第13話【十三】アフリカ人、蝦夷地で囚われる(前編)


 次郎佐はもともと津軽の漁師であった。


 親も漁師であったことから、親の死後その職を継いだものであったが、次郎佐本人は決して漁師に向いているとは言えなかった。

 潮加減や天候を読むのも苦手だったし、何よりも先天的に他の漁師よりも体力が劣っていたのが大きい。


 網を引けないのだ。


 海に出ても、その細い腕に濡れた網はあまりにも重く、息を切らして歯を食いしばっても網はなかなか動かないのである。

 そのため漁獲量も思うように上がらず、実入りは常に少なかった。


 ――なんじゃ次郎、こんな網も引けんとか。おのりゃあそれでも男か。

 ――おかでわしとこの網つくろうとけ。

 ――かかあ共と一緒に浜で海藻くさでも拾うておれよ。

 ――次郎じゃあ束ねた和布わかめも持てんとよ。


 他の漁師たちが口々に嘲笑っても、腕力のない次郎佐には殴りかかることもできない。


 相応の齢になったというだけで、姻戚の強引な勧めで遠縁の娘と所帯を持ったものの、家庭はうまくいかなかった。

 妻は漁師としての才能を欠き、収入の少ない次郎佐を事あるごとになじり、邪険に扱ったため諍いが絶えなかった。

 子供は男児が一人いたのだが、常に自信を持って家庭を維持できない次郎佐にはなかなかなつかない。


 ――まささんばは今夜も旦那が獲ってきた鯛とひらめだと。

 ――うちは今日も干し鰯じゃ。なんて情けない。

 ――子供にまともな飯も食わせられんでなにが亭主じゃ。恥ずかしいとは思わんのか。

 ――ぬしなんぞの嫁になぞなったのが間違いじゃったわ。


 妻に罵られても言い返すこともできない。

 次郎佐の鬱憤は日々蓄積されていったがどうすることもできず、ただ人知れず口の中で呪詛の言葉をつぶやき続けるだけだ。


 畜生、畜生、畜生。

 どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。

 俺はこんなところで腐っているような男じゃあねえんだ。

 俺は貴様らなんぞが這いつくばっても届かないところにいなきゃいけねえ人間なんだ。


 次郎佐の中で歪んだ虚栄心だけが育っていったが、現実を変えることはできない。

 自分を改善しようとする向上心はないまま、ただ根拠のない自信だけが内心で醜く肥大していった。


 現実には家庭でも仕事でも、重く鬱屈した次郎佐の日々は、いつ果てるともなく続いていた。



 そんなある日に、転機は訪れた。



 その日、他の漁師が網を畳む頃、漁獲量の少ない次郎佐の船だけが日本海の沖合に残っていた。


 天候が急変し、暗雲が空を覆いつくしたかと思うと、急に発生した竜巻が次郎佐の船を襲った。

 船は粉々になって空に巻き上げられ、嵐に翻弄されながら、次郎佐は意識を失った。


 何日が経過したのかはわからない。

 次郎佐が目覚めた時は、見知らぬ土地の海岸で、見慣れない模様の服を着た複数の女たちに囲まれていたのだ。


 奇跡的にたどり着いた、そこが石狩の浜であった。


 漂着した次郎佐は、石狩アイヌたちに客人マラットとして扱われ、もてなされた。

 海からやってくるものはカムイからアイヌにもたらされた授かり物、というのがアイヌの人々の考え方であった。


 饗応を受け、徐々に言葉にも慣れ、アイヌの人々といろいろな話をしているうちに、もともと少なかった「帰りたい」と思う気持ちは薄らいでいき、ここで暮らすのも悪くない、と思い始めていた。

 コタンおさにそのことを告げると、喜んで受け入れてくれた。

 実際に石狩川流域の集落には、次郎佐と同じように漂着した本州人――和人シサムと呼ばれた――が複数住んでおり、帰るすべもないことからアイヌに同化し、その村で生活していたのである。


沖にいる神レプンカムイ」が遣わした者、ジロンザ。

 それが次郎佐のアイヌ名となった。


 力がないからとからかう同業者もおらず、収入が少ないからと白い眼で見る妻もいない。

 呪縛から解放された次郎佐は、生来の利発さを取り戻し、積極的に人々の話に加わることで村に溶け込んで行った。

 弓矢や罠を使って見よう見まねで小動物を狩り、村人と物々交換して生計を立てる生活にも少しづつ慣れた。


 特に取引行為において、次郎佐は小利口さを発揮した。

 もともと本来は商いに才覚があったと言えようか、多くは性格によるものと思われるが、人の顔色を読むのが上手だったのだ。


 次郎佐は商いを理由に様々な集まりの場へ顔を出し、徐々に人々に顔が売れるようになって行った。


 この頃の石狩はシャクシャインの乱から十年以上が過ぎていたが、依然、松前藩との間にはある種の緊張状態が続いていた。


 以前より多少の藩の出入りはあったが、僻地の村にまで使いがやって来るようになると、次郎佐は通訳を買って出るようになった。

 石狩川流域のコタンを頻繁に往復し、村々を繋ぐ連絡係となったのである。


 そこに目をつけたのが松前藩の家中であった。

 騒乱終結後、松前藩は起請文などにより、対アイヌ支配を強固なものとすべく地歩を固めつつあったが、地方などなお一部に恭順を拒む一派が存在したことから、これに対処する必要があったためだ。


