第15話 賭けの決着
ヴォルフは構造を知り尽くした離宮の、1階の使用人室の窓を突き破って建物の中に入ることに成功した。階段を2段飛ばしに駆けあがり、居室のドアを開ける。しかしその扉はそのまま離宮の玄関扉であり、前庭から真っ直ぐに冥府の王が突撃してくるのを危うく避ける。冥府の王はそのままホールの壁に激突する。建物が大きく揺れた。ヴォルフは玄関から前庭に走り出る。
「ああくそ、姫さままで後一歩だって気がするのに」
この世界は既に冥界の一部なのだ。目に映るものは見たとおりのものではない。それでも、どこかでアウゲのいる場所に繋がっているはずだ。問題は、その入り口がどこにあるかなのだ。
「そなたは本当に奇妙だ」
土埃の向こう側から聞こえてきたその声は、冥府の王のものではなかった。
「人族の感性で、この者が美しいということはわかる。その美しさを愛でていることも。それにもかかわらず、同じ姿をした人形では嫌だという。理解に苦しむ」
立ち込めていた土埃が左右に刷毛で掃いたように払われ、その向こう側に立っていたのはアウゲだった。いつものように黒一色のドレスを身につけ、しかしながら手には剣を握っている。ヴォルフの剣と全く同じものを。
「あのさあ、冥府の皆さんさあ……」ヴォルフは手の中の剣をくるりと回した。「気安く姫さまになりすぎなんだよね」
「この姿に殺されるなら本望であろう」
アウゲの姿を借りた冥府の王が言う。
「その気遣い、まったくもっていらないな。きみたちは本当にわかってない。そりゃあ、姫さまは世界で、あ、世界っていうのは現世と魔界と冥界を合わせたところって意味だけど、一番麗しいよ。でも、おれが、そのことだけで姫さまを愛していると思ってるの? おれが姫さまの何を愛しているのか、きみたちはわかってない。だから、頑張って化けてるけどおれを欺くことができない」
アウゲの姿を借りた冥府の王が迫る。走っているのではない。地面の上を、僅かに浮かんで、滑っている。
真正面から振り下ろされた剣をヴォルフは受ける。隙だらけの大振りだったが、だからと言ってカウンターの一撃を見舞うことはヴォルフにはできなかった。相手もそれがわかっている。
「そう言いながら、お前に今の私を斬ることができるのか? できないだろう。私が何者であるかわかっているにもかかわらず。お前は本当に奇妙だ」
鍔迫り合いながら、冥府の王がアウゲの顔をぐっとヴォルフに近づける。
「そうかな」
ヴォルフは言う。見た目はアウゲであるにも関わらずその膂力はアウゲのものでは到底ない。気を抜くと押し込まれる。当然だ。冥府の王はヴォルフを殺してアウゲを奪うつもりなのだから。殺す気でいる相手をいなすのは、相当の実力差がある場合を除いて、容易ではない。
「容姿は問題ではないと言いながら、しかしこの姿の私を斬ることができない。矛盾に満ちている」
冥府の王はアウゲの姿を真似ているが、その顔は全くの無表情と言って良かった。アウゲがどういう表情をするか、冥府の王は知らないのだとヴォルフは思う。
「わかってないな」
ヴォルフは力をこめて偽物のアウゲを、冥府の王を押し返す。
「母上風に言うなら、きみは情緒ってものを全くわかってない」
「理解する必要がないことを理解するつもりはない」
冥府の王は距離を取る。
「わぁ、うちの蜥蜴執事より頭が硬いや。まあいいよ、わかってくれなくて。どっちにしたって姫さまは返してもらうんだから」
「しかし、私とどう戦う? この私と」
声音は楽しげであったが、その表情は硬いままだった。
「とりあえず、その顔はやめてもらおうかな……姿を現せ」
ヴォルフは力をこめて言う。しかし冥府の王にはその言葉は通じなかった。
「無駄なことを」
冥府の王は剣を打ち下ろす。
さっきのような隙だらけの一撃ではない。ヴォルフはかろうじて剣で受けた。続いて、第二撃、第三撃。アウゲの姿に対して攻撃したくないなどと言っている余裕はない。殺されないようにするだけで精一杯だ。徐々に追い詰められ、次の攻撃を受ける余裕が失われていく。
