garden

傘立て

第1話


 むせかえるような花の香りと緑の匂いに包まれた道を、枝葉をよけながら進む。道は複雑に曲がりくねり、一歩進むごとに色も形も違う花々が現れた。名前の分かるものだけでも何種類あるのか分からない。紫陽花の横を通りすぎ、薔薇の花弁の色を数え、赤い花をつけた椿の木の角を曲がり、綻ぶ白梅の枝を仰いで、姿の見えない金木犀の存在を香りで知り、野薔薇の茂みを越え、桔梗の紫に立ち止まる。ダリア、パンジー、水仙、クリスマスローズ、凌霄花、芙蓉、向日葵、蝋梅、朝顔、夕顔。どれも今が盛りと咲き誇っている。

「滅茶苦茶だな。どうなってるんだ、一体」

 コスモスのかたまりの横を歩きながら、思わず独り言が漏れた。たいして花に詳しくない俺でも、これだけあからさまであれば嫌でも気づく。花が季節を無視している。

 

 旅先で気まぐれに入った喫茶店で、店主から面白いところがあるから行ってみろと勧められたのが、この庭だ。住宅街からは外れた、しかし人里離れたというほどでもない場所の、背の高い塀に囲まれた敷地。たしかに豪邸と呼べる規模ではあるものの、わざわざ見物を勧めるほどでもないというのが、外から見たかぎりでの感想だった。閉じた門扉に鍵はかかっておらず、呼び鈴も見当たらなかったため、勝手に開けて入った。その時点では庭木の奥に屋敷の姿が見えていたのでどちらに向かえばよいかの見当はつけていたのだが、奇妙に曲がる道を進むうちにいつしか見失ってしまった。背の高い草木が覆い茂るせいで、屋敷の建物も外塀も見えない。結果、迷った。

 方向感覚を失ったまま、今はただひたすらに足を交互に出している。このまま進んでよいのか、引き返すべきなのか、迷いが生じ始めた。しかし引き返しても余計に迷いそうな気がするし、かといって立ち止まっているわけにもいかない。せっかくここまで来たのだし、外観から推測した敷地の広さを思うとこのまま行き倒れて死ぬことはあるまいと、とにかくそのまま進むことに決めた。

 選択は間違っていなかったらしく、蔓のからまるアーチをくぐると、突然視界が開けた。目指していた石造りの洋館がすぐ目の前にあり、その前にハーブと思しき緑の畑が広がっている。奥に人影があった。庭仕事の最中と見え、こちらの姿に気づいて、枝切り鋏と麻袋を提げて歩いてくる。

「お客様ですか?」

 ずっと見えていただろうに、顔が判別できるぐらいまで近づいてようやく声をかけられた。知人かどうかを見極めていたのだろうか。

「はじめて見る方ですね。何かご用でしょうか」

 突然の侵入者に対して警戒する素振りもなく、男はにこやかに話しかけてくる。落ち着いた、耳馴染みの良い声だった。近づいてみると自分と同じぐらいの目線の高さで、それなりに長身であることが分かる。

「無断で入ってしまって悪いね。近所の親父から面白い家と庭があるって聞いたもんで」

「構いませんよ。呼び鈴も何もないし外から声をかけても聞こえないので、みんな勝手に入ってくるんです。それにしても、よくここまでたどり着きましたね。随分歩きましたか?」

 笑いかける口元から白い歯が覗いた。

「まあね。その分庭を堪能させてもらったけど、こんなに歩かされるとは思わなかったよ。不便じゃないのか?」

「近道があるんです。あとでご案内しましょう」

 こちらへどうぞ、と庭の一角に建てられた東屋に通された。植物の蔓を模したような金属の装飾が柱や柵に施されていて、アール・ヌーヴォー風と言えないこともないが、錆の色合いも手伝って豪奢というより野生味のある意匠だ。男に促され、柵に沿って造りつけられたベンチに腰かける。相手の男は正面に腰をおろした。紅茶を出されて随分用意がいいなと思ったら、自分で飲むつもりで準備しておいたものを分けてくれたらしい。

