エゴ
柵ヤシノ
第1話
熱に浮かされぼんやりとした意識の中、ステンドグラスの高窓に朝日が射しこむ。赤、青、黄色のガラスがキラキラ輝く様子を、ぼくはぼんやりと眺めていた。枕元で、ひっそりと両親の会話が聞こえてくる。
「大丈夫か?」
「ええ、でも今日は学校を休ませようと思うの」
「そうした方がいい」
ぼくは「いいの?」と、聞いたんだと思う。優しくほほえみ、うなずく両親が光に縁取られて見えた。ぼくは猛烈に嬉しくなったのを覚えている。もうこのまま風邪が治らなければいいのに。そう願わずにはいられないほどに。
1Day
高窓からの光がまぶしい。ぼくが目覚めやすいようにと、両親が子供部屋を作る際にこだわった部分だった。その当時の両親は、こうなるとは思いもしなかったのだろう。いまのぼくにとって、日の出は眠りを告げるものでしかない。
ぼくはベッドに横たわりながら、目覚まし時計の秒針を見つめていた。動きが鈍いのは、電池が足りないからだ。やっぱりデザインで選ぶのではなく、普通のソーラー時計にすればよかったかもしれない。秒針は足を引きずるようにして、六分遅れの歪な時間経過を知らせてくる。
ああ、もうすぐ来る。
カチリ、と短針が動く。
ギシギシと廊下がきしむ音がして、ぎゅっと両耳を塞いだ直後、激しい音と振動が部屋に響き渡った。
「起きなさい! 今日も学校を休むつもり!?」
ドンドンドンドンと、激しいノックに扉がきしむ。
毎朝七時になるとヤツらの片方であるチビがやってきて、ぼくのドアを叩いていく。凶暴に、ときには心優しい母親のフリをして、巧みにぼくを部屋から出そうとする。
「もうこれ以上、お母さんを困らせないで!」
手のひらの隙間をチビの甲高い声が割り裂く。狼狽した声が鼓膜に突き刺さった。身体に絡みついてくる罪悪感を振り払いたくて、ぼくはブンブンと首を横に振った。
誘いに乗ったらおしまいだ。
なぜなら大好きな両親はもうこの家にはいない。
いるのは、両親の皮を被った怪物だけだ。
「聞いているの!?」
ぼくはベッドから身を起こすと、ガチャガチャと激しく音を立てるドアノブへ視線を向けた。「もう少し静かにできないのか」と低い声がする。ノッポが合流したみたいだ。チビとなにやらブツブツ話し合っている。どうやら物理で鍵をこじ開けようとしているらしい。
ぼくは急いでベッドから降りた。
どうにかヤツらを追い払うことはできないだろうか。
机の上に目を向ける。定規、コンパス、はさみ、カッター。どれもピンとこない。そもそもそれらは最後の手段だ。どれもまだ、ふさわしいようには思えない。
悩んでいると、あるものが視界に入りぼくはピタリと動きを止めた。机の上においた生物図鑑、そこに小さな白い虫がついている。本でよく見かける虫だ。
「ひっ」
急いで人指し指で押し潰した。虫のサイズからしてあるはずもないのに、プツリと身が弾けた感触がして鳥肌が止まらない。それでも見逃すよりはマシだ。
極度の虫嫌いであるぼくが、唯一殺せるのなんてこの虫くらいだ。そのため、引きこもっている間も部屋はできるだけキレイに保つように心がけているのだが、四六時中部屋にいるとゴミがすぐ溜まるからなかなか大変だ。
ティッシュで指を念入りに拭い、まだ残党が残っていないか本を確かめる。その際、たまたま開いたページの、ある文章に目が止まった。
――自分の縄張りを主張するのに相手を威嚇する。
これだ。
この方法でうまくアピールできるかもしれない。
ぼくは試しに、ドンっと扉の内側を小突いてみた。一瞬向こうが怯んだのが伝わってくる。さらにドンドンドンと、ヤツらよりも大きな音を立てて何度も何度も扉を叩いた。なかなかに手が痛い。それでもやめなかった。
そろそろ頃合いかなと思ったときには、辺りは静まり返っていた。どうやら効いたみたいだ。
こうして今日もなんとか回避できた。
2Days
その日、ぼくはオン友のパピさんとゲームの真っ最中だった。
【ちょっと僕、トイレに行ってくるね】
送られてきたチャットに了解ですとスタンプを返し、ぼくもついでに行っておくかと席を立つ。といってもぼくの場合、トイレは用意しているペットボトルのことを意味する。
しかしここで痛恨のミスに気がついた。空いているボトルがない。
