第2話 探し物は何ですか、天音さん
講堂での始業式を終え、二年目の高校生活が始まった。
課題も昨日きちんと終わらせたし、話のネタもしっかりと仕入れた。
一日出かけただけだったが、さも春休みを目いっぱい楽しんだかのような話し方だって可能な量のネタが集まった。大収穫大収穫。
あとは、この新たなクラスで隣近所の席の同級生に話しかけられるのを待つだけ。
自分から話しに行くのもありだが、いきなりぐいぐい来る奴だと思われてしまうリスクがある。ここはギリギリまでおとなしく待つのが吉。
「あのー、すみません」
席について、今日提出の課題を整理するふりをしながら様子を見ていると、後ろの席から俺を呼ぶ声があった。
はじめは何かの聞き間違いかと思った。まさか、後ろの席から話しかけられるなんて思ってもいなかったからだ。
現在、俺の前、左、右に座っているのは、顔は見たことあるが話したことはない生徒たち。
俺が一方的に知っているだけかもしれないが、新たなクラスで彼らが俺に声をかけてくる確率は必ずしもゼロではないだろう。
だが、後ろの席に座っている生徒は特別だった。
天音天。校内随一の美女と謳われる彼女は、眉目秀麗、成績優秀。
腰のあたりまで伸びた艶やかな黒髪を風になびかせて涼しげな顔で廊下を歩く彼女の姿を見たものは、男子であろうと女子であろうと必ず悩殺されてしまうと噂の、非の打ちどころのない女子生徒。
放課後の体育館裏で、体育祭後に、文化祭の途中で、これまで学年問わず数多くの男子生徒が彼女の前に撃沈してきた。
寡黙な彼女は、多くを語らない。ただ「大丈夫です」とだけ口にして、多くの男たちを葬ってきた。
そんな彼女が、自分から、それも俺なんかに話しかけてくることがありえない。
空から飴玉が降ってくるくらい、ありえないことだ。
だから、聞こえなかったことにして黙々と課題の整理をするふりを続けたのだが、
「すみませーん」
どうやら幻聴ではないようだ。
校内随一の美女は、本当に俺に話しかけてきているようだった。
「あ……はい」
恐る恐る、体ごと振り返る。
「おはようございますイチさん」
「おはよう……ございます。え、なんですか? イチって」
「あなたのお名前です。ほら、課題ノートに書いてあります」
「ああ、一って書いてはじめって読むんです。千代世一です。よろしくお願いします」
心臓がバクバクして、今にも口から飛び出してきそうになるのを必死で抑えながら、平静を装って自己紹介をする。
相手が誰であっても、初めて話すときは大抵緊張するものだが、相手が天音さんとなると、そんな緊張の比じゃないくらいに緊張する。
「それは失礼しました。私は天音天です」
自己紹介してもらわなくとも、その名前は知っている。
この高校に入学した日から、耳にタコができるくらい聞いてきた。
「ようやくお会いできました一さん!」
突然、天音さんが大きな瞳を煌めかせて興奮気味に俺の手を掴んできた。絹のように滑らかな肌が、俺の手を優しく包み込む。
一年生のころ友達につられて教室を覗きに行ったときでも、後ろ姿や横顔しか見たことがなかったから、こんなにまじまじと顔を見たのは初めてだ。
何この透き通った瞳。やばい、かわいい……かわいすぎる。
「ちょっ、ちょっと、どういうことですか!? いきなり手を掴むなんて、好きになったらどうするんですか」
「実は、一さんにお返ししたいものがあるんです」
天音さん、質問に答えてくれない。
「落ち着いてください。何が何だか全くわかりませんよ」
「すみません。少々取り乱してしまったようです」
きまり悪そうにコホンと咳払いをして右耳に髪をかけると、天音さんは続ける。
「一さん、春休みの間に誰かに傘を手渡しませんでしたか?」
「ああ、そんなこともありましたっけ。確かコンビニで驚くほど美しい女性に……ってどうして知ってるんですか?」
「それ、私です。ちょうど傘が買えない状況にあったので、とても助かりました。ありがとうございました」
びっくりした。俺は知らないうちに校内随一の美女に傘を渡していたらしい。あの時は顔を一瞬しか見ることができなかったので、それが天音さんだとは気づかなかった。
「それで、お返ししたいものが……」
天音さんは何やら探し始めた。
机の左右を見て、椅子の下を覗き込んで、ポケットの中に手を突っ込んで。色々なところを一生懸命になって探していたが、
「ない、ありません! 私が一さんにお会いした時に必ずお返ししようと思っていた物が、ありません!」
そう言っておたおたと俺の周りを歩き回る。
彼女にはもっと落ち着いた清楚なイメージを持っていたのだが、これはこれでかわいらしい。
「何がないんですか? 一緒に探しますから教えてください」
「傘です。あの日一さんが私に手渡してくれた傘です」
瞳を潤ませた天音さんはしゃがみ込んでしまった。
「あれは捨てていいんですよ。わざわざ返してもらうようなものではないですから」
うちの傘立てには、同じように一回しか使われていないビニール傘が何本もささっていた。
だから、あの傘を返してほしいとはこれっぽっちも思わない。むしろ返さないでほしい。
「返さなくていいんですか? ずっと私が持っていてもいいんですか?」
「まあ、天音さんが望むのなら……」
「本当ですか? 嬉しいです」
意匠の凝らされたお高い傘ならまだしも、ビニール傘を押し付けられて喜ぶとは珍しい。
しゃがんだまま「それで……」と俺を見上げる天音さん。
「一緒に傘を探してくれませんか? 通学途中になくしちゃったみたいなんです」
「なくしたなら、ちょうど良かったじゃないですか。処分するのは面倒でしょう」
俺が何の気なしにそう言うと、天音さんは立ち上がって頬をぷくりと膨らませた。
「あれは大切なものなんです。なくなってしまっては困ります」
「何ならもう一本あげましょうか? うちにたくさんありますよ」
「それも大変魅力的な提案なのですが、あの傘でないとダメなのです」
あのビニール傘にそんな魅力的な新機能がついていただろうか。あの時はとにかく早く傘が欲しくて値段も見ないで手に取ったから、覚えていない。
「ところで一さん、部活動は?」
「特にどこにも所属していませんよ。ときどきピンチヒッターとして参加することはありますけど」
「なら暇ですね。放課後、一緒にあの傘を探しに行きましょう。幸いなことに今日はお昼前に放課ですから、たくさん探せますね」
嬉々としてそう言う天音さん。俺に拒否する権利はあるのだろうか。
どうして俺なんだと思いつつも、放課後は暇だし、校内随一の美女と行動を共にするなんてめったにない機会なので「分かりました」と首を縦に振った。
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