2-8
リュカの目が、より大きく見開かれた。
信じられないものを目にしたかのように。
「フィルアシス症は、虫魔によって運ばれる病。とある寄生虫に感染することによって引き起こされる死を呼ぶ病なのです」
しん、と。場が静まり返る。
きっとこの場にいる、シュユを除いた全員が素直に受け入れられないだろう。
フィルアシス症が存在すると当然のように語っているシュユだって、はじめてフィルアシス症という病の存在を知ったときは上手く受け入れることができなかったのだから。一部の幻獣に特化した、初期症状がわかりにくく致死性が高い病が存在しているだなんて。
静寂に包まれた空気の中、ふと浅く息を吐き出す音がした。
「……エデンガーデン様。あまり適当なことはおっしゃらないほうがよろしいかと」
はつり。
小さく呟くかのような声で、ベアトリスが静寂を破った。
「寄生虫とは、不衛生な環境下で発生するもの。ですが、セティフラムはブルークラリス侯爵家のお力によって衛生的な環境が保たれています。現に、寄生虫症で幻獣が医院に運び込まれてくることはなくなったといっても過言ではありません
「ピスタシェ様」
「あなた様は、セティフラムの地が、星炎の神獣の地が、寄生虫が発生するような不衛生で管理が行き届いていない土地だとでも!?」
ベアトリスの声にじわじわと怒りが滲み、最後には怒気を強く含ませて叫んだ。
鋭い目でシュユを睨み、明確な敵意をシュユへ向けてきている。
だが、怯むことなく、シュユは首を左右に振った。
「いいえ、そういうことを言いたいわけではありません。どうか落ち着いてください」
「では、エデンガーデン様はなんとおっしゃりたいのですか!」
「寄生虫は他の生き物によって運ばれることがあります」
ベアトリスの勢いに飲まれることなく、冷静に告げる。
「ピスタシェ様がおっしゃるとおり、寄生虫の多くは不衛生な環境下で発生します。その証拠に、衛生的な生活を送ることができるよう整えられた場では、寄生虫に感染したという報告数は減少します」
過去のルミナバウム領でもそうだった。
神獣が大地を駆けていた時代のルミナバウム領では、戦が終了したあと、衛生管理が十分に行われずにいた時代があった。復興が進む中で衛生面も整えられていったが、それまでに多くの感染症や寄生虫の影響でたくさんの命が奪われていった。
他の領地でも同様のことが起きていたが、それら全てはもう遠い過去となった。
戦後の復興が進み、領地の環境も整えられた現在では、寄生虫が発生する領地はぐんと減った。
だというのに、今こうして寄生虫の影響によって発生する病が確認されている。
なぜか?
――答えは一つしかない。
「しかし、寄生虫の中には他の生き物や昆虫を宿主にし、宿主が寄生対象と接した瞬間に移行、寄生してくるものもいます」
病魔の一部は、何らかの生き物を媒介にして運ばれ、感染を広げる。
一部の寄生虫も同じだ。宿主となる生き物や昆虫によって運ばれ、感染を広げていく。
寄生虫が発生しにくい衛生的な環境が整えられているはずなのにフィルアシス症が発生したのは、外部から領内へ、宿主となる何かが入り込んできたからだ。
苦々しく顔をしかめ、黙って二人のやり取りを眺めていたリュカが問う。
「エデンガーデン嬢。あなたは何によって寄生虫が持ち込まれたのか、わかるか」
発された声も落ち込んでおり、苦々しい。リュカがどのような心情にあるのか明確に物語っていた。
精神的に弱った相手へ追い打ちをかけるようで心苦しいが、だからといってフィルアシス症について語るのを中断するわけにはいかない。
苦い思いと己の無力感を噛みしめながらも、リュカはこの病と向き合おうとしているのだから。
息を吸い込み、吐き出し、淡々とシュユは告げる。
「蚊です」
死の病を運んでくる宿敵の名称を。
「フィルアシス症の引き金となる寄生虫は、蚊によって媒介されます」
リュカが眉をひそめる。
ベアトリスは訝しげに顔をしかめる。
ジェビネは目を丸くし、ぽかんとした顔を見せている。
三者三様の反応を見ながら、シュユは心の中で浅く息を吐いた。
「……蚊というと、あの吸血性の昆虫か」
「はい」
一度だけ頷き、シュユは説明を続ける。
「フィルアシス症は糸状虫という寄生虫によって引き起こされるのですが、この虫は感染能力を持たない小虫の間は蚊の体内で過ごすという性質を持っています。感染能力がある幼虫にまで成長すると、幼虫は蚊の体内から幻獣へ移行する機会を狙うようになります」
語る言葉は止めず、おもむろに片腕を真っ直ぐに伸ばした。
少々はしたないかと思いつつも、片腕で袖をまくり、肌を露出させる。
領地を離れて旅をしているため、他の貴族令嬢に比べると少々日に焼けているが、十分に白いといえる肌がさらされた。
その場にいる全員が突然のシュユの行動にぎょっとする中、行動を起こした本人は自身の腕――前腕部に親指の腹を押し当てた。
まるで、ここを蚊が刺したのだと仮定するかのように。
「幼虫になった糸状虫は、蚊の口吻に移動し、宿主が吸血のために幻獣を刺すのを待ちます。そして、蚊が幻獣を刺した際に口吻内から幻獣の体内へ入り込みます。寄生に成功した幼虫は皮下組織や筋肉組織の中に潜み、数ヶ月ほどの長い時間をかけてゆっくり成長します」
二回ほど親指で前腕部をぽんぽんと叩く。
「十分に発育すると、幼虫は次に血管内へ侵入します。血液の流れに乗って全身を巡り――」
言葉に合わせ、シュユの親指が白くなめらかな肌の上を滑っていく。
前腕部から肘窩へ。
肘窩を通り越し、二の腕へ。
二の腕から胸へ到達して――心臓の上でぴたりと親指の動きを止めた。
「ここ。心臓を目指します」
リュカの喉から引きつった呼吸音がこぼれた。
みるみる間に彼の顔が青ざめていく。
心臓は生命活動を維持するため、もっとも重要な臓器だ。少しでも傷つけばその生き物の生命活動に甚大な悪影響を及ぼすことも多いほどに繊細な臓器だ。
あらゆる生き物の急所である臓器に、糸状虫は寄生する。
顔を真っ青にさせるリュカの気持ちもわかる。シュユも糸状虫のライフサイクルをはじめて知った瞬間は、よりにもよってそんな場所に寄生する寄生虫が存在するのかと顔を青ざめさせたものだ。
「心臓に到達した糸状虫は右心室に寄生して成虫となり、繁殖します。右心室から溢れた場合は肺動脈にまで寄生し、そこで新たな幼虫を――小糸状虫を産み出します。誕生した小糸状虫たちは血液中に流れ、その血を吸った蚊の体内に入り込み、また次の幻獣へ寄生する機会を待ちます」
最後にぐっと強く心臓の上を親指で押し、手を離す。
まくっていた袖も下ろし、照明の光の下にさらしていた腕を隠した。
「皮下組織や筋肉組織中に幼虫が潜んでいる間は無症状で、心臓に寄生された段階で少しずつ呼吸器や循環器に関する明確な症状があらわれます。……これが、多くの幻獣の命を奪い、そして今セティフラム領の幻獣たちの命をも奪っているの病――フィルアシス症の正体です」
一連の説明を終え、シュユはかすかに表情を曇らせて浅く息を吐き出した。
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