ゆきやみをまちながら

@Jukutomato

壱 ユキ

「ねぇ、小父様おじさま? あたしを拾ってくださらない?」

 最初、司城しじょうは子猫が鳴いているのだと思った。それ程にか細い声で呼びかけられたのだ。

 声のする方へ顔を向けると、裸足の少女が司城を見上げている。所々汚れた勝色のセーラー服を見るに女学校の生徒であろう。

「拾ってくれたら、あたし何でもしてあげるわ。嘘じゃなく、本当によ」

 こんな雪の日に、それこそ猫ですら外へ出ない様なこんな寒い日だというのに、少女の紡ぐ言葉は一つも震えていない。

 蜜よりずっと甘く、綿よりずっと柔らかい声。薄紅色に染まった頬に、白い息が薄く幕を引いては消えていく。

「小父様ってば、お口は無いのかしら? あたしがこんなに頑張って話しかけているのに」

 少女はふぅ、と息を吐いて自分のおさげをいじり始める。

「酷いわ。あたしの事、知らんぷりするつもりなのね。あたしが野垂れ死んだら小父様、後悔するといいわ」

「どうして乃公おれが小娘一人見捨てたせいで後悔しないといけねェンだ?」

 司城がそう返すと、少女は嬉しそうに笑う。

「あら良かった、お口はあったのね」

 少女はそう言って立ち上がると、司城の腕に抱き着く。司城は眉をひそめて少女の腕を振りほどいた。

「やめろ、野良を拾う趣味はねェよ」

「野良だなんて、失礼ね。これでもちゃんと飼われていたのよ、あたし」

 睨む司城の視線も意に介さず、少女は再び司城の腕にしっかりと抱き着いた。

「それに、あたしの事を見つけたのだからその責任はとって貰わなくちゃ」

 さあお家に帰りましょ、と言って司城の顔を見上げ、にっこりと笑う。


++


「小父様、顔は怖いけど優しい人なのね」

 少女は毛布にくるまりながら湯飲みを両手に持って、火鉢の前で満足そうに鼻を鳴らした。

 結局あれから、少女は司城の傍を離れずついて来た。家の前まで来られてしまっては、捨てたままにもして置けなかった。放って置いて玄関先で死なれては目覚めも悪い。

 司城は文机に向かい原稿用紙にペンを走らせながら、少女の方は見ずに言う。

「それ飲んだらさっさと帰ンな」

「まあ、冗談はやめて。こんな雪の中何処へ帰れって仰るの?」

「お前の家に決まってンだろ」

「家なんてもう無いわ。あたしは家を出たんだから」

 司城は原稿用紙から顔を上げて怪訝な顔で少女を見やる。

「お前、家出したのか」

「ええ」

「何で」

 先程まで饒舌に喋っていた筈の少女は、途端に口を噤んで一言も答えなくなった。

 司城は暫く少女を見ていたが、答えが返らないと察して溜息を吐きながら再び原稿用紙に向かった。

 部屋はしんと静まり返り、時折火鉢の中ではじける火種の音だけが響く。

 やがて、少女は立ち上がって司城の文机の前までやってきてぺたりと座る。司城が顔を上げると、何の表情も映さない少女の目と視線がぶつかった。

 少女はしゅるりとセーラー服のスカーフを外して上着を脱いだ。

「お前、何……」

 何をしている、と問いかけようとした司城の言葉は結局最後まで出てくる事はなかった。

 シュミーズから覗いている少女の白く細い腕には、いくつも青痣がついていた。司城が呆気に取られている間に、少女はシュミーズを胸元近くまでたくし上げ、その腹にも腕と同じ様に痣があるのを見せた。

「帰りたくないの」

 少女の声が初めて震えた。

「ねぇ小父様。お願いよ。あたししてあげる。よ。だからここへ置いて」

 少女はそう言ってシュミーズも脱いだ。司城の目の前に曝け出された少女の痣だらけの上半身が、小刻みに震えた。

「――服着ろ」

 司城はそう言ってペンを置いた。少女が不安そうに司城を見る。

「雪が止むまでだ。それまでは家事も炊事も全部やって貰う」

 少女の顔が見る見る間に笑顔になる。

「ありがとう小父様!」

「だが少しでもおかしな事をしやがったら直ぐにでも叩き出してやンぞ、いいな?」

 勿論よ、と頷く少女。それで、と司城の言葉がその後を追う。

「お前の名は?」

「え?」

「名前だ、名前。まさか名乗らねェつもりか?」

 司城の言葉に少女の顔が再び曇る。

「……あたし、あの名前は嫌いなの」

「はァ?」

「ねぇ、小父様? 小父様があたしに名前を付けてくださらない? 小父様、物書きなんでしょう?」

 服を着ながらそう言う少女の言葉を聞いて、司城は眉間に皺を寄せた。

「お前、人の家に居座るだけじゃ無くて名前まで分捕ろうってか?」

「ここにいる間借りるだけ。必ず返すから。ね、良いでしょう?」

 甘えるような少女の声が司城の背中を擽る。司城は思わず声を詰まらせた。

「……ユキ」

「え?」

「ユキだ。お前の名前だよ」

 ユキ、と何度も呟いて、少女はうっとりと目を瞑った。

「素敵だわ。ね、小父様? あたし、この名前とっても気に入ったわ」

「ああ、そうかよ」

 やがてユキはあせあせと居住まいを正して、ぺこりとお辞儀をした。

「初めまして、小父様。あたし、ユキって言います。小父様は?」

「あ?」

「小父様のお名前よ」

 にこにこと笑うユキの顔を見つめながら、司城は口を開く。

「司城……司城宜達ぎたつだ」

「宜達小父様ね? 宜達小父様、これから仲良く致しましょうね」

 ユキの蜂蜜の様な綿の様な声が、ぱちんと弾けた火鉢の火種よりも大きく部屋に響いた。

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