ツーブロックを殴ったら革命が起きた
六野みさお
第1話 ツーブロックを殴ったら
「おい、
俺は目の前の生徒を怒鳴りつけた。
「……ん、どうしました先生」
二次方程式の練習問題を解いていた反田は、書きかけていた解の公式を最後まで書き終えてから、のろのろと俺を見上げた。俺はそれを見て、さらに怒りが募った。
「……ちょっとこっちに来い」
俺は必死に怒りを抑えながらそう言った。反田も二次方程式の理解に苦しんでいる生徒の一人だった。いくら彼が校則違反をやっているからといって、いきなり怒鳴ったのはやりすぎだった。ところが、反田は俺への目線はそのままに、顔だけをわずかに下に下ろし、俺を上目遣いに睨みつけるような姿勢になった。
「何を急に必死になってんすか先生。今は授業中っすよ」
残念ながら、情状酌量の余地はなくなった。
「いいから来いと言っている!」
俺は反田の左腕を掴むと、強引に彼を引っ張って教室から連れ出した。反田は「わー、やめろ先生! 暴力反対!」とかなんとか喚いていたが、こっちの知ったことではなかった。それ以前の問題だった。
俺は反田を生徒指導室に押し込んだ。この部屋を使うのはだいたい一年ぶりーー箒で素振りをしていて窓ガラスを割ったサッカー部の
とにかく、この生徒指導室にやってくるのは、それほどの悪事をしでかした人間だけだった。
「さて反田、どうしてこうなったかわかっているな?」
俺の問いに、反田は面倒臭そうに両手を広げて、存じませんのポーズをした。
「あれっすね。エックスの係数が偶数だったのに、判別式を4で割らなかったからっす」
「ふざけているのか!」
どうやらこいつにユーモアのセンスはないようだった。
「まだわからないのか! お前の髪型のことを言っているんだ! 反田、その髪型はどういう名前なんだ!」
反田は今気付きましたというように、自分の髪に手をやった。
「あー、これっすか? これは巷ではツーブロックっていわれているやつっすね」
ついに反田は自分の罪を認めた。あとはテンプレ、断罪まで一直線であった。
「なるほど。だが、我が校ではツーブロックは校則違反なのだ! 反田、なぜ校則を破った!」
だが、反田は自分が違法であると宣告されても、全く動じた様子がなかった。
「えっ? ツーブロックは校則違反じゃありませんよ」
「なに、そんなわけが……ええっ!?」
まるでそれが当たり前のことであるかのように断言した反田を見て、俺は急に不安になった。俺は慌ててポケットから小冊子を取り出した。
「ええと、確か髪型の規定は、第14条第3項……あれ? やっぱり校則違反だぞ?」
俺が常に携帯している小冊子『改訂版
「反田! なぜ嘘をついた! 校則違反ではないか!」
反田は苦笑しつつ、一、二歩下がって俺から距離を取った。
「おお怖い。そんな冊子を肌身離さず持っているとか、どれだけ校則に染まっているんだか……でもっすよ先生、たとえその本に校則と書いてあったとしても、ツーブロックの項は校則じゃないっす」
なおも食い下がる反田を見て、俺はまたも不安になった。
「まさか……最近校則が変わったとか?」
ところが、反田は首を横に振った。
「そんなわけではないっすよ。つまり、この世界には、こういう不文律があるんす……『理不尽な校則は、守らなくてもよい』っていうね」
俺はぽかんとあっけにとられたが、その数秒後になってやっと怒りが湧き上がってきた。
「な、なんだその勝手な不文律は! 学校の生徒は校則を守らなければならないのだ! なぜならそこに校則があるからだ!」
俺はついに剣幕を変えて反田に詰め寄ったが、反田は全く恐怖の色を見せなかった。
「それそれ、そういうとこなんすよ先生。どうしてその校則があるのかすらまともに説明できないような校則なんて、存在価値がないんっす」
俺は必死に目線を上に向け、頭を働かせた。
「あれだよあれ。ほら、ツーブロックの奴は不良が多いって言うじゃないか。たぶんそれが理由だ」
俺は苦し紛れにそれっぽい理由を思いつくことに成功したが、反田は「うん、絶対そう言うと思っていたっすけど」と、一瞬で反論してきた。
「でもそれって根拠ないっすよね。僕が思うに、先生たちは単に生徒に統一感を持たせたいだけっすよ。生徒の自己判断能力の成長を妨げるだけなのに……言ってみれば、僕たちはまるで独裁国家の軍隊の兵士のようっすね。なんと時代遅れなことか!」
