事実の意味

紫陽花の花びら

第1話

東京駅地下街、独特な匂い。

嫌いだ。どんなに着飾っても

変わらない。日は永遠に当たらない。

新宿駅の雑踏。何かに絡まれているよな鬱陶しさが嫌だ。

だが、敢えて今日もそこに降り立つばかな俺。

 

 あいつがいたような気がしたんだ。何を下らない事を。いや見たんだ。嘘だろう……そんなことあるはずない! 心の奥に仕舞いこんだ淡い期待が蠢くのを抑え込むと、心臓は壊れるほど打ち付けてくる。無視するなっと殴りかかってくる。

 

 帰る事に必死な連中が、足早に俺の傍を通り過ぎて行く。

人波は俺を良いように翻弄し、突き飛ばし、片隅に追い遣る。

待つ人を想える奴らに、嫉妬さえ覚える自分が痛々しい。

 戻って来ることはないであろうあいつの姿を求めて、人混みのなか、しつこいくらいに目を凝らす情け無い男。

 この香りはあいつの付けていたコロンだ。判っているんだ。似て非なるものだと判ってはいても、あいつの体臭と混ざり合った香りを思いだし、今もそれに高ぶりを覚える俺自身に愕然とする。


 一度感じてしまうと、次から次へと止めどなく溢れ出すあいつとの想い出。


 あいつの胸に顔埋めていると、

「刀矢……そうやって僕の匂い

嗅いでるでしょ? 可笑な癖だね」

「良いんだよ! この香りは物凄く気持ち良くなるんだ」

「物凄くかっ……それは嬉しいな」

 俺の壊れかけている頭の中で、繰り返されるあいつとのたわいもなやり取り。

 夜を共に愛し合い、朝に微笑みを重ね合う毎日は、俺たちの日常になっていたのに。あいつは俺を裏切っていた。

 それを知った日、怒りに震える俺はあいつを叩き潰し追い出した。大人げないと判っていても、どうにも感情を抑えられなかった。

……本当笑えるわ。


「電車と……は向こうからやって来る」ってな。そんのもの俺たちに通用するか? 薄っぺらな強がりがみっともないだけだ。

 あいつのすべてを、心に纏わりつかせる俺の精神状態が怖すぎて、それから逃げる為に仕事に没頭し続けている俺は、田辺刀矢

三十一才、独身同性が恋愛対象。恋人はいない。


 三年前……しょうもないイラストを描いていた俺。まあ今だって挿して変わらないけどな。

 あいつと出逢う少し前、俺の描く変わった猫のイラストがネットで評判になり、名前がチラホラと知られるようになった頃、ステーショナリーや小物を製作為ている小さな会社から、俺の描くイラストを商品化したいと言う驚くべき話しが舞い込んできた。

 断る理由などあるはずも無いない俺は、早速打ち合わせに出向いた。担当部署の責任者と話しをしているところへあいつが入ってきた。

「初めまして。担当の矢野剣矢です。宜しくお願い致します」

時々掻き上げる黒髪。黒縁の眼鏡。そして時折見せる優しい笑みに、心がざわつくのを感じていた。

 あいつの醸し出すフェロモンが静かに俺を包み込んでいく。

余りにも自然だった。

「僕は判っていたんですよ。あなたの絵は必ず売れるってね。だから、会議で猛烈押しまくりました」

「あ、有難うございます。宜しくお願い致します。なにせこう言う事が初めてなもんで」

「大丈夫ですよ!お任せください」

 それから何度も打ち合わせを繰り返すうちに、俺はどうにもならない程、あいつを好きになっていた。

 店舗を出す事になっている駅地下街へ下見に行くことになった。如何したって意識する俺に、

あいつは平然と耳打ちしてくる。

「鼓動が聞こえるよ。ふふふ」

「えっ! 揶揄わないでくれ」

あいつは俺の腕を摑み、半ば強引に引っ張って行く。

 少し歩くとあいつは立ち止まり、

「あそこです。女の子がいるでしよ?」

と指をさすが見廻しても店はない。両側には当然店舗が並んでいる。俺は、更にあいつに引かれながら、エスカレーターの下まで連れて来られた。そこには幾つかの大きな箱が並んでいて、動物や花が可愛く描かれている。ドリンクの販売機より倍ぐらい大きく、透明の分厚いアクリル板の窓からは色々な小物がぶらさがっているのが見える。

「なんですか? これ」

「これですか、書いてあるでしよ

小さな小さな雑貨店ですよ」

まだ判らない俺に、あいつは笑いながら説明した。

「店は出せない。置いて貰うには

ハードルを幾つか越えなくてならない。それで諦める作家さんが結構いるんです。ひとりでダメなら

10人で出しましょって事です。

うちの会社が商品化して、当然通常の営業もかけますが、この自動販売機だったら、低予算でアンテナショップが出来る訳です。この自販機はそれ程値が張らないし。人件費も要らない。なかなかのアイデアでしょ。この駅の地下街に店なんてそうそう出せない。そもそも家賃が高過ぎて。でもこれなら面白いって事で置いてくれるんです。話題性があるから」

