第10話 黄昏の追憶(後)-4

 ヤスは、仕事からの帰宅途中の駅で電車に飛び込み自殺したという。


 頭の中で昨日スマホに表示された「ヤス」の名前が過り、コール音が何度も反響していた。


 私は、仕事を抜け出してお通夜に参列することにした。



 翌日は半休をもらって葬儀にも参列する旨を上司に伝えた。店舗の人間や会社の人間への連絡……、大切な友人が亡くなってどうにかなりそうな気持ちだというのに、こんな煩わしい手続きをしないといけないのかと本当にうんざりした。


 友人や仕事関係で電話をするたびに、昨日の夜にかかってきたヤスからの電話が記憶を過ぎる。彼からの着信履歴とその時間を何度も何度も見直した。



『もし、私があの電話に出ていたらこうはならなかったのではないか……』



 その想いにずっと胸を締め付けられていた。


 お通夜の席でヤスの両親と顔を合わせるのが怖かった。


 幼馴染み2人と地元で合流して、お通夜の席へ向かうことになった。彼らと顔を合わせるのは大学4回生のとき以来だったと思う。「久しぶり」と軽く挨拶をしたが、それ以上話は続かなかった。


 ヤスの遺影は、見慣れた笑顔だった。


 私にとって彼は間違いなく一番の親友だった。他の友人には話せず、彼にだけ話していたこともたくさんあった。


 あまりに突然で実感がまったくわいてこない。


 本当にヤスはもういないのか?


 不思議と涙は流れてこなかった。


 きっと私は、ヤスがいなくなった現実をまだ受け入れられていないのだ。


 一緒に来た友人からは薄情に映ったかもしれない。



 翌日、葬儀に参列した後、その足で職場の店舗に向かった。上司には1日休みをとりたいと伝えたが、葬儀が終わった後の時間なにをするのか、と問われてなにも答えられなかった。

 普通に働ける精神状態であるはずがないのに、ヤスとの関係を知らない上司には、それを伝えようがなかった。


 その日、職場でなにをしていたのかはほとんど覚えていない。ただ時間が過ぎ去っていくのを待っていただけだ。

 帰宅して部屋でひとりでいるとき、ようやく涙が流れてきた。堰を切ったように涙は延々と流れ続けた。ひょっとしたら目が枯れてしぼんでしまうのではないか、と思うくらいに涙は止まらなかった。私はまたも部屋の明かりをつけずに真っ暗な部屋で泣き続けた。


 ヤスからの電話に出ていたら自殺を止められたのではないか?


 彼は止めてほしくて私に電話をしたのでは?


 私が彼を「一番の親友」と思っていたように、彼もそう思ってくれていたのではないのか?


 だから、私に電話してきたのでは!?


 思えば、もっと前から前兆はあった。常識人だった彼が、夜遅くに何度も電話をかけてきていたのがそもそもおかしかったんだ。私は親友の発する救難信号に気付いてやれなかった。



 本当にごめん……、ヤス。



 涙が止まり、私が思考を取り戻した時、時計は深夜3時を指していた。もうあと4時間ちょっとで、普段の私は朝食を食べて仕事へ行く準備を始めるのだ。

 親友が亡くなったというのに当たり前に明日はやってきて、なにも変わらない日常を求めてくる。


 仕事を休みたかった。こんな状態で働けるわけがない。今からだと睡眠時間もまともにとれないじゃないか。


 朝一で会社に連絡を入れるか、それからお店にも電話を入れて……、どうしてこんな面倒なことをしなければならない!?


 ヤスがいなくなってこんなにも辛くて悲しいのに、なぜいつもと同じ日々を送らないといけないんだ!


 結局、仕事を休むか否か、自問自答している間に窓から日の光が差し込み始めた。睡眠をとっていなかった私は、今日はもう体力的にも働くのは無理だな、と思って上司に連絡を入れた。


 休むこと自体は止められなかった。ただ、休んだ分をどこか別の日に出勤して埋め合わせできないか、と打診された。そうしないと今月の実績が厳しいと――。



 正直、1週間くらい休みたい気分だった。ヤスを失った精神的な痛手はそれくらいでは到底癒えない。それでも気持ちを整理するくらいの時間は欲しかった。


 だが、私のそういった個人的な感情を、会社は……、お店は……、許してくれないようだ。休みをもらった1日は、ずっと家のなかで無気力に、食事も夜にカップラーメンを1杯食べただけで終わった。



 スマホでニュースを調べると、ヤスの自殺の記事が見つかった。親友の名前をこんな形で目にするのがとても嫌だった。自殺の原因について、記事には「調査中」と書いてあった。遺書はまだ見つかっていないらしい。


 その翌日から普通に仕事へ出かけた。会社の人間から特に気遣う連絡はなかった。お店に入ると、私の事情を知らない何人かの人間から、なんで昨日はいなかったのか、と尋ねられた。

 店舗にはたくさんの従業員が働いている。いちいち全員に事情を説明できるわけがない。


 その日は出勤こそしたが、まったく仕事にならずに終わった。ただ、そこに立っているだけ、という感じだ。1日休んでその翌日も実績らしいものは上がっていない。

 お店の人間からは、がんばらないと今月の目標は厳しいと言われた。そんなことは言われなくても百も承知だ。



 正社員登用の一件から、この会社でもうがんばる必要はないのではないかと思っていた。――にもかかわらず、目標はいくつで残りの出勤日数でどうしたらいいか考えている自分がいた。


 そうか……。今さらになって気付いた。私は「優秀」だと思われている自分が好きなだけだったんだ。ここで実績を落として、優秀な社員で通っている自分に傷が付くのを恐れているんだ。


 思えば学生の頃からそうだった。そつなく成績を残していたのは「優等生」の自分でいたかったから。周りからそう見られている自分を壊したくなかったからだ。


 こんな状況に陥っても、まだそれを捨て去ることができないようだ。承認欲求が強いのか、プライドが高いのか、自分のどうしようもなく小さい器を垣間見た気がした。


 これが私という人間の本性なんだな。



 仕事の帰り、電車を待つ駅のベンチで私は何本か帰宅方向の電車を見送っていた。このまま時間が経てば、また明日がやってくるのが嫌で仕方なかった。


 私がどんな精神状態であろうと、世の中は待ってくれない。


 心も身体もただただ疲れ切っていた。


 そういえば、ヤスが自殺した理由はまだきちんとわかっていないようだ。仕事で悩みを抱えていたのはあったらしいが、それが直接原因なのかは不明という話だ。


 ホームに入ってくる電車の光を見つめながら私は思った。


 今、この瞬間、少しでいいから楽になりたい。


 ヤスがいなくなったこの世界で、明日が来たらまた仕事だとか考えたくない。


 ちょっとでいいから休ませてほしい……。ただ、それだけだった。


 私は吸い寄せられるように、ホームに入ってきた電車の前に飛び出していた。


 人身事故による遅延があるたびに、人様に迷惑かけるようなマネはするな、と普段の私は思っていた。だが、その時はそんな思考、微塵もなかった。


 ただ、「休ませてほしい」とだけ思っていた。


 電車の放つ光が視界を真っ白に染めた。


 ヤスが見た最後の光景もこんなだったのかな……。


 私の記憶はここで途切れた。

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