命を握る
榎木扇海
第1話
ティムとそのクラスメートは、非常に稀な状況に置かれていた。
ティムのふたつ前の席に座っている茶髪の女の子の眼前には、大きくて重そうな片手銃が向けられていた。そういうのに疎いティムにはその機種がわからないが、命を危ぶめる存在であることは疑う必要さえなかった。
ティムの住まう国は、欧米では目を引くほど、銃やらなんやらの危険物の規制が恐ろしく厳しい。その国でこの銃を手にしているというのは、それこそ頭上に隕石がふってくるほどイレギュラーだった。
しかしなにを言おうとも、目の前に銃があるのは事実だし、それを持っているのがクラスメートのフィルッセンであることも事実なのだ。
警官でさえ持たないとされる銃を、たとえ持っているのが非力な少年であろうと、いざ手にされた瞬間に担任はこのクラスを放棄した。ドアの外で校長とともにおずおずと覗き込んでいる。
そして不運なことに、今日という日に限って、この学校で唯一拳で解決しようとする脳筋体育教師は出張で学校にはいなかった。いや、だからこそ今日を選んだのかもしれない。
だとしたら、彼の用意周到さに脱帽する。
フィルッセンは物静かで不細工な男だ。年の割に体が小さく、いつもおどおどしている印象があった。ティムは、いや、このクラスの全員が、彼を苦手としていた。
その彼が、まるで教科書を取り出すかのように銃を取り出したことに、誰も気づかなかった。黒く大きなその存在に怯えていたのは当のフィルッセンだけであった。
しかし次の瞬間、教室の端のほうからあふれた奇声に全員の目が集まった。そして気づいた。写真でしか見たことがなかった「銃」なるものが自身に向けられていたことに。
ティムは初めて、フィルッセンという人間に意識が向いた。
この未体験の状況に動揺しているティムの目からみてもわかるほど、フィルッセンは怯えていた。その反応は銃を向けられる側にふさわしいとさえ思えるほどだった。
フィルッセンの青い目は、ともかく全員の動きを確認したいと言っているかのようにふらふら揺れていて、その唇は色を失くしてわなわなと震えていた。
自分よりも怯える彼に興味が削がれたとでもいうように、ティムはじっとフィルッセンを見つめていた。
しばらく震えたまま、銃口を泣きじゃくっている少女に向けていたフィルッセンは、突然としてその向きを変え、45名のクラスメートへ順番に向けた。あの震える指からは考えられぬほど正確に眉間を捉えていた。だからこそその太く丸っこい指が何かの拍子に引き金を引きやしないかと、その場にいる全員がおびえていた。
フィルッセンは、大きく深呼吸をして、がばっと口を開けた。
「僕に逆らったら、殺す」
もはやすでに共通の認識であったことを叫んだ。しかしその声があまりにまっすぐであったことに、ティムは動揺を隠せなかった。泣く寸前のような顔からは考えられないほど冷静なものに聞こえた。
「これは、僕の復讐だ」
それもすでに共通の認識だった。そうでなければただのサイコパスだ。
「お前らは、僕にどんなことをしていたか憶えているかっ!?」
ついに分厚いまぶたの下から涙がこぼれ始めた。しかし誰の頭にもフィルッセンの問いに対する具体的な答えは持っていなかった。
だれも、なにも思いつかなかったのである。
「僕は、絶対に許さないぞ。いつか必ず復讐してやると思っていたんだ」
誰一人まともな反応を示さなかったことにもどかしそうに、その指にぎゅっと力を込めた。
「・・・まずは、ガードル、お前だ」
ガードルはがたっと机に膝をぶつけ、フィルッセンのほうを見た。フィルッセンの目にはそれが反感を表しているように見えた。
「お前が、お前が、みんなを騙して、僕としゃべらせないようにしたんだ!僕は知ってる。お前みたいに馬鹿じゃない!僕がひとりでいるのをみて笑っていただろ!?」
彼はまっすぐガードルへその銃口を向けた。一切ブレない銃身を見る限り、彼は相当練習を積んでいたのだろう。持っていることを隠すことで精一杯だっただろうに、あまつさえ練習までしているとは。彼の苦労に感服するとともに、その執念深さに悪寒が走った。
「ちょ、ちょっと待てよ」
バンと机を叩いて立ち上がった命知らずは、ガードルの友人であるミヤーリスである。
