第23話 騒乱

 環は仁に手を引かれ、森をひた走っていた。火矢に混乱し、村人も兵士もちりぢりになった中で、仁はすぐに環の手を取り森へと走った。環もほとんど入ったことがない深い場所に入り込んでおり、見失ったのか兵士たちの姿も見えない。

 あたりに人気がないのを確認し、仁は立ち止まった。環も足を止め、乱れた息を整える。

「いったい……なんだと、言うの」

「わからん」

「別の村の人たちなの? この村に恨みがある人たちなんているかしら」

 仁は他の村とも付き合いがある。首を振る。

「そんな様子はない。本当にわからない。だが……」

「何?」

「この村が他と違うのは、神の村だというぐらいだ」

「そうでしょうね」

「近くの村なら詳しくは知らなくともここがそういうものだとわかっている。だが、少し離れれば村の場所さえ知られていないはずだ。この近くに住むやつらは神を恐れる。火をかけてくるような真似はしない」

「わからないわよ。どこにだって変わった人はいるし……」

 環は反論して、自分の言葉の違和感に語気が弱くなる。補うように仁が続ける。

「どう考えても一人二人のやり口じゃない。数は多くはないだろうが、頭がいる集団だ。火矢だって、あんなもん簡単に打てるものじゃない。さっき、火を消した家の後からも矢みたいなものの燃えさしを見つけたんだ。どういうわけか知らんが、この村を狙っているやつらがいる」

 それは環も感じていた。明らかに慣れている。村人たちからは見えない距離から、環を狙っていた。周到な用意を感じる。

 兵士たち。

 環の頭にその言葉がひらめいた。だが、そんなことはありえない。環をここまで派遣したのは宰相をはじめとするこの国だ。別の大きな街の兵なのだろうか? 環の通った街にも兵がいた。環は国の仕組みに疎いが、距離のある街では同じ国とは言えそれぞれ別のやり方や意図で動いていても不思議はない気がした。しかし、仁の言うようにこの村は知られていないのだ。なぜ今になって。考えはそこで止まる。

「とにかく、環、お前は逃げろ」

 仁は汗に濡れた髪を払って言った。

「え?」

「お前は森を出て、とにかく近くの村に駆け込め。馬は……繋がれてるところまで取りにいけないな。とにかく早く行け」

「あなたはどうするの?」

「俺は俺のやるべきことをやる」

 仁はなんでもないふうに言った。これまでも獣の侵入や落雷など、異変があったときは村長の家のものが率先して確認していた。誰に感謝されるでもなく、そして、本人たちも気負った様子もなく。実際それほどの危険のない局面だったし、これまで、危険というものはこの村にとってどこか遠いものだった。神に愛された村だから。いつか、神の花嫁を捧げることが決まっていたから。