斬りあげる刃を受けきれず、ギィン!と剣が鳴りヴォルフの手から離れる。弾き飛ばされた剣の行方を目で追う暇もない。アウゲの姿をした冥府の王の必殺の一撃が迫る。しかしヴォルフは目を閉じたりはしなかった。
ヴォルフに刃が届かんとするその刹那、青い光がヴォルフを包む。
ヴォルフを斬るはずだった剣は、青い光の盾に触れるとガラス細工であったかのようにひび割れ砕け散った。ヴォルフは地面を転がって剣に手を伸ばす。
「あくまでも私を拒むか、現世の青い薔薇よ……!」
忌々しげに言うその声は、既に元の冥府の王のものだった。姿も漆黒の冥府の者に戻っている。剣を拾ったヴォルフは冥府の王の胴を横薙ぎに払った。
「グゥ……ッ」
冥府の王が呻く。切り裂かれた胴に見えるのは傷口ではなく、別の景色だった。ヴォルフは迷わずその傷口に腕を突き入れる。
ぐっと引き込まれる感覚。ヴォルフは冥府の王の傷口に飲み込まれた。
「……っ」
空中に投げ出され、受け身を取る暇もなく肩から落ちる。落ちた場所は見慣れた所だった。離宮の玄関ホール。
ヴォルフは痛みも忘れて素早く立ち上がると、階段を段飛ばしに駆け上がる。
「あっ、そこはだめ!」
居室のドアに手をかけたヴォルフは、中から聞こえてきたアウゲの声に思わず動きを止めた。
「どうして考えもなしにそんなところに駒を置くの? それではあなたは次の私の手で負けてしまうじゃない」
「いえあの、ですから、もう私の負けですと先程から……」
「だめよ、そんなの。負けを認めたら、負けるのよ」
「降伏を認めないなど、なんという苛烈な将軍なのですかあなた様は……」
ヴォルフはため息をつき、一呼吸置いて、そっとドアを開ける。
アウゲは冥府の宰相とテーブルを挟んで座り、ゲームをしていた。驚いてこちらを振り向いた顔が見る間に笑顔になる。
「ヴォルフ……!」
ヴォルフも思わず笑顔になり、アウゲに駆け寄る。アウゲがきちんと立ち上がるより早く、引き上げるようにして抱きしめた。間違えようのないアウゲの香り。
「姫さま、遅くなってすみません。……怖かったですか?」
目を閉じて、アウゲの首筋に顔をうずめながら問う。アウゲの答えを待つ間、鼓動が早まり、腕に力が入る。
「いいえ、平気よ」
アウゲがヴォルフを抱き返しながら答える。アウゲはほとんど即答のタイミングで答えたが、ヴォルフには永遠に思えた。ああ、ようやく辿り着いた。それでもヴォルフは確かめずにはいられない。首筋から顔を上げて、アウゲの薄い水色の目を覗きこむ。
「……動くな」
唐突なヴォルフの言葉に、アウゲは不思議そうな顔をして僅かに首を傾げる。
「なぜ? ……何かあるの?」
それを聞いたヴォルフは力が抜けて、アウゲに縋りつくようにして膝から崩れ落ちる。
「どうしたの、ヴォルフ!? ねえ、どういうことなの? 何があるの?」
アウゲは戸惑いながら、膝をついてしまったヴォルフの頭を胸に抱き寄せる。
「ああ、姫さまだ……ようやく会えた」
ヴォルフの両目から涙が流れる。
「会いたかった、姫さま」
「私もよ。会いたかったわ」
アウゲも膝をついて、2人はそれ以上の言葉もなく抱きあう。しかしその時間は長くはなかった。再会を喜びあう恋人たちの温かな空間に、冷たく重く湿った冬の風が吹き込む。
気配を察知したアウゲはヴォルフの腕の中から素早く立ちあがった。
「賭けは私の勝ちよ。冥府の王よ、約定を果たしなさい」
アウゲは毅然と言う。しかし冥府の王はそのような言葉には耳を貸さない。
「現世の青い薔薇よ……! 私のものにならぬのならば、死ぬがいい!!」
冥府の王の猛り狂った絶叫。アウゲを引き裂かんと冥府の王の鋭い爪が迫る。
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