第36話 沙汰
赫天を抱いたままの水鏡だった。その静かな迫力に村人たちが凍り付く。水の色の眸が宵を見る。
「この者たち、生きるに値しないな。湖に沈めるか」
もう幾人かが湖に沈んでいることを、水鏡は知っていた。強く誘いだしたわけではないが、そうなるのを止めようとも思わなかった。夜の湖は人の心を映し出す。弱さも醜さも、その罪も。その命の器より罪が大きければ、耐えきれず壊れてしまう。
湖そのもののような水鏡の冷たさに、村人たちは震えて地に頭を擦り付けた。弱い者たちが震えている。
環は宵の手を握り、不安そうに張り詰めた姉の横顔を見つめた。村人たちの姉への罪は重い。どう扱われたところで姉に反論するつもりはない。だが自分もまた同罪だった。姉が虐げられているのを、ほとんど知っていたのに見ないふりをしていた。もし姉が村人たちの死を願うのであれば、自分も同じ罰を受けよう。これは仕方がない。
「お前を虐げ、殺した者たちだ。どんな報いを与えようと止めるものはいない。私も、兵たちも。お前の好きなようにしろ」
宵は不安げに眉を寄せた。
「お前ができないのなら私がやろう。私の加護の元でこんなことが起こっていたことは、私も腹立たしくてならない」
口にしていると怒りがこみあげてくる。腕の中の赤子が細い泣き声を上げる。力の気配を感じ、宵ははっと顔を上げた。
「やめてください」
「なんだ。この者たちに情があるのか?」
苛立ったような口調の水鏡に、宵は首を振った。
「いえ……もう、ありません」
「宵!」
父が激昂している。宵はぼんやりとそれを眺めた。父も母も見知った村人たちも、土にまみれ、怪我をしている。弱い人たち。この人たちが怖かった。この人たちが正しいと思っていた。遠い記憶からこの人たちから受けた優しさを引っ張り出そうとしても、何も出てはこなかった。情のやりとりなど、初めからなかった。村人たちは小さな宵への、人として自然に沸き起こる哀れみを拒むことで、自らを守ろうとしていた。宵を憐れむことは敗北であり、汚れることだった。宵がやせ細り光のない目をすれば安堵したし、宵が悲しめば腹が立った。宵は長く続く村の安寧の犠牲に、まさに自分たちの代の愛の象徴である環を捧げなくてはいけない理不尽そのものとして扱われていた。一人の子供として宵を見てしまえば、自分たちの罪と向き合うことになってしまう。
宵を一人の人として見てくれたのは罪の外にいた環と、そして、その環を一人の娘として恋うていた仁、この二人だけだった。仁は宵を殺したが、一人の人として殺したのだった。罪を背負う覚悟で、殺したのだ。恋した娘も、この先の安寧も、何も得られなくとも、ただ自分の心のままに決めて、そうした。
仁は宵の心を傷つけた。わかっていてそうした。だが、他の誰が宵に心があることを知っていただろう。村人たちにとって、今も宵はただ何かの反応をするだけの事象に過ぎない。村にいた頃は虐げ、こき使う対象であり、今は理不尽な裁きをするもの。
宵自身もかつて、自分に心があるなんて思っていなかった。つらいと思うのは間違った反応で、押し殺さなくてはいけないと思っていた。みなそこで初めて、宵は心を与えられた。水鏡と鈴によって。
その心で、宵は彼らを許すつもりはない。村が燃えるのを助けたのは、そう自分で決めるためだった。自分がされたことがどうなのかは自分で改めて相手を見て、冷静なときに決めたかった。
「殺すか? あの者たちも文句はあるまい」
宵に水鏡が言う。視線の先には兵がいた。敵兵を捕縛し、状況をまとめている。そのうち指揮を執っているものが、水鏡の視線を受けて頷いた。もともと神のすることは人の法の外にある。水鏡とその伴侶である宵のすることを咎めることなどない。そもそも、止める手段もないのだ。
すべては宵の思いのままだ。宵は力を持っている。だから何もかもを自分で決められる。
「殺しません」
「何故?」
不服そうな水鏡に、宵は首を振った。
「殺すほどは恨んでいないからです」
「お前はこの者たちに殺されたんだぞ?」
宵は水鏡を眺めた。自分のために必死になっている神。
「村は水鏡様が、花嫁を求めていると思っていました」
「それはひどい誤解だ。私は若い娘の犠牲など望んではいなかった」
水鏡は鈴とのことが誤解を招いたのだと経緯を説明した。宵はなるほど、と頷いた。馬鹿げた話だが、いかにもありそうなことだった。
「水鏡様は……」