 仁はそれなのに、来るはずのなかったこの危機への覚悟が決まっていた。まるで、もっと前から思い定めていたかのように。

 そのことに気圧されるのではなく、鼓舞されるように環は言った。

「でも、私にも私のやるべきことがある」

「何を言ってる」

「神が捧げものがなくて怒ってるなら、今からでも私は行ってお願いしないといけない」

 仁は困惑しきっていた。環にとっては何もおかしくはない。ただそのために戻ってきたのだ。自分には自分の役目がある。受け入れられなくとも、これは環の役目だった。

「……死ぬんだぞ」

 仁は助けを求めるように低い声で呻いた。

「死にたいわけじゃない。私は村を守りたいの。この村で大切に育てられたのは、何も私が特別に優れた娘だったからじゃないでしょう」

「そんなことを言うな!」

 仁は声を荒げた。

「お前は……お前は、お前は死んじゃいけない。絶対に死んじゃいけない。お前だけは、生きなくちゃいけない」

 そこにはなんの理屈もなかった。ただ願いだけがあった。役目と責任のもとに生まれた仁が、ほんの幼いころからずっと抱えていた、身の丈に合わない願い。

 環の心を打ちはしたが、考えを変えることはなかった。環もまた、おのれの存在を賭けて結論を出し、ここに帰ってきたのだから。

「私は逃げない」

「宵はどう思う」

 環は立ち竦んだ。宵。その名を口にした仁の瞳は暗く淀んでいた。

「今逃げればお前は生きられるのに、なぜあえて命を捨てるんだ。宵がそれで喜ぶのか」

 環は答えられなかった。仁は何かに急かされるように言い募る。

「宵はお前をいつも思っていた。お前にいつも申し訳ないと思っていたんだ。だから笑うこともなく、村の人間に虐げられても口答えもしなかった。お前ひとりが死んでしまう定めが受け入れられなかったから。お前は今生きて助かったのに、なんで宵を悲しませるようなことをする」

 やっぱり姉さんは、みんなに虐められていたんだ。

 薄々気づいていたことを、仁の言葉で改めて確認する。いつも暗い顔をして、忙しく立ち働き、人の声に怯えたようにしていた宵。薄々気づきながら、見ないようにしていた、近しい人の苦しみ。

「お前が命を捨てたら、宵の犠牲は無駄になるんだぞ!」

「姉さんの……犠牲?」

 環の問いに、仁ははっとした。明らかにまずいことを言ったという反応に、環は不吉な予感を覚える。薄々気づきながら、見ないようにしていた。環は自分に、そういう性質があることをようやく自覚しつつあった。

 満月の日に消えた姉。姉の言葉を聞くと、怯えた男たち。姉の話を誰もしない。

 自分を守ろうとし続けた仁。

 犠牲。

「姉さんを……私の、代わりにしたの……?」

 問うた途端にそれが真実だと完全に理解した。体がつめたくなり、指が震えた。宵は自分の代わりに、殺されたのだ。死ぬと思っていなかった姉。いじめられながら、この先の未来を信じていた姉は、殺された。

「何が悪いんだ。お前が生きるためには、誰か死ななきゃいけない。それが宵だっただけだ」

 環に知られてしまった今、仁はもう怯えてはいなかった。他の男たちと違い、仁は今でも自分がしたことに揺らぎはなかった。

 環は激昂した。

「私は姉さんに代わってほしいなんて思ったことはない! あれは私の役目だったのに!」

「大きい声を出すな」

「何を落ち着いていられるの? 姉さんを……姉さんを返してよ!」

 仁は首を振った。

「宵はお前のために湖に自分から沈んだんだ。だからお前は生きなくてはいけない」

 環は返す言葉が見つからなかった。ただ茫然と幼馴染を見つめて、小さく首を振った。泣かないと決めたことを思い出す間もなく、黒い瞳から涙が零れた。受け入れられない。姉がもう死んでいるだろうことも、それが、おそらく自分のために行われたことも、目の前の幼馴染が姉を死に追いやったことも。

 みんな、知っていたの?

 環の心が萎えていく。姉の存在は、環の心の芯だった。自分という存在の裏側。あったかもしれない生き方。生まれたときから一緒だった。隔てられても、遠く離れても、環の心にはいつも姉がいた。静かで、寂しそうな姉。またほんの幼いころのように一緒にいることを夢見ていた。そんな日が来ると思っていた。

 そんな日は来ない。

 呆然と立ち竦む環の手首を仁がつかむ。そのまま環を森の外に引きずろうとする。そのとき、森から音がした。追手が来たのかとそちらを見る。

「馬……?」

 環が乗ってきた白馬だった。騒ぎに紛れて逃げ出してきたようだ。仁の手を振り払い、環は白馬の鼻先に触れる。安心したように白馬がすり寄る。

「ちょうど馬もいるし、お前はそれに乗って逃げろ」

 仁の声を、環はほとんど聞いていなかった。手を上げて馬を撫でた。自分とは違う体温。深い呼吸。馬は環を慕っていた。村を出るまで、自分があれほど馬に乗れるようになるとは思っていなかった。

 まだ自分にはできることがあるはずだ。

「環」

 焦ったような仁の声を無視して、環は馬に飛び乗った。

「行って!」

 環の求めに応え、白馬は森を走り出した。

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