お手入れ、落ち着かない時間

 そして、シャルに尻尾を触らせるという時間がやってきた。


 わざわざ櫛を持ってくるという本気の入れようだった。


「では、失礼いたします」


 最初はなにかを感じとっている手つきだった。毛の状態、長さを測っているだけでなく大切ななにかをしっかりとその手で掴んでいるのだと実感し、打ち震えているような。


 ス、ス、とまずは毛先のほうから何度か梳くと、かき分けて根元から櫛を入れてゆっくりと毛束をほぐされていく。橫にしながら櫛の動きは滑らか決して痛みも不快さも覚えない。撫でられているときの心地すら思い出すほど、シャルの手つきは実に丁寧だ。かけがえのない大切な物を抱えているように優しい。


 まるで毛の一本一本に神経が詰まっているみたいだった。細くたおやかな指先から、掌からじんわりと広がる温もり、心地よさ。それらは徐々に根元に向かっていくほど大きくなっていく。毛並みの流れに沿っているのか不快感も出てこない。


 全身が水に浸かっているみたいにふにゃふにゃと力が抜けていく。頭の中も油断すれば睡魔に似た快感に溺れそうだ。体のなにかが疼いてくる。


 飼い主にお世話をされている犬って、こういう気分なんだろうか。見栄えとか尊厳とか主従関係とか呪いとか、もうどうでもよくなってくる。


「どうでございましょう、旦那様?」

「ああ、気持ち、――――――――ゴホゴホ! それでいい、」


 つい本音が出そうになってしまった。


 だが、本当に悪くない。むしろいつもやってほしいくらい気持ちがいい。小さいとき、マリー達の母親に頭を洗われたときも、乾かしてもらったときもこれほどの気持ちよさはなかったんじゃないだろうか。


「ずいぶんと慣れた手つきだが、以前にもやったことがあるのか?」


 気の抜けた声にならないように、喉に力を込めるが見透かしたような小さな笑みをシャルは見せた。


「いえ、そんな。こちらの屋敷に来て自分の髪の毛を扱うようになったから、きっとその影響でございましょう」

「そうか・・・・・・・・・」

「大切な主のお尻尾を任されているんですもの。自分の髪の毛と同じように扱うなんてできませんわ」


 なんだ? 俺の尻尾は王族の髪の毛より尊いのか? 女性にとって髪は命より大切だというぞ。自分の命より大事なのか? 


「きっと父上様も兄上様もこのお尻尾をお触りになったら、喜んで王位を禅譲するに違いありません。私がそう保証できるくらい素晴らしい尻尾ですわ」

「そんなことより、体のほうは大丈夫なのか?」


 世迷い言を聞き飽きたので、唯一の心配事を尋ねてみた。


「はい、なんともございません。きっと永遠に触っていたとしても、顔を埋めても抱きしめてもなんともないとおもいます」


 さらっと願望めいたことを突っ込んでいるが、ひとまずそちらを無視しておくとして。嘘ではないことは明らかだ。鼻歌でも諳んじてしまいかねないほど声音と気分が弾んでいて、呪いの影響なんて露ほども感じられない。


「それでも長い間触っていると害があるかもしれないぞ」

「旦那様は心配性でございますね。恥ずかしゅうございます」

「それは、なにかあったら陛下達に対して申し訳がたた――――――ん?」


 恥ずかしい? 


「エドモンという人から庇ってくださったときも、私を慮ってくだすったのでしょう?」


 庇った?


「エリク様にそのように優しくされて、私嬉しゅうございます」


 優しくした覚えはない。声に艶がある。尻尾を包みこむ掌、指の動きが手繰るようななまめかしさが加わってくすぐったい。のの字でも書いてしまいかねないほど上身が小刻みに揺れはじめている。


「なあ、シャル。いいか?」

「そんな旦那様に守っていただいて、こうして体の大切な場所を触ることを許されているだなんて、シャルは幸せ者です」

「俺はな?」

「はっ!? 未婚の女性と殿方が触れあうのは将来を約束しあった者同士! つまりこれまでのことを踏まえるとこれは旦那様なりの求婚!?」

「一度でいいから俺の話を聞いてくれ!」

「エリク様。子供は何人ほしいですか?」


 しかも続けるのか!


 勘弁してくれ! 拳骨をするか頬を張り飛ばすかやっとこさ我慢しているところだというのに! しかも尻尾を握られているから逃げようがないぞ!


