第8話 水鏡

 水鏡に導かれてたどり着いたのは、水場だった。

 正円の白い盥のようなものだが、宵の生家なら丸ごと入るほどの大きさがある。水面は鏡のように光り輝いていて、白や薄紅や淡黄の、見たこともない花が浮かんでいた。宵のよく知る緑から滴る色とりどりの雫のような野の花とは違って、一つ一つが誰かが丹精込めて作り上げたような美しさだった。

「水浴びをしたいのだったな。これでいいか」

 水場のそばには確かに白い敷物があり、その上には白い着物と白い履物と、体を拭くための大きな布が畳んで置いてあった。

「水浴び……ここで……」

「気に入らぬか?」

「いえ……あの……」

「遠慮することはない。お前の気に入るものを用意しよう」

 宵は慌てて首を強く振った。勢いに、水鏡は笑い、手の中の鈴がにに、と鳴いた。

「気に入らないとかではなくて……私、汚れているので、こんな綺麗なところに入るのは……」

「うん?」

「私が入れば……汚れてしまいます」

 羞恥を堪えてなんとか言った。汚れているのは常のことでも、水鏡にそれを口で伝えるのは恥ずかしかった。

「だからなんだ?」

 水鏡は怪訝な顔をしていた。宵は黙ってその顔を見た。水鏡は微笑んだ。

「いや、悪い。お前はそれを、気にするのだな。汚れか。気づかなかったな。うん」

 ぽんぽん、と、宵の肩を軽く叩いた。すると、宵の肌についていた土はどこかにとりさられ、日に焼けた若い肌が露になった。

「え……」

「綺麗になったぞ。水に入るか?」

 にに、と水鏡の手のなかで鈴が身をよじった。水鏡が優しく言う。

「お前はやめておけ。宵はどうする」

 宵は美しい水場を見た。どこもかしこも輝いており、目の前にあるのにそこにあるとは信じがたい。だがこれは、水鏡の言葉を信じるなら宵のために用意されたものなのだった。

「……入ります」

 消え入りそうな声で答えた宵に、水鏡は、

「そうか」

 と嬉しそうに笑った。


 水鏡が嬉しそうに自分を眺めているので、着物は着たまま入ることになった。爪先を浸すと、水はその清涼なつめたさを伝えたが、凍えるほどではない。縁に腰かけて、花を眺める。虫食いも褪色もない、どこまでも瑞々しい花びら。その合間、光る水面に、自分の顔が映った。痣のある顔。環と似ている、と、仁は言った。似ているとは思えない。だが、環と双子で、痣があった。誰にも愛されない、死んでも誰も悲しまない証拠のように感じた。だが、この痣があったから、ここに来られたのだ。死にたくない、と環は泣いていた。ならばきっとこれでよかったのだ。環にとって生きることは、ここにいるよりもずっといいことだったのだろう。宵にはそれが想像もつかない。

「どうした」

 いつの間にか、水鏡が並んで縁に腰かけていた。白い着物が水を含んで浮いている。白い大きな足の先には形のよい爪があり、水の中にあると魚の腹のように光った。膝の上を見たが、鈴がいない。

「鈴は」

「あいつは逃げてしまった。どこかで遊んでいるだろう。向こうのほうに木を作ってやったから、そのあたりで寝ていることが多い」

 指さす先は靄になっていて見えない。木を作ってやった。どういうことだろう。水鏡の容貌や光景の非常識さになんとなく受け入れていたが、結局ここはなんなのだろう、と、宵はふと疑問に思う。水鏡の優し気な眼差しに身に沁みついている警戒心をわずかに解いて尋ねる。

「ここは、湖の底なのですか?」

「うん? そうとも言えるし、そうでもないと言える。ここはただ私の棲家だ。人間たちと関わるときは湖を通すが、お前たちが湖の底をさぐってもここにはたどり着けまいよ。私が道を開いてやらなくてはいけない」

 水鏡の説明は宵にはよく理解できなかったが、湖からここに来たことは確かなようだ。

「ここには、他に誰がいるのですか」

「私と、お前と、鈴。それだけだよ」

「え」

 これだけ広いのに。宵の考えに添うように、水鏡は微かに寂し気に笑った。

「人の子とこうして話すのは久しいが、悪くない。新鮮だ」

「……そうですか」

 水鏡は水面の花に指先で触れた。花はすっと水面を滑る。さらさらと白い髪が白い肩を流れている。すべてが美しい。

「水浴びも悪くないな。私は楽しい」

 ただ美しいものを眺めているつもりが、水鏡がこちらを見たので、宵は戸惑った。水鏡は宵を見つめている。輝く水面よりも水鏡の瞳はさらに美しい。輝きが強くて、宵の惨めさも輝きの中に紛れてしまう。

「私も、楽しいです」

 口にして初めて、宵は自分は楽しんでいることを知った。差し出がましいかと恥じ入る前に、水鏡はとろけるように微笑んだ。

「それはよかった」

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