第10話 黄昏の追憶(後)-5
目が覚めたら、離れの天井が見えた。
私は数秒の間、放心していた。
夢の中でご丁寧に、私の人生劇場を鑑賞させられていた。ひょっとすると、すべて思い出して目覚めたら、自宅のマンションのベッドだった……、みたいなこともあると思っていた。
だが、どうやらそれはないらしい。
耳やこめかみのあたりに湿り気を感じる。どうやら寝ながら泣いていたようだ。ヤスが亡くなったとき、一生分の涙を使い切ったと思っていたが、しっかりと補充されているようだ。
目の周囲が腫れている感覚があった。とりあえず、顔を洗おうと思った。
離れから出て、庭の水やりに使う水道を借りた。朝、目を覚まして顔を洗うときはいつもここを使わせてもらっている。酒場に入って水道を借りてもいいのだが、寝起きの姿をラナさんに見られたくなかった。
手に水の冷たさをたしかに感じた。どう考えても生身の体だ。これで「死んだ」と言われても実感がない。電車にひかれる寸前でこちらの世界に転移してきた、と考える方が「死後」と考えるよりずっと納得できた。
両手で水道水をすくって顔を洗うつもりが、私は両手にできた水面をずっと見つめていた。やはり、私は生きている。あのまま死んでいたらヤスに謝りにいけたのだろうか?
私は両手の水を思い切り顔にぶつけるようにして顔を洗った。何度も何度も、それを繰り返した。眠っている意識を覚まさせるように……。
小さな布で顔を拭き、手に残った水気で軽く髪の毛を整えた。すると、酒場の扉からラナさんが出てくるのが見えた。彼女もこちらに気付いたようで、軽く会釈をして歩み寄ってきた。
「おはようございます……、ラナさん」
「おはようございます、スガさん」
彼女は私の顔を、――というより、目を数秒覗いてきた。思わずこちらから目を逸らしてしまう。
「――夜更かしさんですか? 目がずいぶんと赤くなっていますよ?」
いつもの私なら、咄嗟にもっともらしい冗談を言ったりするのだが、今は思考がうまくまわらなかった。返事に詰まっていると、ラナさんはなにかを悟ったように視線を空に向けた。つられて私も見上げると、透き通るような青空が広がっていた。
「なにかあったのですか? ボクでよければお話を聞きますよ?」
いっそのこと、ラナさんになにもかも話してしまった方が楽なのではないか?
信じてもらえるかは別として、もはや隠している意味もあまりない気がする。それでも喉元まで出かかったところで躊躇い、私は言葉にできなかった。
「無理に話そうとしなくてもいいですよ? スガさんが話したいと思ったら話して下さい。ボクが力になれるかはわかりませんけどね」
「故郷の……、大切な友達が亡くなったのを思い出したんです。なぜか最近までずっとそのことを忘れていて。『一番の親友』と自分では思っていたつもりなのに、薄情なもんです」
ラナさんはかすかに口元を緩めて、無言で頷いていた。どうやら私の気が済むまで話に付き合ってくれるようだ。
「親友は亡くなる直前、私に連絡をとろうとしてくれていたんです。私がそれに応じていれば死なずにすんだのかも……、と今でも思っています」
涼しい風が吹き抜け、草木を揺らした。ラナさんは目にかかった前髪を軽く手ではらう仕草をした。
「彼を救えたかもしれない、という後悔と……、それを今日まで忘れていた自分がとてもとても嫌になっていました」
彼女は2度3度と、私の顔を窺った後……、また空を見上げて話し始めた。
「ボクはスガさんのお友達の方を知りません。ですが、スガさんが『一番の親友』と思う方なら、きっとお友達にとってのスガさんもそうだったのだと思います。そうでなかったら、最後に連絡する人に選びませんからね?」
ラナさんは優しい笑顔を向けてそう言った。私に同意を求めてきているようだ。
「その連絡がなんだったのかはもう誰にもわかりませんが、スガさんにそれを引きずってほしくはないと思いますよ?」
ひとつ呼吸をおいて彼女は続けた。
「忘れてしまっていたのは……、可哀そうかもしれませんね? ですから、いつもでなくても、時々思い出してあげるといいと思います。スガさんが『一番の親友』というくらいですから、とてもいい方なのでしょう?」
「はい、本当にいいやつでした」
「それなら――、その方が『とってもいい人』と伝えてあげられるのがスガさんです。ですから、きちんと覚えておいてあげてください。ボクはそれがとても大事だと思います」
私がラナさんの顔をぼんやり眺めていると、彼女は首をほんの少しだけ傾げてにこりと笑った。それ以上はなにも言わずに酒場の中へ戻っていく。
私が抱えている悩みは、恐らく永遠に背負っていかなければならないものだ。それでも、誰かに話すだけでほんの少し救われたような気がする。
私は、現代の日本でたしかに一度死んだのかもしれない。それは生命としてというより「精神的」にだ。
けれど、この世界にきて、この世界の人々にふれて――、心は生き返ろうとしているのかもしれなかった。
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