第8話 二人きり

「ソラさんとは仲良くできた?」


「ちょっと目つきが怖かったけど、話すと良い人だったよ。一緒に働いてた人たちも」


夕夏は食べ終わった食器を岡持ちに戻しながら言った。


「もう少し接客態度が良くなれば売り上げも伸びると思うんだけどなぁ。味は良いのに」


「はぁ~食べましたねぇ。それでは私はお昼寝しますので」


 ミアは満足げに大きなあくびをすると、当たり前のように居住部屋の方へと消えていった。


「ミアね、飯を食うといつもああなんだ」


「はは……まあ、眠い状態で仕事しても捗らないしね」


「年上の人にこう言うのもおかしいけど、本当によくやってくれてるよ」


「……? ふうん、真面目そうだもんね、ミアさん」


 夕夏は今の何気ない会話に、以前も感じたような、どこか引っ掛かりを覚えたがそれがわからなかった。


「うん、小言ばっかり言われてる」


 肩をすくませる橙に、小さく笑う夕夏。


 ミアではないが、二人もまた昼食後の微睡に入り込みそうになっていた。今眠ったらさぞ気持ちが良いんだろうな、と夕夏は重くなってきた瞼を擦った。


 窓の向こうから聞こえる喧騒。それとは対照的に、静かな事務所内。時間が止まっているような錯覚を覚えるが、秒針の音がそんな考えを打ち消してくれた。


「眠いなら夕夏さんもひと眠りすればいいのに」


「――眠くないしっ! キャットさんに返し物するんだから大丈夫!」


「そりゃ失礼しました」


「ちょっとゆっくりしすぎちゃったし、行くね」


 夕夏は顔を紅潮させながら岡持ちを持ち、立ち上がった。すると。


「……あ」


「どうかした?」


「あ、いや、その」


「気になるでしょ。なに?」


「ほんとに言わなきゃだめ?」


「だめです」


「……二人きりだなって思って」


 紅潮させていた顔を、更に赤くさせる夕夏だった。


 そんな夕夏の様子に、橙はぽかんと口を開けていた。


「二人……ああ、そういえばそうだね」


「六年ぶりだよ、もう」


「六年……そうか。もう六年経ったのか」


 橙は少々声音を重くしてそう呟いた。


「とお兄?」


「――いや、なんでもないよ。あっという間だなあって」


「小学生だった私がもう高校生だもん」


「なるほど。僕は小学生の夕夏さんしか知らないってことなんだね」


「……高校生になった私、どう?」


「え、あ、いや……だけど今の僕は逆に高校生の夕夏さんしか知らないから」


「あ、困ってる困ってる」


「敵わないな……」


 橙は堪らず頬を掻いた。夕夏は笑いながら続ける。


「私もとお兄と同じ歳になって考えてみるとね、もし私が小学生の相手をしろって言われたら、たぶんしないと思うもん。とお兄もめんどくさかったりしたのかなあ」


 って、わからないよねそんなこと。と夕夏はおどけて言ってみせた。


「それはないと思う」


 夕夏の予想に反して、橙は言った。


「当時のことは覚えてないけど、僕だったら面倒なら遊んだりしないと思う。それを毎日のように一緒にいたのであれば、きっと楽しかったんだろうね」


 橙は夕夏の目を真っすぐ見て、そう言った。


「……ふうん。そ、そりゃ小学生の私も嬉しいだろうね! あはは……」


 夕夏は大変不自然な笑みを浮かべていた。


「じゃあ今の私は!? 私は十六で、とお兄は二十二でしょ!? どう!?」


「どうって、何も変わらないよ。というか――」


 橙は明らかに狼狽えている夕夏に苦笑しつつ、当然のようにこう言った。


「僕も、十六歳だから」


「――――はい?」


 夕夏はそのたった一つの言葉に、頭が全く追い付かなかった。背後から一瞬にして置き去りにしていく閃光。


「な……なに言ってるの。歳の差が縮まるなんてそんな意味のわからない――」