「ガディがそんなことするわけないよ、だって、こいつ人見知りなんだぜ?」
そうなのだ。ガードルは過度のあがり症で、他人と話すだけで手足の震えがとまらなくなるほどの人見知りだった。彼がまともに話せるのはミヤーリスくらいだった。
「うるさいうるさいうるさい!おまえらがつながっていることはわかっているんだ。虚言ばっか言って僕をひとりにして、みんなで口裏合わせてるんだろ!?全員殺してやる!!」
フィルッセンの口からその言葉が出た瞬間、ティムの心に何かがよぎった。
ここ最近、彼の心を悩ませてやまなかった何かである。
彼はすっくと立ち上がり、そしてフィルッセンのほうへ歩み寄った。フィルッセンは戸惑い、おもわず怯んだ。そのうちにティムは彼のすぐそばまで近づいていた。
「ちょっと待ってくれよ、フィルッセン」
フィルッセンの眉間に皺が寄った。ティムはすこし顎を引いて眼鏡の奥の細い彼の目を見た。
前述のように、この国では危険物が厳しく規制されている。保持や使用なんてもってのほかである。だが、それでもなおフィルッセンは銃を手にした。このイレギュラーに目を向けると、彼に不可能がないかのような幻覚を見てしまうが、彼が銃を手にしたからといって、その弾を大量に持っているという確証はなかった。むしろないという可能性のほうがずっとずっと高い。
ならば、弾には限りがある。
「ガードルなんかじゃなく、俺を撃ってくれよ」
フィルッセンが銃を手にして以降消え失せていたざわつきが初めて教室中に広がった。
ティムは、悩んでいた。彼の、その醜い姿について。その怠けた性格について。その悪い頭について。親について。恋について。癖について。未来について。過去について。死について。
つまり、そういうことだった。
「勇気が出ないんだよ、なぁフィルッセン。ガードルなんかに弾を使う前に、この俺を確実に殺してくれよ。もう二度と、こんな世界を見なくて済むように」
深い池の前に立とうと、車の多い通りに立とうと、この学校の屋上に立とうと、ティムの強い恐怖が、彼の魂を抱きしめて離さなかった。
しかし今、その恐怖が底をつき、小さな好奇心だけが彼を動かしていた。
「殺してくれよ。どうせ全員殺すんだろ?順番なんてどうでもいいじゃないか。俺を一番に殺してくれよ」
全員分の弾があるなんて限らない。いま、この機会を逃して何になる。
ティムはおもわず笑いそうになった。夢がすぐそこにあるような気がした。
フィルッセンは戸惑いつつも、ティムに銃口を向けた。しかしそれは先ほどとは打って変わって、ぐらぐらと揺れていた。息が浅く、顔が赤かった。
フィルッセンの心に、小さな気持ちが湧きあがったのである。
つい先ほどまで微塵も存在しなかった思いである。
恐怖と似て、全く非なるものである。
ぽっとろうそくに火がつくように、彼の心にうまれたのは、罪悪感だった。
フィルッセンの頭の中に、突如として、ティムを撃った後の…人を殺めたあとの光景が鮮明に流れ始めた。何度も頭の中でもみ消してきたものが、噴出するようにあふれ出してきたのだ。
フィルッセンはがくがくと震え、怯えた目でティムを見た。
ティムの死を望む目は、冷静に彼を見下すものに見えた。
フィルッセンの手から、黒い銃が大きな音をたてて落ちた。
「ごめんなさい・・・」
ひよわな彼の声を引き金に、わぁっと教師が流れ込んできて、彼を取り押さえた。
その後フィルッセンは警察に突き出され、銃の所持やら恐喝やらとにかくたくさんの罪で起訴されて、わりとすぐに判決が下された。
死刑である。
この判決は人ひとり殺すことよりも、銃を所持していることのほうが大罪になるのだと言うことを国中に知らしめるよい機会となった。
誰一人殺していない臆病な少年の命は、事件の三年後、無残にも散った。
そしてフィルッセンが死刑宣告されてから一か月後、ティムは家族で海外旅行を楽しんでいたところ、単なる好奇心から生まれた無差別殺人に巻き込まれ、命を失った。
この世界に希望を抱き始めてすぐのことだった。
ティムは散弾銃を向けられながら、フィルッセンに殺されたかったと強く思った。
命を握る 榎木扇海 @senmi_enoki-15
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