第7話 みなそこ

「そろそろ起きたらどうだ。娘」

 意識を失う前と、同じ声で宵は目を覚ました。目を開けると、見知らぬ場所にいた。白い。そして、広い。白いふかふかとした布団の上に寝かされていたことに気づき、とっさにそこから降りた。だが床も白く、見たこともない材質で出来ていた。白い石のような見た目だが、それほど硬くもつめたくもない。宵はどうしていいかわからず身を縮めた。

「どうした娘。怖いのか」

 声の方に顔を向けると、そこには男がいた。

「なんだ」

 笑っている。宵はぽかんと口を開いた。

 あまりにも美しい男だった。顔かたちはもちろん整っているのだが、その存在自体に圧されるような、目に入った瞬間、その男にすべてが支配される、力のようなものがあった。長い髪は湖の漣に似た白。瞳は晴れた日の湖の深い青。宵には着方のわからない白いゆったりとした着物を何枚も重ねて、髪や首に青色の珠をいくつもつけている。

 人間ではない。

 説明されずとも、それがわかった。

「かみさま……」

 思わず漏れた言葉に、神は笑った。

「うむ。水鏡という」

「みかがみ……さま」

「うむ。娘、お前、名はあるか?」

「あ……」

「あというのか?」

「いえ……あの……宵、と、申します」

「宵。宵か。うむ。なるほど」

 水鏡は楽しげに笑った。

「宵。ではよろしくな」

「よろしく……?」

 水鏡ははたはたと白いまつげを瞬いた。湖面に波が立つような瞬きだ。

「お前、私の花嫁だろう」

「え……?」

「本当に人間の娘を寄越すとは思わなんだが、まあ来てしまったものは仕方がない。好きに過ごせ」

「は……え……?」

 呆然としていると、思わぬ音が耳にはいった。

 にゃあ。

 猫の声だ。

「おお、鈴。おいでおいで」

 水鏡が甘ったるい声で呼ぶ。いつの間にか傍まで来ていた子猫がその膝によじ登り、くわっと大きな口を開けてあくびをした。白い毛の、大きな耳の子猫だ。口のなかは柔らかな桃色で大層愛らしい。水鏡も目尻を下げ、ふわふわとした首筋を指先でくすぐっている。

「鈴、この娘は宵。私の花嫁だ。宵、この猫は鈴」

「はあ」

 神様の猫、ということは、自分よりも偉いかもしれない。気の抜けた返事をしたあと宵は慌てて頭を下げた。

「よろしくお願いします。鈴様」

「様? 鈴、お前、偉くなったなあ」

 水鏡はくすくす笑って鈴を撫でたあと、宵に言う。

「鈴、と呼べばよい。それとも、今の人の子は猫をそれほど尊ぶのか?」

「いえ……では、鈴と呼びます」

「仲良くやるとよい」

「はあ」

 小声で水鏡の膝に「よろしくね」と声をかけるも、鈴は見向きもせずに前足を小さな舌で舐めている。愛らしいな、と宵も思うが、猫と戯れるような経験がないため、どうしてよいのかわからない。村で猫を飼うものはいたが、愛らしい子猫のうちは環や他の子供たちが遊んでいて、宵は触れさせてもらえなかった。

「それで、その、水鏡様」

「うん?」

「私はここで、何をすればいいのでしょうか……」

「うん? 好きにすればよい」

「好きに……?」

「うむ。何が好きだ? 絵か? 楽か? 書物か? 着物か? ああ、人は食い物も好きだったな。なんでもとはいかないが、ほしいものがあったら言え」

「ほしいもの……」

 思いつかない。そんなことを聞かれたことがない。宵は困って黙り込んだ。俯くと、自分の姿が目に入った。汚れた着物。汚れた手足。このままでいると、この美しい神の棲家も汚してしまう。

 恐る恐る、宵は口にした。

「あの、水を浴びたいです……あと、何か着るものを、いただけたら」

「うん。水浴びか? ついてこい」

 水鏡は鈴を抱き上げて立ち上がった。白い部屋は壁ではなく白い布の衝立で仕切られていた。進むと、外が見えた。戸はない造りが宵には新鮮だった。高床で、縁から短い階が延びている。その下にはこれまた白い砂が広がっていた。どういうわけか、少し遠くに目を向けると靄になっていて見えない。空は晴れているのに、と上を見て、驚いた。空と見えていた青は空ではなく、水面のように揺らめいている。ここはどうやら、宵の頭では把握しきれぬ場所らしいということだけがわかった。

 水鏡は先に砂の上に立っていた。あとに続くと、階を下りたところに、いつの間にか脱げていた宵の草鞋が置いてあった。すべてが白く清いこの場所で見ると、あまりにもみすぼらしい。隠すように足を滑り込ませたが、その足もまたみすぼらしかった。

「どうした。どこか痛いのか」

 顔をゆがめた宵に目を留めて、水鏡が尋ねる。宵はとっさにうまく言葉が出なかったが、確かに、体が痛かった。いつもどこか痛いので痛みを気に留めないくせがついていたが、湖に投げ落とされるまでに押さえつけられた跡が、そう聞かれるとじわじわと痛んできた。

「お前の脚と腕にあるそれ、変わった模様だと思っていたが、怪我か」

 模様。腕と脚についた痣をそう言っているのだと気づいて、宵は羞恥に顔が赤くなった。俯いて何も言わない宵の頭を、そっと風がなぞった。いや、風ではない。そのぐらいのささやかさで、水鏡の美しい手が、宵の頭を撫でていた。

「可哀想に。痛かっただろう」

 可哀想に。

 宵がぽかんとしていると、水鏡はぽんぽん、と宵の頭を軽く叩いた。すると、宵の体から痛みが消えた。

「え」

 汚れた手足から、痣も消えていた。指先やつま先に常についていた切り傷も癒えている。体に痛みのない状態というのが記憶になかったので、宵にとってその状態はほとんど感覚がないのと同じことだった。死ぬ、というのは、もしかしたらこういうものだろうか。そんなことさえ考えた。

 痛みが取り去られたことで、常に心を覆っていた重苦しいものが消えて、宵は無心で顔を上げた。すると、そこには水鏡の瞳があった。宵を見つめる青い瞳。澄み切っていて、美しくて、優しい。それは宵が初めて知る、自分に与えられた優しさだった。傷ついていた心と体に、ただそっと差し出されたもの。

「もう、痛くはないか?」

 何か喉に熱いものがつまって、宵はうまく答えられなかった。黙って自分を見つめる宵に、水鏡は微笑みで答えた。そのとき、宵は許されていた。相手に合わせてうまくふるまえないことも、みすぼらしいままそこにいることも、宵、というたった一人の自分であることを。

「痛くないのならよかった」

 宵はうまく答えられないまま、頷いた。痛みがなく、許されている。目の前の人に、優しくされている。見たこともない場所で、見たこともない人に。こんなことはあり得ない。これが死なのだろうか。

 宵は心から思った。

 これが死なら、死んでよかった。

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