詐欺師・雫(しずく)の善行
issei_sema
第1話
雫(しずく)は道の途中で脚を止め、ほっと息を吐いた。
やはりスーツケースぎっしりの札束は、かなり重い。さらには車輪が壊れているので思わぬ方向に動いてしまい、余計に力を使う。けっこうな重労働だ。
斜めがけにした黒革のカバンからハンカチを取り出した。額に当てる。今日は十一月にしては気温が高い。少し西に傾いた午後の陽が眩しかった。
雫はふたたび歩きはじめた。
道路のぎりぎりまでに張り出した小さな民家が、狭い道の両側に並んでいた。それぞれの家の前には、住人が出したであろう椅子や自転車が置かれている。いかにも下町然とした通りだった。
本来、道路に個人の所有物を勝手に置くのは、道路交通法の五章一節第七十六条によって禁止されている。もっともここは昔からこういう感じで、うるさいことをいう住人もいないし、警察も大目に見ているのだろう。
何だか、ほっこりした気持ちになった。こんな下町に住んでみるのもいいかもしれないな、などと思ったりした。
「おや?」
雫は脚を止めた。黒縁の眼鏡に手を当て、目をすがめる。
少し離れた家の前で、七十過ぎに見える痩せた婦人とスーツ姿の若い男が向かい合って立っていた。
それだけならごく普通の光景だ。けれども雫が気になったのは二人の表情だった。
婦人は眉を八の字にして、怯えたような顔で若者を見つめている。いっぽうの若者は髪に手を当てながら何度も頭を下げ、何かをお願いしているように見えた。
雫は腕時計に目を落とした。午後二時を回ったところだった。
「なるほど、なるほど。これは見逃せませんよ」
雫はひとりつぶやきながら、眼鏡を中指で押し上げた。二人に近づいていく。
「じゃあ、これをみっちゃんに渡してください」婦人が痩せた手に持った紙袋を若い男に差し出した。「中には言われたとおり三百万円が入っていますから」
若い男が何度も頭を下げながら両手を伸ばし、紙袋を受け取った。
「これで会社も助かります。もちろん道夫さんも」
「本当に大丈夫なんでしょうか、会社の大事なお金を落としてしまうなんて、みっちゃんは大変な失敗をしてしまったと思うんですけど……本当に不問に付しいただけるのでしょうか」
婦人が胸の前で手を握り、不安そうな顔で訊いた。
「大丈夫ですよ。その点は部長もわかってますし、何といっても道夫さんは我がユニバース証券綾瀬支店のエースですから。それに部長は道夫さんが卒業した早稲田大学の先輩なんですよ。だから安心していいです」
「そうですか。それじゃあ、くれぐれもよろしくお願いいたします」
婦人がほっと息を吐き、深々と頭を下げた。黒く染めた髪が伸びて、つむじの周りだけが白かった。
「わかりました。それじゃあ僕は急ぐんで。会社にお金を入れたら、道夫さんから連絡してもらいますね。あ、それとお婆ちゃんのほうから道夫さんには絶対電話をしないでね。このことは僕と部長しか知らないし、他の誰かに知られたら大変なことになっちゃいますから」
「わかりました。決して電話はいたしませんから」
「そうですか、よかった。じゃあ、僕はこれで」
若い男が紙袋を両手で抱えたまま、身体の向きを変えた。
「ちょっとお待ちになってください」
雫は掌を男の顔の前に伸ばした。
「うわっ」
男が大袈裟に驚き、上体を後ろに引いた。その勢いでバランスを崩し、尻もちをつきそうになったが、家の壁に手をつき、何とか堪えることに成功した。
「な、なんだよテメエ、突然に」
「これは大変、失礼をいたしました。突然のご無礼をお許しください」
雫は頭を下げた。男はもちろん婦人のほうも雫は初対面だった。だから婦人と男が誰なのかもまったくわからない。
「いったい何なんですか。何か用ですか」
男が体勢と言葉を立て直して訊いてきた。
雫は男を見た。身長が百五十センチ足らずの雫は、常に相手を見上げるような形になる。男は中肉中背の体格で、近くで見ても若かった。いや、若すぎる。たぶん二十歳前後だろう。ひょっとしたら十代かもしれない。
