第21話【二十一】アフリカ人、襲撃される
夜。
暗がりの中でデンババはぱっと目を開くと、音もなく起き上がった。
カンガもほぼ同時に起き上がる。
顔を見合わせた。ほぼ同時に頷く。
囲炉裏にくべてあった太い枝は、まだちろちろと小さな炎を上げている。
デンババは膝を立てて草の壁を見つめていた。
その向こう側を見通すかのように。
漆黒の顔が炎に照らされて浮かび上がる。
エマリヤと寄り添って横になっていたイリカが気配に気づいて少し上体を起こす。
「――どうしたの」
「囲まれた」
無表情に言う。傍らに置いてあった手製の槍を取る。
「何ですって」
素早く弓を取り、矢籠を背負った。エマリヤも飛び起きる。
「どうして気づいたの」
「ここに着く前から背後に人の匂いがしていた。追われているのかどうか確信がなかったから、村はずれの家を選んでもらった」
視線を壁の向こうに向けたまま、事も無げに答えた。
「匂い? 匂いがわかるの?」
イリカは目を丸くしていた。
マヒ族の狩人の嗅覚は常人のそれをはるかに凌駕する。
視覚・聴覚も同様だ。
すべては、荒野で生きていくために、自然に体得した能力であった。
獲物よりも早く、肉食獣よりも鋭敏に。
五感を研ぎ澄ませておくことのできない者に、原野で生き延びていくことはできないのだった。
周囲は静まり返っている。
ちりちりと虫の鳴く声がするだけだ。
「――襲ってくるのかしら」
デンババの傍に寄り添ったイリカがつぶやいた。
彫りぬかれたような黒い顔は微動だにしない。
「俺が敵の立場だったら、四方から家に火を放つ。飛び出して来るところを矢で仕留める。そんなところだろうな」
カンガが草の壁にそっと腕を突っ込んで左右に小さく開く。
ちらちらと遠くに揺らめく灯りが見えた。
当たりだ、とぼそっと言う。
「どうするの」
イリカが眉根を寄せた。
「俺が先に出て奴らを引き付ける。――カンガ」
応、と低い声。
「様子を見ながら後から二人を連れて出てくれ」
「任せろ」
「危ないわ。わたしも行く」
イリカの白く細い指がデンババの黒い腕に触れた。
微かなぬくもりが伝わる。
「だめだ」
ぴしゃりと言う。
碧い瞳の
「なぜ? 女だから? わたしだってアイヌの猟師よ。敵がアイヌだったらわたしが相手をするわ」
「多分、違う」
イリカの顔を見つめてデンババが言った。
「どうして?」
「ただの勘だ。それに前にあんたが言っていたことと合わない気がする。仮に敵意を持っていたとしても、殺す気で襲撃するほど彼らが俺たちを憎んでいるとは思えない」
「わからないわよ。――アイヌにだっていろいろな人がいるわ」
でも変よ、とカンガの傍に寄り添っていたエマリヤが口を挟んだ。
「デンババさんの言う通り、もしも村の人だったらあたしたちが村を出た事を知らないわけがないわ。あたしたちに話をするなら
聞いていたイリカの目が宙をさまよった。
でも、と言いかけた時、かすかに風を切る音と屋根になにかが当たる乾いた音がした。次いで外壁。四方の壁から同じ音がした。
デンババの目が上を向く。
屋根の上でパチパチと小さく
「火矢だ。お喋りが長すぎた」
イリカの腕を振り切ってデンババが槍を持って立ち上がる。
戸をわずかに開くと、するりと外へ出た。
イリカが後を追って顔だけ用心深く戸から覗かせる。
「危ないわ! 敵がアイヌだったら撃ってくるのは毒矢よ! かすっただけで死んでしまうわ!」
デンババはすでに壁から二三歩離れた位置にいた。
壁に燃え移った炎がみるみるうちに大きくなっていく。
炎に背を向けているデンババの顔はイリカにはよく見えない。
「――当たらなければいいのだろう」
ぼそりと言った。
え、とイリカの口が動く前にひゅっと風を切る音が聞こえる。
目の前の虫を払うようにデンババの手が動く。
軽い音がして、イリカの目の前に矢が一本落ちた。
立て続けに矢を放つ音が重なる。
デンババが左右に身体を揺らす。
数本の矢はかすりもせずに壁に刺さった。
また一矢。二矢。
ひらりと腕が動いて、まるでハエを払うかのように事も無げに矢を払い落としていく。
「暗闇から飛んでくる矢を素手で……。すごいわ、デンババさん」
イリカの傍で外を覗いていたエマリヤが目を丸くした。
高速で飛ぶ鳥を槍で叩き落とすことができるデンババの動体視力にかかっては、飛んでくる矢など物の数ではないのだった。
イリカがふと足元に落ちた矢に目を遣る。
拾い上げて矢羽根を見つめた。
「これ――アイヌの矢じゃないわ」
エマリヤが声を上げる。イリカが頷いた。
おい、とカンガが声をかける。
二人が家の中を振り向くと、カンガが草の壁に開けた穴を手で押さえていた。
屋根の裏側からはすでに白い煙が噴き出している。
「こっちから外へ出るんだ、早く!」
二人はあわてて壁に開いた穴から外へまろび出た。
後からカンガが続く。
炎の明かりに照らされた森へ、姿勢を低くして駆け込む。カンガが追い付いた。
膝を着いた体勢で三人が小屋の方を振り返る。
家の四方から火が燃え広がり、家は巨大なかがり火のようになっていた。
蔀戸のある側の壁を背にしてデンババが立っている。
燃え盛る炎が男の横顔を照らしていた。
原始の光の中で、塑像のように動かない、彫りの深い横顔。
イリカにはその横顔が黒く輝いて見えた。
(きれい……)とイリカは場違いなことを思った。
「ここでじっとしていてくれ」
カンガの声にはっとイリカは我に返った。
「どこへ行くの? カンガ」
少し緊張した面持ちでエマリヤが尋ねる。
「デンババ一人に任せておくわけにはいかん。――連中を掃除してくる」
カンガがにこりともせずに言い放つと、姿勢を低くしたまま動き出した。
「カンガ、気を付けて!」
エマリヤが小さい声で言う。カンガは片手を上げると音もなく藪の中へ消えた。
「カンガ――大丈夫かな」
エマリヤが胸元に手を当ててカンガの消えた方向を不安げに見つめた。
イリカが不思議そうな目をしてエマリヤ、と声を掛ける。
「なんでデンババは『さん』付けなのにカンガは呼び捨てなの?」
一瞬「は?」という顔になる。
目があさっての方を向いた。
「え? ……さあ? なんでかな。なんでだろ?」
「あたしに訊かれても知らないわよ」
イリカが微笑みかけた時、ごおっと森が鳴った。
家を包んでいた炎が二人の方向に向かってくる。
「いけない、風向きが変わったわ。この季節だから森には燃え移らないと思うけど、少し奥に入らないと」
イリカが歩き出す。
「でも――カンガがここにいてって」
振り返る。
「そんなに離れないわ。蒸し焼きになりたいの?」
イリカが先に立って歩き出した。
不安そうなエマリヤが二度ほど振り返ってからのろのろとついて行く。
イリカとの間に少し距離が開いた。
「ん、もう、お姉ちゃん待っ――」
開きかけたエマリヤの口が、背後から何者かの手に塞がれた。
「ん! む!」
慌てて両手でその掌を掴んだ刹那、首筋に鈍い痛みが走り、エマリヤは意識を失った。
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