第2話【二】アフリカ人、アフリカを去る(後編)
「なあ、デンババ。聞いたか? 『人狩り』の話」
右側に座ったカンガが、豹の毛皮をナイフで削ぎながら左側で同じように手を動かしているデンババに声をかけた。
デンババはちらと顔を上げた。
「『白い服』のことか? 老シブチが聞いたとかいう」
ああ、と言ってカンガがぺろっと腕の傷を舐めた。血はもう止まっている。
「西のトロ族が一夜でいなくなった、という話を聞いたのがついこの間だ。なのに、今度はバンゴロ族が『狩り』にあった話が舞い込んできた」
「逃げてきたただ一人の生き残りが老シブチに伝えてから死んだ、という話だろ。俺も聞いた」
デンババが頷く。
「『人狩り』の連中は西の海から来たらしい、と聞くな。海沿いの部族を襲って根絶やしにしたから、東へ入ってきているのかもしれん」
「いやな感じだな。だんだん近づいて来ているみたいじゃないか」
毛皮を傷つけないように豹の腹を慎重に裂きながら、カンガが顔を歪めた。
白い服を着て見慣れない強力な武器を持ち、大勢の人間を
だが、アフリカは広い。
広大な原野に点在する少数民族たちにとっては漏れ聞こえてくる『人狩り』の噂も所詮対岸の火事でしかなかった。
自分たちの身に降りかかることになるとは思っていない。
それよりも何より大切なのは、今日という日を生き抜くこと。それだけが、彼ら現地人にとってもっとも重要な問題であったのだ。
気にしていたのは彼らのようなごく少数の限られた人間のみであった。
アフリカは貧しい、とよく言われる。が、たぶん、それは違う。
アフリカは「厳しい」のだ。
生きていくこと。生き抜くこと。それ以上の課題は存在していないのと同じである。
それが中世アフリカに住む人々の現実であった。
豹の毛皮と槍をぶら下げて歩いていたデンババの足が止まった。
丈の高い草の向こう側、青い空にたなびく黒い煙が見えた。鹿を肩に担いだカンガも足を止めた。
デンババが鋭くカンガを見た。
「村の方だ」
カンガが頷く。二人は走り出した。
複数の小屋の草で葺いた屋根が見えてくる。二か所から黒い煙が空に昇ってゆくのが見えた。
ぱん、ぱぱあん、という破裂音が続けて二回した。
村の
広場には数十人が集まっていた。男も女も子供もいる。不安げに左右を見渡す者ばかりだ。
その周囲を、馬に乗った白い服を着た男たちが取り巻き、馬を走らせながら集まった人々が逃げ散らないように動きを制していた。
見慣れない長い棒のような物を振り回し、声を出して威嚇している。七八人はいるだろうか。
「『白い服』だ」デンババが低く呟く。
カンガがくそっと唸った。「ついにここまで来たか」
集められた人々の向こう側に十数人が横たわっているのが見える。動いている者はいない。死んでいるようだ。
よく見ると老人ばかりだ。足手まといになると見られたのかもしれない。デンババがぎゅっと口を結んだ。
ユルイ!
デンババの目が集められている人々を素早く索敵した。
見知った少女の小さな顔を探した、が、捕らえることはできなかった。
二つ年下の娘。
デンババに近づいては離れ、離れては近づく微妙な距離に、いつも居た。
あなたは小さい頃死に別れた兄に似ている。
いつかそう言われたのが、遠い昔の記憶のようだ。
逃げ伸びていてくれればいいが。
そんな事をふと思った。
「数が多いな――やれるかな」
カンガが顔を寄せた。デンババの目が細くなる。
「厳しい、と思う。あの武器を防ぐ手がない。とりあえず離れて――」
背後でがさっと草を踏む音がした。二人がはっと振り向く。
黄ばんだ白い服を着て馬に乗った男がそこにいた。同じ黒人だが見慣れない顔つきだ。穴が開いた棒の先端を二人に向けていた。
「ヘイ、まだ生きのよさそうなのが二匹いたぜ」
男が口を曲げて白い歯を見せた。
カンガが腰を曲げて飛び掛かる態勢に移ろうとした瞬間、ぱあん、と音がして棒の先端から小さな火と煙が噴き出した。
動き出そうとしたカンガの足元で地面がびしっと弾けた。カンガが飛びのいた。デンババの体が固まる。
「売り物だからあんまり傷はつけたくねえんだが、妙な真似をしたら禿鷹の餌になることになるぜ。――槍を捨てろ」
ニヤニヤと笑っている。カンガがぎりっと歯を食いしばった。
デンババが持ち上げかけていた槍を手放した。男を睨んだまま、小さく息をついた。
追い立てられて二人は広場の集団の中に追い込まれた。
改めて周囲をゆっくりと見回す。
少女の姿は見つからなかった。
二三人の白い服の男たちが手慣れた様子で複数の小屋の中を改めている。隠れている者がいないかどうかを確かめているようだった。
デンババは傍らに横たわった老人に目をやった。
鳥の羽根飾りを身に着けた老人が、驚いたような表情で目を見開いたまま倒れている。
額の脇にぽつりと小さな穴が開いて、血が一筋流れていたが、その血ももう乾ききっていた。
半開きの口元から数匹のハエが出入りし、虚空を引っ掻くように開かれた手は固まったまま動かない。
ウニグマだった。
デンババがゆっくりと歩み寄る。
「そこの! 離れるんじゃねえ!」
『白い服』の一人が怒鳴ったが、デンババはちらりと見ただけだ。
ウニグマの体に、持っていた豹の毛皮をかけてやった。
見下ろすデンババの顔には何の表情も浮かんでいない。
人として悲しみがないわけではない。だが、アフリカにおける人の死は、虫や動物のそれと何一つ変わることがなかった。
獲物として動物を殺しはするが、明日は自分が屍になっているかもしれないのだ。
それがアフリカという土地に生きる者の
息をする。食べる。糞をする。それと同じレベルで生活の中に「死ぬ」があるのだった。
今日、自分は生きている。ウニグマは死んだ。ただ、それだけのことであった。
だから、多くの部族は祖霊を敬い、祖霊に感謝する。
今日一日を生きてこられたことに対する感謝なのだった。
男の一人が馬の上からデンババの肩を棒で打ち据えた。
「この野郎! 戻れと言ってるのが聞こえねえのか!」
痛みに顔をしかめたデンババが男の顔を見遣る。
「なんだそのツラあ!」
今度は顔を横殴りにされ、デンババは地面に倒れ伏した。
顔が土を擦る。
砂の味に血の味が混じる。
何の感慨もデンババにはなかった。
自身がどうなるのか、などということも考えてはいなかった。
まだ、自分は生きている。
それだけが、アフリカに生きる人間の真実だった。
※
その後、繰り返された奴隷狩りの結果、もともと少数民族であったマヒ族はアフリカから姿を消した。
この時代、一体どれだけの数の部族が奴隷狩りによって滅亡したのか。総数を知る者は誰一人としていない。
皆、歴史の闇の中に消えて行ったのだ。
※
デンババとカンガの長い長い旅は、ここから始まった。
その行き着く先が、東の果てにある島国になろうとは、もちろん想像すらしていなかった。
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