「僕」
@akiduki00
第1話
目を覚ますと、いつも通りの灰色の天井が「僕」の目に映った。
外では、風に舞った雨粒が窓ガラスを濡らしている。
時計の針は七時過ぎを指し、静まり返った部屋の中に、コッコッと無機質な音を鳴らしている。鬱屈とした気持ちで、もう寝られはしないのに再び目を閉じ、寝返りをうつ。
「僕」は布団の中で、これから自分が行うべきことを頭の中で反芻する。
起き上がり、制服に着替える。リビングにはいつも通り、父が置いていった食費の入った封筒があるだろう。それをカバンに入れて、家を出る。あとは、学校までの道を、下を向きながらひたすら歩く。
何も難しいことじゃない、昨日だって、一昨日だって、そのずっと前からやってきたことだ。
同じような想像を何回か繰り返し、ため息と共に目を開けた。グッと腕に力を込めて上半身を起き上がらせる。やってしまえばどうということはない。ただ、やり始めるこの一瞬が、どうしようもなく嫌なのだ。起き上がったら、行かなくてはいけない。
服を着替え、リビングに降りる。予想通り、家の中には誰もいなかった。ホッとする。テーブルの上には、袋に入ったままの食パンと、これも予想通りに、現金の入った封筒が置かれていた。
食パンは食べずに、封筒をカバンのポケットに突っ込む。電源が入ったままのテレビには、朝のニュース番組が流れているが、何を言っているのかは分からない。どこで何が起こったって、例え誰かが死んだって、自分には関係ないことだ。
テレビを消して、「僕」は家を出た。
ザワザワ。ザワザワ。
雨の日は、昇降口の雑踏がいつにも増して耳に着く。
下駄箱の横には、傘を無理に突っ込まれた傘立て。なんだか無性に腹が立って、「僕」も空いてない隙間に、強引に傘をねじ込んだ。濡れた掌が更に不快で、ごしごしとズボンにこすりつける。
上履きに履き替えて、「僕」は教室に向かった。
教室に入ると既にほとんどの生徒がいて、小さな輪を作りながら雑談を交わしている。教室に入って来た「僕」に、何人かは視線を向けたが、誰も声を掛けることはない。「僕」も、そのことに気付かないふりをして、足早に自分の席についた。
ああ、息が詰まる。
「僕」はカバンから教科書を取り出して、机の中に押し込んだ。
隣の席には、誰もいない。
その時、チャイムが鳴って、担任が何か言いながら教室に入って来た。日直の号令で立ち上がり、一様に頭を下げ、席に着く。
ホームルームが始まると、キリキリと胃が痛みだす。痛みは徐々に広がって、倦怠感が体に重くのしかかる。今日一日のスケジュールが告げられて、決められた一日が始まる。ただそれだけの事なのに。
それからも、時間は淡々と進んでいく。1時限目は、数学。2時間目は、英語。3時間目の国語で、とうとう「僕」の不快感は限界を迎えた。
昔から、保健室は苦手だった。みんなが授業を受けているのに、自分だけ休んでいるのは、なんだか、後ろめたく、責められている気分になる。
それでも、横にならずにはいられないから、どうしようもない。
カーテンに囲まれたベッドに横たわり、目を閉じる。布一枚を隔てて、保険室の先生と担任の教師が話す声が聞こえた。
会話の内容を聞きたくなくて、「僕」は頭から布団をかぶり、ぎゅっと目を閉じた。
何も聞きたくない。何も考えたくない。どうして、「僕」は—。
夢を見た。
いつも灰色の世界に、今は一面の青と、その中に漂う白い影が浮かんでいる。
青空だと分かったが、一体自分は、どこからこの景色を見ているのだろう。
その時、視界がぐるりと回って、一瞬の閃光を通り過ぎると、世界は暗転した。
遠くから、チャイムの音が聞こえて、僕は目を覚ました。
横たえていた体を起こしてベッドに腰かけ、僕はゆっくりと、ベッドを取り囲んでいるカーテンを開けた。覚醒しきっていない脳みそを叩き起こすように、強烈な夕陽が窓から差し込んできた。
思わず目を細める。どうやら、あれから随分と眠ってしまったようだ。
相変わらずの倦怠感。立ち上がるのも億劫だが、このままここにいるわけにもいかない。