俺は再びむかむかとしてきた。やはりこいつは俺をバカにしている。
「そういう主張をしたいなら、きちんと手順を踏んで、生徒会にでも相談すればいいだろう!」
だが、反田は冷ややかな目で俺を見上げるのみだった。
「無駄っすよ。そんなことをしたって、先生は受け入れてくれるはずがないんっす。去年の生徒会が『学校にスマホを持ってくるのを許可すべきだ』と主張したとき、武田《たけだ》先生はこう言ったっすよね。『スマホを学校に持ってこないのは我が校の伝統である。それを歪めると我が校の威厳と人気が下がる。よって金輪際認めないし、今後その話を出すことは原則禁止する。なぜなら時間の無駄であるからだ』と。これではらちがあかないっすからね。だから俺はいつもここにスマホを入れているんっす。だってバレなきゃいいっすから」
確かに俺は武田だが、とにかく反田は自らスマホを取り出したので、俺は当然手を伸ばしてそれを取り上げた。
「あ! 暴力反対!」
反田が何か叫んでいるのは無視して、俺は続けた。
「さて反田、お前はそのツーブロックをどうするんだ?」
「あの、俺のスマホは……」
「そういうことは今は話していない! ツーブロックをどうするのかと聞いているんだ!」
反田はちょっと考えるような表情になった。
「もし直すと言ったらどうなるんすか?」
「今すぐ床屋に行って切ってこい」
「うーん……それは無理っすね。だって、ツーブロックから髪を減らしてできる髪型って、坊主くらいしかないでしょう。僕は野球部じゃありませんからね。そんな恥はかけません」
「確かにお前はバスケ部だが、問答無用だ! とにかく今すぐ切ってこい!」
「あれ、でも直さないという選択肢もあるんじゃなかったっすか?」
「その場合俺が切る!」
「へ!? 先生床屋の資格あるんすか?」
「ない! だが切る!」
「それ校則に書いてあるんすか?」
「うるさい! とにかく、俺の言うことを聞くのか聞かないのか、どっちなんだ!」
俺は反田の襟首を掴んで揺さぶったが、反田はやはり冷めた目で俺を見返しただけだった。
「そうっすね……こういう不文律もあるわけっす。『理不尽なバカ教師には、生徒は従わなくてよい』ってね」
「なんだと! もう一度言ってみろ!」
「ええ、何度でも言いましょう。理不尽なバカ教師にはーーぐはっ!」
俺は反田の頬をひっぱたいた。反田はふらふらとよろけて尻餅をついたたが、やはり何事もなかったかのように立ち上がった。
「ですから先生、僕は暴力反対だとーー」
「なんだと! よくも俺をバカと言ったな! もうこうしてやる!」
俺は反田のスマホを窓から投げ捨てた。
「あーっ、俺のスマホが!」
「そんなことは知らん! とにかく、その髪型を直すか直さないのか、イエスかノーか!」
「もちろんノーだ!」
「なんだと!」
俺が反田に二発目を喰らわせようとしたときだった。
「武田! 何をしている!」
突然の声に俺が驚いて振り向くと、そこに一年主任の
「武田! お前は反田に体罰を加えたな!」
「違う! これは反田が俺に挑発的な言動を取ったせいだ! 到底許しておけるものではない!」
だが、佐久間は勝ち誇ったように、自分のスマホを掲げた。
「いかなる場合にあっても、教師は生徒に暴力を振るってはならない! これは法律である! ちなみに今の一部始終は、私のスマホに全て録音されている!」
そして、佐久間はそのままにこりと笑った。
「お疲れ様でした、武田先生」
俺はへなへなとその場に崩れ落ちた。
⭐︎
「武田先生!」
電車に乗り込もうとした俺に駆け寄ってくる人影があった。
「ああ、嬉野か。……なんでまたこんなところに」
嬉野はがっちりと俺の手を握った。
「だって、俺は信じられないんですよーー先生が懲戒免職になるだなんて! 先生が体罰なんかやるわけないーーきっとこれは何かの陰謀で、先生は無実なんです! そうですよね先生! 俺は先生を無実にするためならなんでもしますから! 授業をボイコットして教育委員会の前で座り込みしますから!」
嬉野は勢い込んでまくし立てていたが、俺はその気持ちに応えることはできそうになかった。
