学生時代、家庭教師のバイトで面倒をみていた教え子らがいつの間にか出世しすぎていた。

夏乃実(旧)濃縮還元ぶどうちゃん

第1話 伝説の彼

「うーん。ちょっとこれはマズいねえ。結構追い詰められてた感じもしたし……」

「家庭教師側に非があるわけではないですから、なおさらでしょうね」

 こぢんまりとしたオフィスの中。

 ここは地域密着型の家庭教師を派遣している会社である。


 若い女社長と若い女副社長。

 この二人を悩ませているのは、派遣した一人の家庭教師の悩み。

『勉強を教えようとしても心を開いてくれない』という内容を直接相談されて、である。


 家庭教師を依頼する理由は主に三つ。

 学力をもっと向上させたいから。

 自宅で充実した勉強をしたいから。

 そして——なにかしらの事情で学校に行くことができなくなったり、行きたくなくなったから。

 前二つの理由ならば生徒と打ち解けられるスピードは速い。仲良くなれるスピードも早い。なにより信頼関係を早期に築けるが、後者の場合、なかなかそうはいかない。


「とりあえずアフターケアのメールを入れて、親御さんとはご相談のスケジュールを立てておこっか。家庭教師と生徒さんの相性もあるから、変更も視野に入れる形で」

「わかりました」

 素早い対応。寄り添う姿勢。問題解決への行動。

 これこそがこの会社の業績が上がっている理由であり、地域からの信頼や評価を高めている理由。


「……いやあ、ちょっと悩んでいる子が増えてきたし、苦境に入ってきたかもねえ。家庭教師になりたい子をもうちょっと雇わないとかも?」

「確かにその解決策もありますが、依頼数が大きく増えているわけではないので、運用が難しくなりますよ。依頼がもらえず家庭教師側の不満が積もると言いますか」

「まあねえ……」

 これが経営の難しいところ。

 解決の一手を掴めない女社長は頭を悩ませながら、ボソリと呟くのだ。


「2年前に辞めた大学生の彼が、今この場にいたらなあ……」

「今無いものを求めても現実は変わりませんよ。わたしも同じことを考えていましたが」

「あははっ! やっぱりそうだよね」

 少し重たい空気が、この笑い声によって霧散される。

 二人は懐かしむような表情を作り、話を広げるのだ。


「彼は過去一で飛び抜けていたからねえ〜。不登校で塞ぎ込んでた子も、不良やんちゃな子も、勉強が嫌で家庭教師から逃げ出すような子も、全員と打ち解けるだけじゃなくて、しっかり学力も向上させて」

「こちらへの報告、連絡、相談も完璧でしたよね。初めての仕事とは思えない……という話を何度もした記憶がありますよ」

「特に扱いが難しそうって思った子はとりあえず彼に任せたっけ?」

「そうですね。本当によく頑張ってくれました。当時、一番大変だった家庭教師は彼で間違いないでしょう」

 ほぼ一人で問題を解決してくれたおかげで、会社の評判を上げてくれた。経営の軌道に乗せてくれた。

 この会社の究極のピンチヒッター。

 そんな役割を担っていたのが、『彼』なのだ。


「彼がいなかったら、正直ヤバかったよね?」

「競合他社に負けていた可能性は十分にありましたね」

「ひぃ〜」

 そんなおちゃらけた声を出す女社長だが、その顔は見事に引き攣っている。

『絶対に負けていた』そう思っているような表情でもある。


「や、やっぱり、彼のような人を一人でも多く手札に持っておきたいよね……。安心して運営に力を入れることも出来るし」

「さらに言えば、誰よりも扱いやすかったですからね。難しい派遣ばかりさせていましたが、疑う様子もなく淡々とこなし……」

「(会社的には仕方のないことだけど)悪いことをしちゃったね? 重要な役を任せてたのに、お給料はみんなと同じに設定してたから」


「後ろめたく思うことはないと思いますよ。彼が卒業する際、退職祝いと言う名のプレゼントで恩返しをしましたからね」

「まあねえ。あと大事にしてくれてると嬉しいね〜」

 今までで彼だけである。退職祝いと言う名のプレゼントを渡した人物は。

 二人でお金を出し合ってプレゼントをしたのは、二桁万円するブランドの腕時計と、名前入りのペン、銘菓めいか菓子である。

 それほどの大金を費やしてもなお、お釣りがくるほどの活躍を彼は行ったのだ。


「ねえねえ、久々に顔も見たいし、ヘルプを出してみる?」

「そうしたいところですが、良い方向には転がりませんよ」

「えっ?」

「辞めた理由が『高校教師になるから』ですから」

「それがどうしていい方向には……って、あっ! 公務員は副業禁止かぁ……!! じゃあ抜け道を探して……」

「それだけはやめてくださいよ、社長」

「じ、冗談だって……」

 副社長から鋭い視線を向けられ、両手をパタパタしながら誤魔化す社長である。


「まあ、彼なら立派に先生をしていることでしょう。断言できるほどですよ」

「家庭教師の実績からするに、そうとしか考えられないよね〜。人気教師になってるよ、絶対。生徒から告白されてるよ、絶対」

 うん、うん、と頷きながら軽口を叩く社長に一言。


「さて、わたし達はそろそろ現実と向き合いましょうか。逃げてばかりだと先に進みませんから」

「え、これからが面白いところでしょ!?」

「社長」

「はぁい……」

 ドスの効いた声に観念する社長は、しょんぼりとした後、すぐに表情を真剣なものに切り替えるのだった。



 その同時刻。

 二人から噂をされるその彼は——「はっくしゅん」と大きなくしゃみをするのだった。

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