上履きを履いて、ゆっくりとカーテンを押しのけた。
夕陽に照らされた保健室。そこに、微かな異音が聞こえる。
キィー…、キィー…、キィー…―。
パソコンの置かれた机の向こう、誰かが背を向けて座っている。先ほどから鳴っている音の正体は、その人影がせわしなく椅子を左右に揺らしているためだ。
寝すぎてしまったことを謝ろうとして、僕は口を開きかけたまま静止する。
顔は見えなくても、白衣を着てそこに座るのは、保険室の先生以外にありえない。そのはずなのに、僕は声を掛けられない。声を掛けてはいけない、という気がしたから。
その時、椅子がぐるりとこちらを向いた。息を呑む、という経験を初めてした。
目だ。大きな大きな黒い目だ。顔の真ん中にそれだけが二つ並んで、こちらをじっと見つめていた。口も鼻も無い代わりに、ソフトボールくらいに膨れ上がった、何の感情も無い二つの目が、こちらを見つめている。
悲鳴を上げるよりも早く、僕の足は出口に向かって動き出していた。引き戸を強引に開け放ち、肩が扉にぶつかるのも構わずに廊下に飛び出す。
「あれ」が何かは、問題ではない。そんなことよりも、僕が恐怖を感じていたのはあの目だ。
じっとこちらを見ていた瞳。何を投げかけるでもなく、ただただこちらを見つめていた、あの二つの真っ黒な球体。僕はあの目を知っていて、それに対して抱いた感情は明確に、恐怖だった。
走る。走る。走る。走る。ひたすらに、振り返らず、足を動かす。
胸が苦しい。だんだん呼吸が荒くなる。焦る気持ちに反して、流れ落ちる汗と一緒に、全身から力が抜けていく。
徐々に速度は落ちて、とうとう僕の足が止まった。膝に両手をついて、ぜえぜえと肩で息をする。鼓膜に響く血潮の隙間から、今にも背後に迫る足音が聞こえてきそうで、僕はどうにか息を整えようとした。
しかし、「あれ」が迫ってくる足音は全く聞こえない。それどころか、放課後の校舎に残っている人の気配も。
違和感、というか不自然だ。この時間なら、まだ部活動に励む生徒や、雑談に興じる声が聞こえてきそうなものだが。
僕は自分がいる廊下を見渡した。いつも通りの校舎の風景。それなのに、いつもよりずっと長い距離を走って来た気がする。恐る恐るぐるりと周囲を見渡し、これまた恐る恐る、一歩踏み出した。
保健室があるのは、二つに並んだ校舎の南側一階の隅。窓の外には、何の変哲もない夕暮れの中庭が見える。このまま真っ直ぐに廊下を進んで、右手に曲がればすぐに昇降口だ。
突き当りの角を曲がって、なんで、という疑問が頭を埋め尽くした。
昇降口があるはずの場所には何もない。いや、正確には教室が並び、その先にも廊下が続いていた。なぜか、廊下の先は暗がりになって何も見えない。僕のいる場所から少し前までは、差し込んでくる夕陽に照らされているのに、それよりも先に行くと、スッと光が消えてしまっている。夕陽を遮るようなものはないはずだ。
肺から息が漏れ、思わずその場にへたり込みそうになる。
僕は、夢を見ているのだろうか。本当はまだ、あの保健室のベッドの上ではないのか。こんな事あるはずがない、と、頭ではこの状況をどうにか否定しようとしたが、心から沸き上がる不安と、走り続けた体に感じる疲労感が、わずかに残っていた冷静さも押し流していく。
でも、だったらこの足の痛みも幻なのだろうか。体に重くのしかかるような疲れも、流れた汗で顔に張り付く髪の不快感も、全部自分の夢で片付けられるのだろうか。
当然、その疑問に答えてくれる人などいない。自分でどうにかするしかないらしい。もっとも、そんな方法があれば、だが。
諦めて、ゆっくりと廊下を歩きだす。この世界にある音は、恐怖に震える自分の呼吸と、上履きが擦れる音だけだ。「あれ」の影に怯えつつ、僕は息を殺して、一つひとつ、教室の前を通り過ぎて行った。部屋の中を覗くなんてとんでもない。きっと、碌なことにはならないだろう。
少し冷静さを取り戻してきたことで、僕は廊下を歩きながらこの状況を考える。