「嬉野、気持ちはわかるが、俺が反田を殴ったことは事実なんだ。いかなる場合であっても、生徒に暴力を振るってはいけないーー俺は間違えてしまった。それだけなんだよ、嬉野」
俺はあの日のうちに免職になった。警察沙汰にならなかったのは奇跡のようなものだった。ちなみに、俺の妻はその日のうちに、二人の子供をつれて家出した。曰く、『私はそのような男と結婚した覚えはありません』ということだ。さらには、あの妻は俺たち共通の口座から大部分を抜いていきやがった。だが、文句を言う気力は起きなかった。俺の人生は、あの日でほとんど終了したのだーー今の俺は、抜け殻のようなものだ。
「先生、それは被害妄想ってものですよ! 反田なんか、宿題は出さないし、授業中は寝ているし、札付きの不良じゃないですか! それに、佐久間先生は教頭の座を狙っていて、武田先生を蹴落とそうとしていたって噂もあります。この事件は、佐久間先生が反田をたきつけて起こしたものに違いありません!」
嬉野の言うことは事実かもしれなかった。二年主任の俺は来年は教頭に昇進するとささやかれており、俺より年上なのにまだ主任に留まっている佐久間は俺に嫉妬しているといわれていた。だが、事態はもはやその域を超えているのだった。
「たとえそうだとしても、俺の罪は変わらないんだよ、嬉野。それより、お前たちサッカー部を出場停止にしてしまって、本当に申し訳ない。もうすぐ大会だったのに……」
俺が顧問を務めていたサッカー部は、俺のせいで課された制裁によって、3ヶ月間の出場停止を拝領していた。嬉野も最近は試合に出ることが多くなり、そのひょうきんな性格からの人気もあって、現在、彼はサッカー部の主将になっている。俺は嬉野に会わせる顔がなかった。
「それはいいんです。夏の大会までには制裁は解けますから……俺たちは先生の教えを受け継いで、全力を尽くします。でも先生、俺は悔しくてならないんですよ。なんですか、あの毎日のメディアの報道は! まるで反田が、暴力に屈せずブラック校則に異議を唱えた英雄のような扱いじゃないですか!」
俺の事件はなぜか全国区で大ニュースになり、反田は毎日のように取材を受けていた。
おそらく佐久間が編集したのだろう、流出した音声にはほとんど俺の怒声だけが流れ、反田の尖った反抗的な声はほとんどなくなっていた。反田は嬉々として取材に応じ、理不尽な校則は守らなくてもよいという持論を展開していた。そして、どのテレビ局や新聞もこぞって反田を支持し、あろうことか、反田が学生運動の首領に成り上がりそうな様相を呈していた。
「あ、先生、これを受け取ってください」
嬉野が何かを差し出してきた。見ると、それはヒビが入ったスマホであった。
「なんだこれは?」
「先生が落とした嬉野のスマホです。俺が先生を見送りに行くことを聞きつけた反田が、昨日押しつけてきたんですよ」
「しかし、なぜこれを? どうせ壊れているだろう」
「反田が言うには、これを見て先生に自分の罪を思い出してほしいそうです」
俺は吐き気がしてきた。
「なんだその厨二っぽい理屈は」
「俺に言わないでください。まあ、別に受け取らなくてもいいですけどね。その場合俺がどこかに捨てておきますから」
「いや、貰っておくよ」
俺はそのスマホをカバンに入れた。よく考えれば、反田の言うとおりだった。俺がこれまでの高圧的な教育方針を根本から変えるには、そうでもして自分の過ちを徹底的に自分に教え込むしかない。なにより、そうやって人の言うことに耳を傾けないのが、俺の一番の欠点なのだから。
「とにかく、先生ーー」
嬉野が何か言いかけたそのとき、俺の後ろで電車の発車ベルが鳴り響いた。
「おっと、そろそろ時間だ」
俺は電車に乗り込んだ。すぐにドアは閉まり、電車はゆっくりと動き出した。俺は手近な窓を急いで開けた。
「先生、お元気で!」
嬉野が時代遅れにも、電車と一緒に走りながら叫んだ。
「そっちこそだ。ありがとう嬉野。俺はお前が来てくれるとは思っていなかったーー」
電車はどんどんスピードを上げていったから、俺の言葉がどれほど嬉野に届いたかはわからなかった。だが、嬉野はホームの端に立って、電車が角を曲がって俺から駅が見えなくなるまで、いつまでも手を振っていた。
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