 松前藩の家中、陣太夫は人心を掌握するに長けた人物だった。

 通訳として近づいてきた次郎佐の心中にある虚栄心を見透かすと、言葉巧みに接近したのである。


 土産を持って家を訪れ、あるいは食事に招き、陣太夫は会話を重ねながら次第に次郎佐と昵懇じっこんになって行った。

 藩の人間として最初は警戒していた次郎佐だったが、付き合いを重ねるうちに徐々に心を開くようになった。



「のう、次郎佐どん。ぬし、石狩の王になる気はないか」

 ある晩、次郎佐の家で酒を酌み交わし、次郎佐がほどほどに酔い始めたのを見越して、陣太夫は切り出した。

「王? 石狩の? ――どういう意味じゃ」


 陣太夫の細い目が次郎佐を見つめた。

 その目にはいささかの酔いもなかったが、次郎佐は気づかなかった。


「文字通りの意味じゃ。石狩川の首領かしらとなるのよ」

 酩酊しながら次郎佐は首を左右に振ってははっと笑った。

「夢語りか? もうそんなに酔うたか」

「ぬしに夢なんぞ語ったとて腹は膨れん。どうじゃ」


 ちろりと陣太夫を見てから、あさっての方に目を遣った。

「何を言い出すかと思えば――。惣大将にでもなれと言うだか。生粋のアイヌでもない俺がなれる訳がなかろうが」

 さて、どうかな、と言って陣太夫は次郎佐の木椀に酒を注いだ。


「ぬしが知っておるように、我ら藩の者は禄を知行地での商いによって得ておる。儂の知行地はこの流域じゃ」

「知っとる。俺の獲物も買うてもろうておるからの」

「この流域をもろうておるのは俺の他に二人おる。きゃつらは商いが得手でないので、ほぼ儂が代行してやっておるのだ」

 次郎佐はふん、と興味なさそうに鼻を鳴らした。


 松前藩士の俸給は全国の一般的なその他の藩とはいささか事情が違っていた。


 通常の藩において、俸給は米によって支払われる。これを藩内の札差に売却して現金を得るのだ。

 だが、当時米作が行われていなかった蝦夷においては、藩士に藩内の土地を知行地として与え、その中での自由裁量による商売を認めていた。

 藩士は内地から仕入れた物品をアイヌに売る。代金の代わりに毛皮・羽毛・水産物等を取得、これを藩内及び内地で転売することによって現金を得ていた。


 これがいわゆる『商場あきないば知行制』である。


「人のいいことじゃな。で、それが俺が王になる、つう話とどうつながるのじゃ」

「まあ、そうくなて。ものには順序つうもんがあろう。――でだな、この知行地での商いだが、これを儂の代わりにぬしがやる、としよう。さればどうなるか、わかるか?」

「――代わり? おの金はどうする」

「儂はぬしから手数料をもらう。これは一定額としよう。するとどうなるか。ぬしは売れば売るほど儲かる、ということになる」

 ふむ、と朦朧とした顔のまま次郎佐は身を乗り出した。


「ぬしなら、儂より流域の事情に明るい。内地にいたぬしなら売れるものを選ぶ目も儂より利くだろう。商いの手を広げることもたやすい。そうは思わんか」

 それはまあ、そうだが、と言ったものの、今一つ実感が湧かない顔になる。

「仮にまあ、そのようにやったとして――それで俺が王になれる、のか?」


 陣太夫が鷹揚に頷く。


「なれる。――考えてもみろ。いずれ流域一帯の経済をぬしが一手に掌握することになるのだぞ。極端な話、流域に住む者全員が、ぬしがいなければ生きていけなくなるのだ。意味がわかるか」


 俺が――石狩を、掌握する?

 朦朧とした次郎佐の頭にその言葉が徐々に浸透していく。

 心的な変化を見透かしたように陣太夫が畳みかける。


「この世は、金を握った者が勝つのだ。誰が惣大将であろうと関係ない。ぬしが勝つのだ。そうなれば誰もぬしに逆らえぬ。逆らえば命はないのだ。これが王でなくて何だ」


 そうだ、と次郎佐は思った。

 朦朧としたものが確信に変わった。


 愚かなる民ども、今こそ俺が王だ。

 俺が石狩の王になるのだ。ここを俺の王国、次郎佐王国にするのだ。


 次郎佐の心中にくらい火が灯った。


 陣太夫が提案した方法は、こののち十八世紀前半から松前藩が採用することになる『場所請負制』の考え方である。


 この制度においては知行地を内地の商人に請け負わせることによって、松前藩士が手数料を取る、という形式になっているため、後年、商人たちの権力が増大する結果を招くことになる。

 陣太夫はこれを先取りしようとしていたのだった。


 酒と野望に朦朧と酔いしれる次郎佐にいとまを告げ、草で編まれたしとみ戸をめくって陣太夫は外へ出ると、にやりとほくそ笑んだ。


 これで次郎佐はその気になった。

 自分は相方からも手数料を取って自分の分は固定額だ。

 商い上の危険はすべて次郎佐が負うことになり、自分は手を汚さずに済む。

 経済は次郎佐に握られ、惣大将の権威は実質的に形骸化していくだろう。



 石狩のアイヌ組織は骨抜きになる。



 陣太夫はくっくっと笑った。





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