「悪いね。遠慮なくいただくよ」

「ええ、どうぞ。門からかなり歩かされたでしょうから、少し休憩された方がいい。近頃は植物の機嫌がよくなくて、客人に悪戯をするんです」

「悪戯?」

「庭の道を塞いで迷路のようにしてしまうんですよ。彼らにとってはほんの悪ふざけのつもりのようですが、絡まれる側にとってはたまったものじゃありません。慣れていれば最短の道を選べるんですが、初めて来た人は惑わされて、さっきの場所に出るまで何時間もかかることもあるので厄介なんです」

 話しながら、男は肩にかかった髪を背中側に払った。立っていたときはつばのある麦藁帽子を被っていたから長さに気づかなかった。ゆるく波打って流れる髪はかなり長い部類に入るが、不思議と奇抜な印象にはならず、男の静かな佇まいに自然に馴染んでいる。

「植物が、悪ふざけを?」

「花が咲いていたでしょう」

「ああ、門からずっと花だらけだったな。それも季節関係なく咲いてるみたいだったけど、何か特殊な育て方でもしてるのか?」

「いいえ、特別なことは何も。勝手に育って、咲きたくなったら勝手に咲きます。最近はあれもこれも一斉に咲いて、うるさいぐらいですね。みんなで結託して客人をからかうので、困ったものです」

 男の説明は丁寧で、声の調子や言葉遣いも常識的だ。だがそれに反して内容がどうもおかしい。掌を振って話を遮った。

「俺の理解力が足りないなら申し訳ないんだが、どうもあんたにもからかわれている気がするよ。植物が悪ふざけをするってのは、何かの比喩? それともこの庭に生えてる草やら木やらが意志をもって実際に仕掛けてくるのか?」

 周囲の草木を指しながら問うてみると、男はやっと気づいたように「ああ」と声を漏らした。

「説明がまずかったですね。比喩ではなく、言葉の通りです。ここの植物はちょっと変わっていて……、ええ、そうですね、意志のようなものです。さっきから悪戯や悪ふざけと言っていますが、意思疎通ができるわけではないので、実際のところ彼らがどういう意図をもっているのかは分かりません。ただ、我々が困るようなことを仕掛けてくることがよくあって……」

「それが、偶然ではなく、なんらかの意図によるものであることは確かだと?」

「そうです。ご理解いただくのは難しいと思いますが」

 正直なところ男の話はよく分からなかったが、凪いだ理性的な眼差しと声色から、こちらを煙に巻いてからかおうとしているわけでも、彼自身の気が触れているわけでもないと判断した。

「理解できたとは言いがたいが、あんたの言うことは疑わないことにするよ。とにかく、難しい庭であることは分かった」

 そう答えると、安堵したように笑みが返ってきた。自分について訊かれ、仕事を辞めたばかりで骨休めのための旅行中であることや、このあたりにしばらく滞在するつもりであることを伝える。この街にたどり着くまでにも何箇所かに短期滞在していたと言うと、興味深そうに話を聞きたいと言われた。

「さして面白い話ができるわけでもないぜ。それでもいいなら構わないが」

「聞かせて欲しいです。ずっとここにいるので、外のことを知りたい」

 社交辞令のような軽やかな声で請うてくるその目の光が、一瞬だけ縋るように揺れたのを見て、面喰らった。

「あんた、外には出ないのか? ずっとこの街に?」

 問いかけると、男は視線をはずして、一瞬だけ目を伏せてから遠くに目をやった。視線を追ってみたが、ここからでは木々に遮られて門も塀も見えない。

「出られないんです。街というか、この庭から。もう十年以上になります。外の風景は忘れてしまいました」

 低い声でそう呟いた。庭を吹き抜けて小さな葉を巻き上げた風が、男の長い髪を乱した。その風に飛ばされてきたのか、紅茶のカップに白い花びらが浮いている。紅茶ごと飲みこんだ舌の奥に、花の甘さが残った。

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