「失礼とは存じましたが、たまたま通りかかってお二人の会話が耳に入ってしまいました。あ、誤解なさらないでください。私には盗聴盗撮の趣味はいっさいございません。その点は、憶え置きください」
「だから何だよ。こっちは忙しいんだよ」
男はその場を離れようとした。言葉遣いから、もう体裁を繕っている余裕はなさそうだった。
「お待ちください」
雫は男の前に移動して両手を広げた。そのままの姿勢で婦人に顔を向ける。
「奥様、失礼ですが、道夫さんのおばあ様でらっしゃいますか」
「そう……ですけど」
怪訝そうな顔で婦人が雫を見た。
「ユニバーサル証券にお勤めで、綾瀬支店で営業をしておいでの?」
「ええ……」
「今、こちらの男性にお渡しになったのは現金ですね。しかも三百万円。何でも道夫さんが仕事上で何らかの失敗をして、その失敗を内々で処理するためにおばあ様が現金をお渡しになったと推察いたしましたが」
「いえ……違います。そんなことはありません」
婦人が激しく首を横に振った。みるみる唇が白くなっていくのがわかった。
「ちょっと、お前。何いってんだよ。失礼だろっ」
男が手を伸ばし、雫の肩を押した。体重の軽い雫はそれだけで二三歩よろめきながら後ずさった。だが婦人からはけっして目を離さなかった。
「ひょっとして、道夫さんからおばあ様に電話があったのではありませんか。仕事で失敗したから助けてほしい、とか。会社の同僚が金を受け取りに来るから渡してほしい、とか」
ずれた眼鏡を人さし指で押し上げながら訊いた。
「いえ、違います。そんな電話はありませんでした」
婦人は答えたが、震える唇が全てを物語っていた。雫は仕事柄、嘘を見抜くのが得意だった。だが目の前の婦人の嘘は素人でも見抜けるはずだ。
「お前、誰なんだよ。いい加減にしろよ。お婆さんに訳のわかんねえこといって不安にさせるんじゃねえぞ」
雫は視線を戻した。もういちど男を見上げる。
「申し遅れました。私は真行寺雫と申します。ちなみにこういう会社を経営しております」
紺色の上着のポケットから名刺入れを取り出し、男に一枚渡した。名刺には『株式会社ハーベスト 代表取締役社長 真行寺雫』とある。たまたまここに来る前の仕事のために作った名刺だった。
「社長? お前が? いったい何の会社なんだよ」
男が名刺と雫のあいだに何度も視線を往復させながら訊いた。どうにも信じられないという顔だった。
「天然素材を使用した化粧品の製造販売をしております。幸いにしてアトピーや肌の敏感な方には大変好評をいただいているんです」
答えながら、男の疑問も無理はなかろうと思った。小柄で凹凸のない身体のライン。真っ黒な髪は後ろで無造作に束ね、黒縁の眼鏡にノーメイク。着ている服は何のデザインもないリクルートスーツみたいな紺の上下だ。良くて就職活動中の大学生、私服のときは中学生に間違われたこともある。
だから雫は、男が投げかけてくるような種類の視線には慣れっこだった。今も平然と「そうですけど、何か」と男に質問を返し、すぐに婦人に向き直った。
「おばあ様、もういちど確認させていただきます。道夫さんはユニバース証券の綾瀬支店に勤務しておいでで、営業をしていらっしゃる。間違いございませんね」
雫の問いに婦人が無言で頷いた。雫は意識して顔に笑みを浮かべた。
「そうでございますか。道夫さんからおばあ様に電話があったのはいつ頃ですか」
「いえ……ですから」
婦人が男にちらりと目をやって、言葉を濁した。男が無言で顔を横に振っていた。
おや? 引っ掛かりませんね。
雫は仕方を変えて同じ質問を投げてみた。けれども、やはり婦人から返ってきた答は同じだった。
雫はひとり頷いた。
なるほど。婦人は、まだ私より男のほうを信用しているというわけですね。
「もう、いいだろ。お前が誰だろうと足を突っ込んでくるんじゃないよ」男が雫にいい、婦人に笑いかけた。「じゃあ、お婆ちゃん。これは間違いなく届けるんで」
男が雫から離れようとした。
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