朝からの一日を振り返るが、別に変わったことはなかったはずだ。
いつも通り、起きた時からずっと続く倦怠感。
いつも通り、仕事で家にいない父。
いつも通り、関わり合いの無い同級生。
いつも通り、変化のない決められた日常。
いつも通り、気分が悪くなって逃げ込む保健室。
そして、あの目。思い出すだけで、また恐怖がこみ上げてきて、僕は首を左右に大きく振った。
そこで、ふと、一瞬の青い景色が脳裏に浮かんだ。まるで、空を飛んでいたかのような、空と雲の景色。
いや、あれは本当に一瞬の、夢の中のものだったはずだ。別に意味なんてないだろう。そうに決まっている。
それ以上考えてしまったら、何か、良くないことを思い浮かべそうで、僕は歩調を早めた。
変化は、突然訪れた。
廊下の先、一つだけ、扉が開いている教室があった。
僕は踏み出そうとした足を止め、息を殺す。誰かの声が聞こえたのだ。
それは、話し声、というにはあまりにも小さく、何を言っているのかは聞こえない。もう少し近づけば、何か分かるのかもしれないが、両足は地面に根を張ったように全く動かなかった。
僕はしばらく、廊下で教室からの声を聞いていた。しかし、声の主が動くような気配はない。深く息を吸って、吐いて、僕はなるべく足音を立てないように、扉の方に近づいていった。
扉越しに覗き込んだ教室、奥の方の席に一人、男子生徒が座っている。彼は、じっと動かないで窓の外を眺めていた。背筋もブレることなくまっすぐに伸ばしていて、その姿は生き物ではなく、彫刻か置物なのではないかと思えた。だが、例の声は彼から聞こえてくる。
「―が、、、、い。お、、、、、るい。で、、、ない。で、、―」
聞き耳を立てても、何を言っているのかは断片的にしか分からなかった。ただ、その声の雰囲気は決して明るいものではない。
僕はそっと扉から離れようと、足を浮かした。その時。
カツンッ―。
何かが、僕の足元に落ちて、小さな音を立てた。時間が止まったように感じながら、一瞬見えた足元には、銀色に光る家の鍵。
ガタガタッ!
椅子が倒れる音が、静かだった教室に響き渡る。
僕が顔を上げるのと、彼がこちらを振り返ったのはほぼ同時だった。
異様。先ほどの目の方がマシに見える。男子生徒の顔には、目と鼻はない。あるのは、いくつもの口だった。額にも、頬にも、目と鼻があるはずの場所にも、薄赤色の唇が並んでいる。
その一つ一つが言っていることが、こちらを向いたことでようやく聞き取れた。
「お前が悪い」
「お前が悪い」
「出来損ない」
「出来損ない」
きっと、顔だけではなく、彼の体中にあの口は付いているのだろう。声が重なり合う度に、ぶつぶつと耳障りな不協和音が鳴っている。
僕は、視線を逸らしたい気持ちを抑えて、彼を直視したまま足元をまさぐって、どうにか鍵を拾い上げた。今すぐにも後ろを振り返って逃げ出したいのだが、僕はなぜか、視線を逸らすことが出来ない。
彼は棒立ちのまま繰り返した。「お前が悪い、出来損ない」と。
誰に向かって言っているのか。
僕に向かって言っている以外、考えられないだろう。
「そんなことも出来ないの」
「そんなことしか出来ないの」
呪詛の言葉はこだまして、僕の鼓膜を震わせる。先ほどまで治まっていた吐き気が、またこみ上げてくる。
「なんでお前が」
「どうしてお前が」
止めてくれ、と願ったが、声に出すことさえ出来ない。留まる事ない言葉たちが溢れ出し、ぐるぐると世界を回りだす。
なんで、どうして、なんて聞かないでくれ。そんな事、僕が一番思っているんだ。
ピタリと言葉が止んで、全部の口元がニヤリと歪んだ。
「「「「「「なんでお前は生きてるの?」」」」」」
気付いたら、廊下を駆け出していた。
吐き気も、だるさも、目の前の世界が歪んでいるのも関係ない。
未だに耳にこびりつく、あの声をかき消すように、なりふり構わず駆け出していた。
その先で、僕はずっと待ち望んでいたものを見つけた。
