪。アガルタがナイフを持つ右腕に鎖が巻き付き、刃が刺さるのを食い止めた。次に両足を鎖が縛り、トドメに空いた左腕も拘束する。アガルタは四肢を鎖で封じられ、宙に磔になった。

 これでもう動けまい。俺が封神弾をぶちこむまで、そこで大人しくしてもらおうか。ってあれ!? 俺の落憑拳銃どこに行った!? おん!? アガルタ! テメェが左手で持ってるリボルバーって、ひょっとして俺のじゃないんですか!? 何パクってんだコラァ!


 アガルタを封神できないなら、杏樹を逃すしかない。残った二本の鎖で杏樹を縛り上げ、手元へと引き寄せた。鎖から杏樹の身体を受け取り、胸元に抱き寄せる。

「杏樹! 無事か!?」

 何でこんなにぐったりしているんだ? 杏樹は身動ぎをするのがやっとで、自分では立つことさえもできない有様だ。さてはアガルタめ、抵抗できないように薬を使いやがったな!?

 杏樹を抱きかかえながら顔を覗き込むと、彼女は悔しそうに唇を食んだ。

「申し訳……ありません……御館様の武功に……泥を塗りました……」

「おい……まさか……」

 杏樹の胸をはだけると、谷間に小さい切り傷があった。それはナイフの先端がつけた、本当に小さい傷だった。しかしながら術式が儀式を始めるには、十分なものだった。


 傷口から血が垂れたかと思うと、出血の勢いを増しながら生き物のようにうねった。噴き出た血は宙で弧を描き、渦を巻きながら魔法陣へと吸い込まれていく。

 腕の中で、杏樹が苦痛にあえぎ始める。全身の血を絞り出さんばかりの出血なのに、杏樹は止めることができなければ、気を失うことすらも許されない。

 生贄は、死ぬ瞬間に意味がある。

 苦痛はより強く、そして長い方がいい。


 アガルタの魔法陣が光り輝き、現世と幽世がつながる。大量の杏樹の血に吸い寄せられるように、陣の中心から眩い何か浮かび上がってきた。

 凄まじい妖気だ。ほんの一部しか顕現していないのに、身もすくむ恐怖が風を伴って全身を撫でつける。

 召喚が……始まってしまった。


 アガルタが唯一拘束を受けていない口で、俺を挑発した。

「どうする? 私を縛ったままだと、世界が変わっちゃうわよぉ?」

「ちく……しょう……」

 アガルタも神格も拘束したいが、影が足りない! 迷っている間にも神格は魔法陣から浮上していき、己が持つ律で世界を組み替え始めている。緑地には濃霧が充満し、日本に相応しくない熱帯植物が芽吹き始めた。それに大地が……緩く傾斜を描いて……。


「マジか……世界を変えるって、これほどの規模を意味するのか?」

 当然の話だが、地球の表面を大地と呼び、太陽は宇宙から世界を照らすものだ。だがこの神格は、地球の内面を大地にするつもりらしい。平たく言えば、地球をスペースコロニーみたいな形に作り替えようとしていやがる。

 大地の傾斜がどんどん大きくなり、地平線という概念が消失していく。やがて防風林に隠れているはずの工業地帯が、地平線から姿を現した。その頃になると、神格の上半身が現世に現れていた。


 巨大な光の球だ。夜を昼に変えてしまうほど光り輝いているのだが、直視できないほど眩い訳ではない。普通の光じゃない。俺の影が、神格の輝きで変容していないからだ。

 球は霞をまとっていて、内部がどうなっているのかいまいちよくわからない。ただその中心には、妖気が鎮まっている箇所がある。恐らくあそこが玉座。座ったものが、神格の律を操れる場所で違いない。

「いでよ! 地下世界アガルタの支配者! 霞みたるスモーキー・ゴッドよ!」


 これ以上はまずい! アガルタの拘束を解いて、スモーキー・ゴッドへと鎖を伸ばす。球体に鎖の先端を突き刺し、俺の影と繋ぎ止めることで浮上を阻止する。

 とりあえず止まってくれたが、あまり長くもちそうにはない。事実ジリジリと、スモーキー・ゴッドが浮上を再開した。

「杏樹! 落憑拳銃を取られた! 他に封神する方法はないか!?」

 杏樹が苦しそうに呻きながら、俺の胸元にしがみつくいた。

「御館様……ご存知かも知れませぬが……第七沈鎮丸は……現世と幽世を繋げる呪物でございます……術士が触れると落憑するのは……その妖気を幽世に送り還して……いるからでございます……」

「じゃあ……スモーキー・ゴッドを影に沈めれば……」

「はい……故にその杖は『沈鎮』丸と申すのです。拘束を解いてはなりませぬ……そのまま影の中に引きずり込めば……神格に幽世へとお戻り頂くことが……できるはずにございます……」