いつも昼間、ヤツらがいない時間に片付けているのだが、今日はすっかり忘れてしまっていた。これはマズい。もうすっかりぼくの膀胱はトイレに行く気になってしまっている。おまけに意識することで、余計に我慢できなくなってきた。
ぼくは忍び足でドアに近づくと、耳をそばだてた。
とくに物音はしない。
ゆっくりとドアノブを回し、隙間を覗く。
真っ暗闇が広がる廊下、トイレはその数歩先を歩いたすぐそばだ。この時間、隣の部屋を寝床にしているチビは寝ているはずだから、よほど物音を立てない限りバレる可能性は低い。問題はトイレの流水音だが、流さなければ大きな音は上がらない。
そっと一歩を踏み出す。
しかしすぐに大きな誤算に気がついた。
思った以上に廊下がきしみ、静まり返った空間にギシギシと音が響く。抜き足さし足でなんとかトイレに辿りつけたが、今度はトイレの音を抑えるためにも、ドアを締め切らないといけないことに気づいた。それがまたギイイと、嫌な音を立てるのだ。
細心の注意を払い、ようやく便器と向き合えた。だがここでも問題が立ちはだかった。気を緩めるとジョボジョボと大きな音を立てそうになるから、一気に放ってしまいたい尿意をこらえなければならない。
なんとか難所をくぐり抜け、部屋に戻ってこれたときにはどっと疲れていた。
こうして今日もなんとか回避できた。
3Days
トイレは部屋でなんとかなるが、そううまくいかないものがある。お風呂だ。
避けてきたのは、シャワーの最中に万が一を考えると怖かったから。泡だらけで部屋に逃げ帰るわけにもいかない。しかしもう身体が痒くてたまらず、ぼくはついにこの日、決行することにした。
時間はぼくしかいない昼間。制限時間は五分。それまでにすべてを終わらせる。
怒涛の勢いで身体を洗い終え、安堵しながら身体をタオルで拭いていたそのとき、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
マズい、戻ってきた!?
イレギュラー発生。ぼくは大慌てで風呂場を飛び出した。
「待ちなさい!」
帰ってきたのはまさかのノッポだった。後ろから鋭く叫ぶ声がする。ぼくはすぐそばの階段を駆け上った。ああ、クソ。濡れているせいで足が滑る。
なんとか部屋に飛び込み鍵を閉めた直後、ドアノブがガチャガチャと音を立てた。
「ひっ……」
思わず後退る。あともう少し遅かったらどうなっていたか。疲労と恐怖で心臓が早鐘を打っていた。ドアの向こう、すぐそばから声がする。父さんそっくりにぼくの名前を呼んでくる。
うるさい、うるさい、うるさい……ッ。
「なあ、せめて理由を教えてくれないか? 学校でもしかして……学校に行きにくい理由が……あるのか?」
布団に潜りこみ、必死で耳を塞いだ。
そのうちに寝てしまったらしい。ハッと起きたときには静かになっていた。カーテンの隙間からうっすら夕日の赤が染み出している。
ぼくは部屋の扉を見つめた。
こうして今日もなんとか回避できた。
4Days
生きるには食事は不可欠だ。いままでは昼に冷蔵庫を漁って調達していたが、ここ最近めっきり食料が手に入らなくなった。きっとヤツらの策略だろう。お腹が減れば、ぼくが部屋から出てくると思っている。
しかたなく近所のコンビニへ行くことにした。昼すぎはもう怖いから、午前中に行動に移すため早起きをする。
しかし、それはそれで別の危険もあった。まず近所の人たち。この時間、私服で歩いていたら怪しまれかねない。そのためぼくは久しぶりに制服を着用した。これなら遅刻したで言い逃れられるだろう。
けれど一筋縄じゃいかないのが隣家の、ガーデニングが趣味のおばあさんだ。とてもおしゃべりだから、ぼくを見かけたら必ずヤツらに教えるだろう。
ぼくが外に出られることを、ヤツらに知られてはならない。
なぜなら僕はいま、引きこもりなのだから。
外に出る前に、ぼくは窓から隣の家を観察した。古いタイプの木造建築、その庭で案の定おばあさんが草いじりをしている。
ぼくの家の庭はおばあさんの庭に面しているので、そこからだと必ずぼくの姿を見られてしまう。つまり最大の難関は庭を過ぎ、門を出るまでだ。