宵は言いよどんだ。自分が言おうとしていることは、水鏡の気分を損ねるだろう。
「なんだ」
水鏡はすでに損ねているようだった。流れる白い髪を赤子に弄ばれても気にする様子もなく、不機嫌に宵を見据えている。ただ、強い存在。強い力。生きることになんの煩わしさもない存在。天候や作物の実り、病や怪我、村の別の住人の都合や、色々なことを考慮することもなく、ただそれだけで存在できる。今、宵はその同じ力を分け与えられていても、一人の小さな人間として生きる煩雑さを忘れることはなかった。宵のように虐げられていなくとも、人が生きる、ということ、村を人が生きる場所として保つ、というのは、大変なことだった。あらゆる恐れとは無縁でいられない。
「ご自分の言葉が、人にとってどれほど大きいものなのか、わかってないと思います」
「……は?」
ぽかん、と水鏡は口を開いた。意味がわかっているわけでもなさそうだが、きゃっきゃとその腕の中で赫天が笑っている。
「神様にとっての軽い言葉は、人にとっては重いものです。今の私は人の気まぐれで命を奪われることはないですが、私の気まぐれで人の命を奪うことが、できます。なら前と同じように振舞うことはできません。力の強いものは、力の弱いものと同じ振舞いをしてはいけないと思います。水鏡様は、もっと言葉に……それを相手がどう受け止めるのか、気を付けるべきだったと思います」
水鏡はぽかんとしたまま宵に問うた。
「お前が殺されたのは、私のせいだと言いたいのか?」
「……ええと……全てでは、ないですけど」
部分的にはそうだと言うのか。
水鏡は反射的に反駁したくなった。そんなことがあるものかと。だが言葉を呑みこんだ。納得したからではなく、宵が真剣だったからだ。少なくとも、水鏡は人が自分の言葉をどう受け止めるのか真面目に考えたことはなかった。宵と自分のどちらが正しいのかはわからないが、宵ほど自分が真剣だったことはない。
水鏡はため息をついた。
「まあ、お前がそう思うのであれば、それでよい」
「ごめんなさい」
「謝るな。お前の決めることだ。だが、」
水鏡は目を細めて震える村人たちを見据えた。
「私は今後この者たちを私の棲家の近くに住まわせるつもりはないぞ。私は湖の周りを他の人間から守らせる代わりに穏やかな天候と豊かな森の恩恵を与えている。この者たちに罰を与えるかはお前が決めればいいが、少なくとも私の加護には値しない。ここを譲るつもりはない」
そんな、と細い声が村人たちから漏れた。宵、と、縋るような声もした。母の声だ。宵はちらりとそちらを見て、水鏡に応えた。
「私もすべてをなかったことにするつもりはありません。この村……」
と口にして、もう村は焼けてしまったのだと気づき言い直した。
「この場所からは出て行ってもらいます」
怒りと消沈がこもったため息があたりに響いた。水鏡がつめたい一瞥を投げる。
「この地だけでなく村人たちには私の加護があったのだが、それも取り上げる」
宵は頷いた。相応しい沙汰のように思う。
「宵!」
父が宵を呼んだ。宵は黙って見つめた。その視線の静けさに、かつての娘の雰囲気を見いだせず、戸惑うが、このまま黙っているわけにはいかなかった。納得ができない。
「なんでそんな……なんでそんなことができる! お前に食わせて、住む場所も与えてやったのに……なんでお前はわしらからそれを奪おうとするんだ!」
宵は首を傾げた。確かに、道理は通っていないこともないように思えた。
「多分……恩知らずな娘だからでしょう」
口から滑り落ちたのは、かつて投げつけられた言葉だった。
「は……?」
「村にいた頃、よくそう言われました。多分、その通りなんです。よくしてもらったこと、思い出せません。近くにいられると、嫌なことばかり思い出します。水鏡様の加護のある村で、また子供が私みたいな目に遭うのは、耐えられません」
宵は呆然とする父と母を見た。本当に、もうなんの感情も沸いてこなかった。恨みもなければ、情もない。
「恩を返せなくてごめんなさい。この場所から出て行ってください」
言葉をなくす父の横で、母が頭を深くさげた。
「……申し訳ありませんでした」
宵は応えなかった。それはやはり、もう意味のない言葉だった。時期を間違えた謝罪。そして母にとっては、もう自分は娘ではないのだと悟った。
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