「止まってるから」


 そして閃光は、彼女の少し先で弾け、辺りを明るく照らした。


「この町に住んでいる人たちは歳を取らない。僕は十六歳のままだし、十八歳のミアが年上になる」


 夕夏は何度か感じていた違和感の正体が判明し、腑に落ちた。


 この町に迷い込んできた者は、その時から年齢が停止する。橙は行方不明になった十六歳から。ミアも十八歳の時に紅々町に来たのだろう。だから橙はミアのことを年上だと言っていたのだ。


「じゃあ私ととお兄は、同い年ってことになるの……?」


 怖くはなかった。怖いどころか、夕夏は興奮を覚えていた。


 これは、チャンスだと。


 同時に頭の中で、昨日テレビで見たキャスターの声が甦る。




 ――捜索活動は明るくなった翌日から始まり、警察官、地元の消防団など、総勢六十人体制で行われました。しかし懸命の捜索も虚しく、橙くんが発見されることはありませんでした。あれから六年の間、上谷さんご家族の時間は、今も止まり続けています。




「夕夏さん? なんだか目が怖いんだけど……」


「とお兄と同い年……タメ……いけるかも……!」


「夕夏さん?」


「ひぇ!? な、なな何!?」


「なんか今までに見たことない顔してるんだけど。この数分で宝くじにでも当たったみたいな」


「なぁに言ってんのさぁ!」


「めちゃめちゃニコニコしてますけど」


「してないもん! それじゃキャットさん行ってくるからまた後でね!」


 夕夏は意気揚々と立ち上がり、景気よく岡持ちを持ち上げようとした。


「――あっ、岡持ち閉まりきってないぞ!」


「えっ」


 見れば岡持ちからどんぶりが半分顔を出していた。このまま持ち上げてはどんぶりが落ちてしまう。


 橙は咄嗟の判断で岡持ちを持っている夕夏の左手首を掴んだ。


「わわっ!」


「おおお?」


 夕夏は既に立ち上がる体勢に入ってしまっていた。急に手首を掴まれ、バランスを崩す。


「――あたっ!」


 結果、夕夏は尻もちをついた。


「ごめんとお兄、フタ開いてるの気づかなくて。助かったよー」


「そりゃよかった……」


「あれ、とお兄? なんか苦しそうだけど」


 橙の視界は塞がれていた。


「……できればどいてくれると嬉しいかなぁ、なんて」


 夕夏の背中に。


「え……えええええ!?」


 バランスを崩した夕夏が尻もちをついた先は、橙の膝の上だった。


「はは……昔もこんなことしたりしたのかい?」


「ぎゃああああああ!」


 夕夏は頭から蒸気のようなものを噴出した、ような気がした。


 苦し紛れに冗談を言う橙の言葉など、全く耳に入っていない夕夏だった。目がぐるぐると渦を巻いているよう。


「ごっ……ごめんね! 重かったよね!? すぐどくから!」


「いや、別に重くはないんだけど、すぐどいたほうがいいとは思うかな」


 橙が言ったのとほぼ同時だった。


「ふわぁああ~……ほはようございましゅう……」


 シロナガスクジラが、居住部屋から頭を出したのだ。


「ミアの昼寝はいつも二十分きっかりだから」


 そこからの夕夏の動きは光のようだった。橙の膝から降り、岡持ちを持ち、入り口に手を掛ける。橙は先ほどまでの時間がごっそり削り取られたような気がした。


「……あれぇ。滝口さん、また出前ですかぁ? 今度は何を?」


「いまから戻るところです! 二十分で十時間くらい寝たみたいな寝起きじゃないですか! なんですかその芸術的な寝ぐせは!?」


「ミア、事務所にクジラは持ち込まない」


 午後の業務はいつも通り、ゆっくりとした始まりだった。

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