その間には腰ぐらいの塀がある。だから作戦は至ってシンプルだ。おばあさんがしゃがんだ瞬間、ぼくが歩き、おばあさんが立ちあがったら、ぼくがしゃがむよりほかはない。
しばらく様子を見ても、おばあさんが家に入る気配はなく、ぼくはミッションをスタートさせることにした。
相手の動きをよく読み、なんとか視線をかいくぐり包囲網を突破した。コンビニで食料を調達する。帰りも同じ方法で帰宅する。
よかった、これで当分はなんとかなりそうだ。
こうして今日もなんとか回避できた。
5Days
今日もぼくは外に用事があった。大好きなコミックスの新刊発売の日なのだ。しかも近所の本屋ではなく、隣駅のショップ、『アニメイトゥ』で購入すれば特典が付くという。ぼくはどうしてもその特典が欲しかった。できれば長時間家を空けたくないけど、こればかりは致し方ない。
さて今日の服装はどうしよう。ぼくは鏡の前で頭を悩ませていた。
さすがにアニメイトゥに行くのに制服は余計目立ってしまうから却下だ。考えた結果、パーカーにジーンズという無難な恰好に落ち着いた。いつもは使わないキャップも念のために被る。
今日もおばあさんは庭先にいて、その目をかいくぐらなければならなかった。なんとか難所を越え、駅から電車に乗り込む。
心配なのは、アニメイトゥのある駅がぼくの中学の最寄り駅だということだが、この時間帯ならみんなは授業中だ。それほど問題はないだろう。
読み通り、アニメイトゥまでの道のりは順調だった。しかし店の入り口をくぐったぼくは、見知った顔を見つけ心臓が止まりかけた。
なんで休みなんだ!?
一瞬パニックになった頭で考える。そうか、そういえば今日が創立記念日だった。
まずい、見つかるわけにはいかない。
もう諦めて別の日にしようか。けれど特典には限りがある。悠長に構えていたらなくなってしまうかもしれない。それは非常に困る。
幸いクラスメートは遠くのコーナーにいた。ぼくはキャップを選択した自分を褒めてやりたくなった。帽子を目深にかぶり、素早く手前のエレベーターに身を滑りこませた。ふう、なんとかなった。額の汗をぬぐう。
目的の六階にたどり着き、目当ての本を手に取る。よかった、ゲットできた。クラスメートがいるここは危険だ、早く会計を済ませて帰ろう。さっさとレジを済ませ、エレベーターを呼んだ。
ドアが開いた瞬間、ぼくは再び心臓が止まるかと思った。エレベーターには先程とは別のクラスメートが乗っていたからだ。慌ててその場所から離れようとしたが、後ろの人に押され、エレベーターに乗り込んでしまった。
後ろが気が気じゃない。とにかくここは一旦離脱して、残りは階段に切り替えよう。冷や汗を流しながら、次の階のボタンを押した。はやく止まれと念じる。
ドアが開いた瞬間、ぼくは猛スピードでエレベーターを降りた。一階での鉢合わせを避け、少ししてから階段を降り始める。しかし今度は階下から聞き覚えのある声が聞こえてきた。これも絶対、顔見知りだ。なんなんだ、うちのクラスメートは。休日にアニメイトゥに来るしかやることがないのか。
別の階で階段を止めてエレベーターを呼ぶ。しかしここで僕はまた不安になってきた。また先程みたいになったらどうしよう。もうエレベーター恐怖症だ。さっきのようにうまくかわせる自信はない。だが一階へと向かう手段はエレベーターか階段を使うしかない。
せめてなにか顔を隠すものがあれば……。
そのとき目についたのはコスプレ用の黒縁伊達メガネだった。あれならなんとかやりすごせるかもしれない。値段を見ると三千円と書いてある。痛い出費だが仕方ない。僕はそれを手に取ると急いでレジに向かった。ここがレジのある階でよかったと心底ホッとする。
人気の少ないところでメガネの封を開けた。よし、これなら大丈夫だろう。こうしてなんとかアニメイトゥを出ることができた。
そのまま急ぎ足で駅に向かう。早く家に帰らないと。そのとき誰かに肩を掴まれた。
「おい!」
心臓が口から飛び出そうだった。やけに馴染みのある声に、恐る恐る後ろを振り向けば友人がいた。心配そうに眉を寄せてぼくを見てくる。
「心配したんだぞ、何日も学校来ないでどうしたんだよ」
突然のことにぼくは頭が真っ白で、口を馬鹿みたいにパクパクさせることしかできない。