「別にほしいとおもっていない!」

「まあ、旦那様は子供がお嫌いで?」

「そうじゃない! 俺の実家にいる兄も子供を三人こさえている! 領地の後継にも問題ないし、俺が結婚しなくても困らないだけだ!」

「????????????????????」

「どうして不思議がっている!」

「いえ。だって私はほしいかほしくないかを尋ねたのです」

「ああ、それが?」

「どうして困る困らないの話になるのですか?」 

「それは――――」


 心が竦んだ。


 俺の瞳を物怖じせず。その奥、裏まで。真意すら読みとられてしまうかのようなまっすぐさで。純粋さで。澄みきった清らかさで。まっすぐ見つめられる。


(こわい)


 ただ俺の言葉を待っているだけだというのに、逃げずに目と目を合せてくる。彼女の瞳から逃れる術はない。背けようとすると後ろめたく、しかし喋りだそうとすると喉の下でぐっとなにかが引き絞られてしまう。


「諦めて、いたからだ」


 静寂を経て、ぽつりぽつりと語りだす。


「こんな醜い姿の元へ、好んで嫁いでくれるという女性なんていない。将来を約束していた女性とも別れたくらいだ」


 え。小さな驚きが上がった。


「当たり前だろう。男女問わずこんな化け物になんて、誰も近寄ろうとなんておもうはずもない」

「そんなことは――――」

「お前もさっき言っていただろう。人は出会ったばかりの最初の印象、見栄えが大事だと。俺にとっては誰に対してもこの見栄え、最初の印象なのだ」

「・・・・・・・・・・・・・」

「どれだけ着飾っても身綺麗にしても、深く知ろうとさえおもわれないような見た目なんだよ」


 だから、諦めた。それだけのことだ。


「今では割りきっている。結婚なんてしなくても生きていける。恋人なんていなくとも騎士としての務めは果たせている。いや、そもそもそんなことを期待しているほうがおかしい」


 恋を求めるならば、騎士にならなくてもできる。妻を求めるのなら強さを求める。


「そのような経緯があったのですね・・・・・・・・・・・・・・・」

「ああ。わかったか?」

「ええ。わかりましたわ」


 納得がいった。そう書いている顔にようやく解放されたと実感する。


「旦那様が寂しがっているということが」


 だからどうしてそうなる。


「たしかに。立派なお考えですわ。生き方ですわ。そのように真面目で忠実で頑迷であったから私も救われたのでしょうけれど・・・・・・・・・・」

「ならどこが寂しいというんだ」

「本のことを語らっているときのエリク様は、実に楽しそうなお顔をしていらっしゃいました。ですが、お仕事をしているときはそのようなお顔をなさっていないのではないでしょうか」

「・・・・・・・・・・・・」

「生きるというのに、楽しという気持ちがないのは寂しいと感じましたわ」

「お前ならば、どうする?」

「え?」

「自分の体が、例えば親から受け継いだ病を得ていた。夫にも伝染するかもしれない。そして産んだ子供にも病が受け継がれるかもしれない。もしもそうなったとしたら、お前はどうする?」

「・・・・・・・・・・・・・」


 少し酷な質問かもしれない。大人げないかもしれない。だが、どうしようもないんだ。こうなってしまってもしょうがないじゃないか。そういう心持ちがあった。


「努力しますわ」


 しかし、シャルは言ってのけた。


「・・・・・・・・・・・・・・・なにをだ?」

「子供が産まれてきてよかったとおもえるように」


 言ってのけたのだ。


「私が父上様にも母上様にも兄上様にもそうされたように、そして夫になってくれるだろう殿方がしてくれたように。その子供のことを愛します。慈しみます。自分と同じ苦しみを抱えているのなら、側で共に泣き、癒やし、共に悲しみます。わたくしのすべてを捧げてでも、幸せに生きられるようにします。生涯を通して笑顔で生きられるように。あらゆるを努力しますわ」


 きっと、シャルは本当にそうするのだろう。


 母親が子供に対して自然とそうするように。自分がしたいと望んだとおりに。心の赴くままに。誰に命じられるでもなく。禁じられたとしても。そうしなければいけないという義務感に駆り立てられたわけでもなく。誰の目も関係無しとばかりに。


「私だって、生きててよかったって、いつもおもっていますのよ? 毎日が新鮮で、楽しくて、この世界にはこんなにも辛いことがあるんだ。でも幸せなことがあるんだって日々実感しております」



 もしも。


 もしもシャルともっと早く出会っていたら。王女でなかったら。


「子供に恨まれるかもしれないぞ」

「それでもかまいません」


 諦めたはずの未来があるのだろうか。


 今彼女と過ごしているときのような幸せな時間を送れたのだろうか。

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