上に繋がる階段だ。僕は一段飛ばしで、跳ね上がるように駆け上がる。その度に、心臓の辺りにぎゅっと痛みが走るけれど、関係ない。最後の方は手すりにしがみつくように、歩くのではなく這うようになりながらも、僕は上を目指し続けた。
そうして、とうとう、僕は錆びた扉にたどり着き、飛び込むように押し開けた。
屋上は、驚くほど穏やかで、目の前に広がった夕焼け空は、こんな時なのに、とてもきれいに思えた。
さあっと風が吹いた。僕はよろめきながら、一歩、また一歩と、四方を囲む緑色のフェンスに近づいていく。
金網に指を掛けて、縋り付くように身を預けた。走り疲れた両足は震えていて、肺からひゅーひゅーと息が漏れる。
もうこれ以上、逃げることは出来ないだろう。
後ろの方で、金属が擦れて軋む音がして、次いでガチャンと、扉が閉まる音がした。
背中をフェンスに預けて、振り返る。
あの「目」と「口」がいた。でも、両方とも、もう人間の姿はしていない。正確には人の形をしているが、それらは、なんだか分からない黒いもやもやで出来ていた。
輪郭はゆらゆら揺れる陽炎のようなのに、あの忌々しい目と口だけは、はっきりと表面に張り付いている。相変わらずの無機質な両目と、にやりと笑ったたくさんの口。
この言い方が正しいのかは分からないけれど、「二人」は扉の前で並んで、どこにも行けない僕に向き合っていた。
「なんなんだよ…」
言葉が自然と、口をついて出た。あいつらには耳なんてないから、僕の声が届いているのか分からないけれど、そんなことは関係なかった。
「―なんなんだよ!」
いつ以来かも忘れてしまった自分の怒鳴り声は、震えていた。弱々しい僕の叫びは、吹き荒れる風に流される。あいつらに、変化はない。
それでも、久しぶりに蓋が開いた僕の心からは、とめどなく感情が溢れ出した。
「そんな目で見るな! にやにやするな! いつも、いつも、そんな風に…。一体、僕が何をしたっていうんだ⁉ なんで僕が、毎日毎日、びくびくしなきゃいけないんだ!」
震え声に、涙が混じる。でも言葉に出して、始めて恐怖以外の感情が、怒りが込み上げてきた。訳の分からないこの状況と、目の前にいるあいつらに対してだ。
あいつらを、僕はよく知っている。あの目も、あの言葉も、ずっと前から知っていたのだ。
この叫びも、悪あがきだということは分かっている。どうしようもない。逃げるしかない。でも幸い、逃げる方法も分かっていた。
僕はあいつらを睨みつけ、振り返ってフェンスの金網を握った。少ない凹凸につま先を掛け、よじ登る。
夢に見た、青と白の景色。あれはきっと、空を落ちていたのだ。こうなることを暗示していたのかもしれない。
ガシャガシャと音を立てて、僕は無我夢中でフェンスをよじ登った。時折振り返るが、やっぱりあいつらに変化はない。今のうち―。
僕はとうとうフェンスを登り切った。片足を宙に投げ出し、半身になってあいつらを見下ろす。
横風にバランスを崩しそうだ。でも、恐怖はない。夕焼けに照らされた校庭は、教室から見るよりも広々と感じられ、頭上に広がる空が近い。
少しだけ重心を校庭の方に傾けて、両手を離せばいい。それで、あいつらの顔を見なくて済む。
なぜか、自然と笑みがこぼれた。とても頼りない、情けないような笑みだったけれど、最期の顔が黙って泣いているよりはマシだろう。
いよいよと覚悟を決めて、僕は体をグッと外に傾け、両手を離した。
「‥…」
一瞬の浮遊感。その刹那。
僕は、目の前に来たフェンス越しに確かに見てしまった。
屋上に並んでいた二つの人型が、重なり合って、溶け合って、一つになっていく様を。そして、黒い靄に顔が出来た。
僕の顔だ。
こちらを見つめる感情の無い二つの目。口元が、あざけるようにニヤリと笑う。
その時、視界がぐるりと回って、一瞬の閃光を通り過ぎると、世界は暗転した。
目を覚ますと、いつも通りの灰色の天井が「僕」の目に映る。
外では、風に舞った雨粒が窓ガラスを濡らしていた。
了
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