「なあ、どうして連絡返さないんだよ。みんな心配してるんだぞ?」
「……ッ!」
肩にかけられた手を弾き、駆け出した。
背後から「待てよ!」と大声が響く。それでも振り返らず、ただただ駅を目指して駆けた。
なんとか家に着いたときにはもうクタクタだった。幸いヤツらが帰ってきた様子はなく、ぼくは無事部屋に戻ってこれた。しかしあんなに楽しみにしていた新刊を読む気にはなれず、ベッドに突っ伏した。
「心配したんだぞ」という友人の声が脳にこびりついて離れない。罪悪感で身体が沈みそうになると同時に、事情を話してしまいたい衝動にかられる。洗いざらいすべてを話せたらどんなに楽か。それでもぼくは、この生活を止めるわけにはいかないんだ。
とりあえず、こうして今日もなんとか回避できた。
6Days
その日ぼくは、パピさんとボイチャをしながらゲームを楽しんでいた。
「ここ右に行こう」
「はい!」
ぼくはパピさんの声が好きだ。ゆったりと落ち着いついていて優しさに溢れたイケボ。こんな魅力的な声を身近で聞くのは初めてだった。正直に羨ましい。声優になればいいのにとさえ思う。
そんなパピヨン嬢さんことパピさんとタッグを組むようになり、そろそろ半年が立つ。パピさんの指示はいつも的確で隙がない。界隈では結構有名で、どうしてぼくと組んでくれているのか不思議だ。以前聞いたら、きみは素直ないい子だからねと教えてくれた。弟ができたみたいで楽しいんだ、と。
それはぼくもだ。ぼくより四つ年上だというパピさんは、一人っ子の僕にとっては頼りになるお兄ちゃんのような存在だった。
だからパピさんだけが唯一、ぼくが引きこもる原因を知っている。
パピさんの指示に従い敵を掃討しながら、その合間にこの間のアニメイトゥでの出来事を話した。それからだ、パピさんがおかしくなってしまったのは。一ゲーム終えたあと、パピさんがつぶやいた。
「……ほんとうに、きみはそれでいいの?」
「え、パピさん?」
らしくないボソボソ声に、ぼくは思わず聞き返してしまった。パピさんはしばらく黙ったあと、ゆっくりと話し出した。
「きみのそれは、エゴ、だと……僕は思う」
「……エ、エゴ?」
エゴってなんだっけと記憶を探る。急いでスマホで言葉をググりながら、ぼくは嫌な予感がしていた。おそらくパピさんはいま、ぼくが聞きたくないことを言おうとしている。なにか理由をつけて通話を終了してしまおうか。悩んでいる間にパピさんが話出してしまった。
「一時仲が元にもどっても……きみによって無理やり夫婦の形をさせたところで、それはいびつなものでしかないんじゃないかな……」
その言葉に息が詰まった。なにかに殴られたような衝撃が襲う。唾を飲み込むゴクリという音がやけにうるさく響いた。
「そんなものでこしらえた平和は、結局のところ仮初でしかない、と思うよ」
そして、パピさんは言った。
「きみには、他にも居場所があるだろう。その形にこだわるのはどうして? 逃げているのは、目を背けているのはなに?」
ぼくはすぐに返事ができなかった。エゴ? 逃げているもの? 大量のはてなマークが脳内にブワッと広がる。
その中ですぐに掬い取れたのは「お前になにがわかる」という非難と怒りの感情だった。カッとなったぼくは怒鳴っていた。
「偉そうに言わないでよ! 同じ、引きこもりのくせに!」
感情に任せてチャットアプリを切断した。スマホを遠くに放り投げる。
それからはなにもする気になれず、ただベッドの上でボーっとしていた。押し寄せてくる後悔と罪悪感の波を、ぼくは間違っていないと、自分に何度も言い聞かせることで打ち消した。そうだ、ぼくは間違っていない。ぼくのやっていることは正しい。おかげで二人は喧嘩しなくなったし、家にいる時間も増えた。効果も出てきているじゃないか……。
そうこう考えているうちに、いつの間にか寝ていたらしい。
階下から聞こえてくる物音で目が覚めた。すぐに激しい言い争いの声だとわかり、息が止まる。そのうちそれは、パリーンというものが壊れる音に変化した。
……ああ。
耳をふさぎながら、その音がやむのをひたすらに待った。脳が勝手にすすり泣きの声を再生してくる。ここからは聞こえるはずもないのに、もう嫌というほど耳にこびりついていたその音を、記憶で補完するのはたやすいことだった。