 そうと分かれば、俺はスモーキー・ゴッドに専念すべきだ。

 だがしかし。

「アッハ! ばぁぁぁか!」

 アガルタは拘束が解けるや否や、結界を張り直して分身を展開した。スモーキー・ゴッドを守るようにとり囲んで、肉の壁を形成する。

 その数、約二十体。全ての分身がスチェッキンを構え、銃口を向けてくる。銃声が咆哮を上げたかと思うと、鉛玉が分身の肉壁を貫通して飛んできた。

 ここは芝生。遮蔽物なんてない。ハチの巣にされる。


 ユグノー召喚に使った植物は——ちょうど俺の真後ろにある。植物と俺の影を繋げて、瞬間移動の準備を整える。間一髪。俺は杏樹と共に沈んで、植物の傍らから出現することで銃撃を躱した。

 アガルタが感嘆の口笛を吹く

「私の幻術結界下で術を使えるなんて、流石は衛境衆と言ったところかしら。でもねぇ……今ので拘束が緩んじゃったんじゃないかしら?」

 仰る通り。瞬間移動で余分な妖力を使ったせいで、スモーキー・ゴッドを抑える力が弱まったようだ。あの一瞬で大きく浮上して、半身が顕現してしまっている。

 それだけじゃねぇ。


「いたぞ! 居守了だ!」

「神祖召喚を行っている! 早く止めろ!」

「管内のエクソシストを全員呼び寄せろ!」

 にわかに辺りが騒がしくなる。やがて森の隙間から、白衣の集団が続々と現れた。

 エクソシスト。騒ぎを聞きつけて駆けつけてきやがったか。わらわら集まってきやがって……六組、合計十二人。

 さすがに手際がいいな。発見からものの数秒で、攻撃陣地を構築していく。射手がご自慢のマイクロガンを構えて、二人の補佐人員がシールドで守りを固める。そして補給要員が弾帯を装填した。

 一つの陣地につき、四人のエクソシスト。三つのマイクロガンが設置された。


 ここはアガルタの幻術結界下。俺が神祖召喚を行っていると思われているだろうし、ひょっとしたらアガルタの姿すら見えていないのかもしれない。銃口はアガルタではなく、俺に向けられる。

「あっははぁ! 封神できないんじゃ、この状況はどうにもならないわよねぇ! 諦めて神祖の拘束を解かないと、痛い目見るわよぉ!?」

 アガルタの幻影群が哄笑を上げ、一斉にスチェッキンの弾倉を交換した。

 何か打開策は! 彷徨う視線は答えを見つけられず、杏樹を抱きしめる手に力がこもる。このままだと……杏樹も……俺も――この世界すらも……。


「しかしながら……御館様……いかにして継承の儀を行ったのですか?」

 杏樹が苦悶の呻きの合間を縫って、そんなことを俺に聴いた。「それ今する質問じゃないよね!?」と思わず突っ込みたくなるが、意識が朦朧として上の空になってしまったんだろう。

「わたくしを生贄に捧げなくては……峠守居様とのご拝謁は……叶わなかったはずです……いったい如何為さったのでしょうか……?」


 杏樹の声を聞いていたら、変に落ち着いてしまった。なんとなくだけど、再認識できてしまったからだろうか。

 俺がなぜ戦うかについて。

 これが俺と杏樹が交わす、最後の会話になるかもしれない。

 まぁ……しゃあねぇか。俺以外にこいつを封じることができる人間がいないんだから。俺は腹を括ったぞ。しっかりと答えて、未練を残さず、彼女を守って――逝くか。


 アガルタは生贄である杏樹には手を出せない。そしてスモーキー・ゴッドの召喚はまだ済んでいないんだ。鎖での拘束に加えて、俺の影に沈む能力をプラスすれば――スモーキー・ゴッドを影の中に……幽世に還すことができるかもしれない。

 俺自身も幽世に堕ちちまうが、杏樹と引き換えにできるなら安いものだ。

 もとよりその覚悟で衛境衆を継いだんだ。


 首に縋りつく杏樹の頭を、優しく、名残惜しく思いながら撫でた。

「生贄は必要なかったんだよ。衛境衆を継ぐには、生贄無しで峠守居を喚べる素養。それか杏樹のマヨヒガを受け継ぎ、その責から解放する心意気が必要だったんだ――だから……お前にお膳立てされた俺は、反則で御館様になったのさ」

 だからこれから衛境衆の長に、相応しい働きをしてくるよ。

 決心を固め。スモーキー・ゴッドを睨み。足に力を込める。

 杏樹を芝生に横たえ、一気呵成に駆け込もうとしたところで――か細い腕に強くしがみつかれた。

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