第19話 幸福の花-3
「先日の塔にまた上りませんか?」
喫茶店を出た後、そう問いかけられた。
不思議と私も同じことを言おうと思っていた。あそこから眺める街の景色はとても美しい。そして、ラナさんと自分だけの秘密の場所のような雰囲気がなんとなく好きだ。
古い監視塔への道のりはずっとラナさんが前を歩いていた。なにか待ち遠しいことでもあるように足早で歩き、時々こちらを振り返っている。そのクルクルと回るような仕草と振り返る表情がとても可愛らしかった。
監視塔の天辺、彼女は錆びた手すりに身を乗り出して遠くを眺めている。その背中と風景を1枚の絵におさめるよう私は少し後ろで同じ景色を眺めた。
「――トゥルー様から全部聞きました」
ラナさんは唐突に話始めた。言葉と一緒に涼しい風が吹き抜けていく。
「スガさんもカレンも水臭いです……。それにみんな、気を使い過ぎなんですよ」
彼女はこちらを見ずに話を続ける。私も黙ってその背中を見つめていた。
「いつまでも引きずっていてはいけないとわかっていたんです。少しずつ少しずつ……、心の整理をしていました。けど、例の十字傷の事件が起こって、ボクが無茶をしてしまったからですね。カレンがまさかスガさんに協力を頼んでいるとは思っていなかったですけど――」
私は一歩だけラナさんの近くに歩み寄った。彼女の言葉を聞き逃してはいけないと思ったからだ。
「トゥルー様の話はショックでした……。ですが、怒りの矛先を向けるのは彼じゃないこともわかっています。だから全部ぜんぶ吹っ切ろうと思ったんです」
ひと際強い風が吹いた。
彼女のベレー帽が宙を舞い……、私の目は自然とそれを追った。
身体が大きく揺れた。ぶつかった衝撃、ラナさんの体がそこにあった。思わず手に持っていた魔導書の包を落としてしまった。
彼女は私の胸に顔をうずめている。私は唖然として立ち尽くしていた。彼女から嗚咽が漏れてくる。
だが、それは次第に声を伴い、やがて大きな泣き声へと変わっていった。
小さな肩が小刻みに震えている。私は無意識にその両肩に手を添えていた。
この肩に彼女はどれぼどのものを背負っていたのか。
胸のあたりに冷たさを感じる。彼女の手は私の服を千切れそうくらい思い切り掴んでいた。
しゃっくり、鼻をすする音、時折咳き込み……、私はただただ彼女の気が済むまで体を貸してあげるつもりでいた。
そこにいたのは長かったのか、短かったのか……。時間の感覚がよくわからない。ラナさんが顔を上げるまでずっとこうしていようと思っていた。
彼女から次第に泣き声は消え、しゃっくりだけを繰り返すようになった。なにか口にしようとしては、しゃくりあげて邪魔されているのがわかった。
「……っく、スガさん。なにか…っ、お話して…っく、くれませんか?」
顔をうずめたままで、彼女が問いかけてきた。
なにを話したらいいのか。
今の状況にどんな言葉が相応しいのかまったくわからない。ただ、今日彼女に伝えようとしていたことをひとつ思い出した。
「えっ…と、私の祖国では、『ラナンキュラス』という名の花があります」
彼女は時折しゃっくりをしながら顔を上げずにそのまま聞いている。
「それと……『花言葉』、といいまして、お花の種類や色に特別な意味をもたせているものがあるんです」
服を掴んでいる手の力が少し弱まったような気がする。
「ラナンキュラス、それもラナさんの髪のような紫の花言葉は――、『幸福』でした」
ラナさんはゆっくり顔を上げて私の顔を覗きこんでくる。腫れ上がった赤い目元。その瞳は吸い込まれそうな、どこまでも深い夜空のような漆黒だ。
私を見つめる表情が笑顔に変わる。
それは、今まで一度も見たことのない無垢な子どものような笑顔だった。
これがラナさんの本当の笑顔……?
そうか、カレンさんは仮面のようだと言った。それを溶かすには涙が必要だったんだ。ラナさんが隠していたのは喜びや楽しさの感情じゃなく、きっと哀しみ。
ずっと抑えてきた涙を流すことで、きっとその仮面は溶けて、流れて、消えて……、無くなった。
「『ラナンキュラス』は……、幸福の花?」
私を見上げながら彼女は問いかける。
「ええ、ラナさんは『幸福の花』です」
頷いた私は自然と彼女の肩を抱き寄せていた。
そして、彼女はほんの少しだけ背伸びをして……、私たちは口づけを交わした。
―― see you next story ――
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