気を逸らしたくて、スマホを手繰り寄せる。開いた最初のページは「エゴ」についての検索結果だった。そうだ、忘れてた。見たくないのに、そこに書かれた文字をぼくは目で追っていた。
エゴ ①自我、自尊心 ②利己主義
きっとパピさんが言ったのは二番目の意味だろう。さらにググってみると、それはつまるところ自分の気持ちを優先して、相手の気持ちや幸福を考えない人、ということだった。
ぼくの行動はエゴなんだろうか。
もうぼくにはわからない。
7Days
一日立つと、ぼくは少し冷静になっていた。昼間、誰もいない時間に一階に降りると、懐かしの光景が視界に広がる。皿やら本やら様々なものが床に散らばり、足の踏みどころもない。まるで嵐が通過したかのような有様だ。
ぼくは床に落ちた写真立てを拾い上げた。写真の中で、ぼくと両親三人が笑い合っている。
この頃がはるか遠い昔のようだ。
この頃はよかったなあ。
平和が壊れたのはある日突然だった。そのときを境に、急速に両親の仲は悪化した。
その理由をぼくは知らない。お前は知らなくていいと、のらりくらりと曖昧にはぐらかされ、教えられていない。
そんなぼくが理解できたのは、優しい両親はいなくなってしまったということだけだ。二人は怒鳴り合いものを破壊するモンスターになってしまった。
家族が壊れていくのを絶望しながら見ていることしかできない。そんなある日、ぼくは風邪をひいた。その日の両親は久しぶりに喧嘩をしなかった。珍しく会話を交わし、ぼくを心配してくれた。
だからぼくがもっと心配になる事態になれば、二人の喧嘩はやみ、元通りになると思ったんだ。そうしてぼくは、引きこもりになることを思いついた。
ぼくは、大好きな両親に離婚してほしくなかった。
いや、違う。
パピさんの言葉がよみがえる。
『きみには、他にも居場所があるだろう。その形にこだわるのはどうして? 逃げているのは、目を背けているのはなに?』
そう、その通りだ。
ぼくは逃げていた。
両親が離婚すれば、ぼくは選択を迫られる。
ぼくはその決断から、逃げたかったんだ。
しかしその結果とった行動は、両親の気持ちを無視した、まさしくぼくのエゴだった。
ぼくはこれからどうしたらいいのだろう。
ぼくはどうしたいのだろう。
とりあえずパピさんにごめんなさいとメッセージを送った。返事はすぐに来た。
【いいんだよ。僕もごめんね】
謝られてぼくは焦った。パピさんは謝るようなことを言っていない。それを必死に伝えると、笑顔のスタンプが送られてきた。
【あのね、後で反省したんだ。きみの行動をエゴだって批判したけど……押し付けがよくないだけで、エゴを、自分の気持ちを持つことは大切なことなんだよ。難しいよね】
ぼくが返信に迷っている間に、パピさんが次のメーセージを送ってくる。
【じゃないと踏みつけられちゃうからさ、僕のようになってほしくないんだ】
最後の言葉に胸を締め付けられる。ぼくはパピさんになんてひどいことを言ってしまったんだろう。
【本当にごめんなさい】
【大丈夫、もうその話はおしまいにしよう。それできみはどうするの?】
【とりあえず、もう引きこもりはやめる】
するとグッジョブとスタンプが送られてきた。
【そうしたらさ、どうなったのか今度教えてよ。僕のリハビリがてら、外で】
「えっ?」
これは会ってくれるということだろうか。実は今まで何度かオフ会に誘っていたけど、そのたびに断られていたのに。
【……いいの?】
【うん。僕も勇気をもらったから。頑張ってね】
僕はありがとうと伝えると、スマホを置いた。まだ両親が帰ってくるには時間がある。それまでの間にまず部屋を片付けよう。部屋のカーテンも開いて、換気もしよう。
掃除を始めると、時間はあっという間に過ぎ去った。あっと思い出し、僕は自分の部屋に向かった。ずっと忘れていた時計の電池を入れ替える。もとに戻った秒針は、正確な時間を刻み始めた。
そのとき、玄関が開く音がした。
ぼくは一歩を踏み出した。
エゴ 柵ヤシノ @sakusaku-horohoro
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