俺はただ、ただ頷くだけだった。

「で? 俺の猫も並ぶの?」

「そおぉ並ぶの!」

確かに面白い企画だとは思ったが、本音を言えば、そんなんで売れるのかが物凄く心配だった。

 然し、あっという間に商品化され、何人もの作家さんと共に並べられた俺の猫も、意外なほど売れていたのは、あいつの仕掛け方が、本当に上手かったんだと思う。


 暫くして、俺たちは互いに身も心も必要不可欠な存在となったんだ。

 あいつは俺を甘やかし、俺はあいつに依存為ていった。好きで好きで仕方なかった。あいつはそんな俺を愛してくれていた。なのに……。俺が悪いんだ。

全てはここから始まったと言っても過言ではない。知らなければそれで済んでいたかも。

 今や、あいつがついた嘘が良いか悪いかなんて、どうでも良い。剣矢……お前さえいてくれたならそれで良かったんだ。

 

 その日あいつの手帳が、たまたまテーブルに置いてあった。 

そんなこと今まで一度だって無かったのに。手帳から赤い色紙がはみ出しているのに気づいて、興味本位に引っ張り出して見る。

何気なく広げた色紙には……下手くそな猫が描かれていた。

ご丁寧に名前まで書いてある。

田辺刀矢って……俺だぞ……。

拓矢へ? 拓矢……。


 俺には三つ違いの弟がいたが、俺が五歳の時離婚為て、弟は父親に引き取られた。二才の弟にはそれ以降会うことは出来なかったが、俺は母親と相談し、きっと寂しがっているに違いない弟に、得意の絵を描いては暫く送っていたのだったが、父親が再婚してからは、それ以降の関わり合いを完全に切られ、そのまま音信不通になってしまっていた。 

 俺は母親の都合で転居を繰り返していたせいで、拓矢が返事を書けるようになって、一生懸命書いてくれた手紙は、結局一通も受け取れてはいなかった。

 あいつは、ここに至るまでの

経緯を静かに話し始めた。

 父親は婿養子となり、姓が矢野に代わると、父親の再婚相手、拓矢にとって継母がどうしても拓矢を改名させたいと父親に強要し、とうとう小四の時にそれが現実となった。拓矢は改名の条件として、自分で名前を決める事を両親に納得させ剣矢と改名した。理由は俺が刀だったから、剣にしたんだと淡々と話しをするあいつ。

笑い話のようだが、健気なあいつはずっと俺を求めていた。兄としての俺を求め続けてくれていた事は理解出来た。

 そして、ネットで俺の名前と猫の絵を見つけた時は、興奮したが流石に突然訪ねるのは、お互いを知らなすぎて怖かった。だから、仕事を絡める事で、お互いの人となりを垣間見ることが出来ると考え、あの会社に入社すると、ひとりコツコツと俺と再会する計画を練る日々を送り、遂にあの日、あいつは俺との再会を果たしたが、なにも知らない俺が、自分に好意以上のものを感じてくれている事に日々戸惑ながらも嬉しくて、弟だと名乗るチャンスは幾らでもあったけれど、変えられないこの事実を隠してでも、俺に惹かれていく気持ちを大切に為たかった事、そして二度と離れたくない気持ちは偽れなくて。俺と生きていくと決め、この事は絶対に話すつもりは無かったんだと言われた。

 今頃話されて、あっそうなの? では、これからも宜しくって言える話しか? そんな軽い話しじゃないだろ? 血を分けた弟を愛してしまった兄は、どうすれば良い? どう己と決着をつければ良い? 激昂した俺は荒れ狂い、どんなに罵倒為ても、気持ちは収さまらず、あいつを叩き出してしまった。

 明け方一旦戻ってきたあいつは荷物をまとめ、あの絵と短い手紙を置いて出で行った。

「僕は後悔してないよ刀矢。お前は俺のただ一人の愛する人だ。

お願いだ。僕を忘れないでいて」


 生きていく上で、かけがえのない存在に出逢うと言うことは、 なかなか難しいか事かも知れない。お互いの優しさ、醜さを幾つも重ね合う事でしか得られない存在ならば、俺はあいつに晒し続けていく。それがたとえ弟であったとしても、あいつの傍にいることが俺にとっての当たり前なんだ。

 愛している。愛している。  


 年甲斐もなく、俺はあいつを想うたび涙が止まらなくなる。

 仕事も辞めて何処にいるんだ! 何処に……。

抱き締めて欲しくて名前を呼ぶ。

剣矢……剣矢……愛してくれ。


 やり場のない悲しみは、突然襲嵐のように吹き荒れる。俺はそれが怖くて為かなたいんだ。

 でも、今夜は不思議と穏やかな気持ちでいられている。


眠ろう……それが良い。

 

 あぁ夢か。優しく頰を撫でる温かい指に俺は縋っている。

深く深くこの香りに包まれていれば安心していられるのが判っている。


 俺は温もりで目覚めた。


「おはよう……刀矢……」

「けん……剣……矢……どう…して」

「いけなかった?」

俺の腕は剣矢の首を抱き寄せる。

「そんなことない! そんな……」

抱き寄せられ、欲していた唇に犯されていく。

「許して欲しい……僕は刀矢を愛し抜くから。だから許してっ」

「……ごめんな……酷いこと言ったな」

泣きじゃくり全てを委ねる俺を、あいつの全てが覆い尽くす。


 やかでふたつの肉体は溶けあい

もはや見分けなどつくはずも無い

程にひとつの塊になる。



 今から始まる。

当たり前とは言いたくない。

俺たちの特別な日常が。

いつしか当たり前になる日を楽しみに、心を繋いで生きていくだけで良いんだ。






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