2.六月中旬、ことの始まり
「なあ、こういうの使えるんじゃねえか」
ハルキがそう言ってテーブル越しにスマホの画面を見せたのは、六月中旬の昼さがりだった。
午後の授業が直前に休講となったハルキが、孝明とコウタを昼飯に誘ったのだった。予定のなかった孝明はともかく、授業があるはずのコウタも誘いに乗ってきた。
宣言されたばかりの梅雨空のせいで外は灰色にくすんでいた。
「なに?」
コウタは食後のコーヒーを置くと、スマホをテーブル越しに受け取り、さっと視線を走らせた。
「花火?」
「そうそう」
「なんで急に花火なわけ?」コウタは可笑しそうに片目をつり上げながらスマホを隣の孝明に渡した。
孝明はそれを受け取り、画面を見た。それはあるコミュニティーサイトで、画面のタイトル部分には『ヨゾラニサク blooms in the night sky』とある。花火の写真や蘊蓄、花火大会の情報などを書き込みながら会話する場所のようだった。
「使えそうじゃない?」ハルキはそう繰り返すと孝明からスマホを取り上げ、テーブルの真ん中に置いた。「まあ花火だって何だっていいんだけど、要はこういうコミュニティーは使えるってこと」
はあ、とコウタはあいまいな返事をした。
「特に花火ってのはさ、夏の解放感、それにどことなく清廉なイメージ、さらにはノスタルジアとロマンティシズム」
「わかったわかった」コウタが笑った。「夏のイベントにしたいわけね」
孝明は黙ってコーヒーを口に運んだ。ハルキが何を考えているのか、さらにはこの先の展開についてさえ容易に想像できる。要するに女性と知り合いになり、楽しい夏休みを過ごそうというだけの話だ。
女性から見ればハルキには明らかに遺伝的な優位性があり、そのことをハルキ自身よく分かっている。だから女性に声を掛けたければ自分一人でさっさとやればいいのだが、たいていの場合、彼は目の前に座る二人を誘い、巻き込む。もちろん悪い意味だ。それは彼にとって目的達成への近道であり、楽しみを追加するものでもあった。簡単に言えば、自分とコウタは跳び箱の踏切板というわけだ。
コウタはすぐに話に乗るだろう。彼はそういうタイプだ。だが孝明は小さな抵抗を感じた。ハルキの言葉に簡単に乗るということは、まるで投げられたおやつに尻尾を振っているのと同じに思えたからだ。だったらどうする、ということではない。最終的には自分もコウタも同じ船に乗るのは分かっている。今までもそうだったように、今回も同じように進んでいくだけだ。ただ、いつも何かが気に入らない、それだけの話だ。
「いいと思わない? 別に失敗したとしても時間が多少無駄になるだけ。成功すれば儲けもの」
ハルキはグラスの水を飲み干すと、思い出したように孝明に笑顔を向けた。「孝明はどうよ?」
ハルキの言葉に孝明はかすかな苛立ちを感じた。
涼しげな顔つきと人懐っこい笑顔でたいがいの人間、ここでは主に女、を味方にする。そしてその見栄えのよい顔とは裏腹に、言葉の端々には周りの人間、こちらは主に男、を下に見ているのが透けて見える。この男が生きる時間の多くは行きずりの女性のためにあるのだろうか。もっとも、産まれながらの素地とそれを活用する能力があり、事実、結構な成功率をおさめる男と、その向かいに座る素地すらない男二人という、この取るに足らないほど小さな社会の構図は十分理解している。
「花火を一緒に見ましょう、と誘うってこと?」孝明は努めて平静に言った。
「そうなんだが、まあ聞けよ」
ハルキの考えはこういうことだった。
長い夏休みだから、遠方の有名な花火大会をターゲットにする。そのような大会は一度見てみたいと思いつつも、なかなか行く機会がない。なぜなら、多くの女性にとって遠くまで出かける際の一番の障壁は「足」だ。そこでこちらはそれを提供する。おまけに日帰りだと慌ただしくて楽しめないから、現地に泊まってちょっとした旅行も楽しむ。女性たちにとって面倒は何一つない。
「どうよ? 夏休みらしいだろ?」とハルキが言った。
「そううまくいくかな」
そもそも女性に対する考え方に大きな問題があると思ったが、それは言わなかった。
「そうか?」とハルキは大して気にもならないというように聞き返した。
「だって泊まりで出かけようって誘うんだろ? ハードル高いんじゃないか?」
「だからな」
ハルキは面倒くさそうにため息を吐いた。
孝明は軽く奥歯を噛んだ。
「ハードルなんてどうでもいいんだよ。スマホ一つでできる話なんだから労力もリスクもないだろ? うまく行かなくたって顔も知らないんだから恥ずかしくもないし」
隣から、早速投げられたおやつににじり寄ったコウタが孝明の背中を叩いた。「そういうことらしい」
孝明はコウタに鋭い視線を向けたが、コウタには通じない。
さらにコウタは楽し気に言った。
「面倒なしで最大の利益を得られる可能性があるんだから、まずはやってみよう、ということね」
ハルキはコウタに頷いた。
「それにな、たとえばこの花火大会」ハルキはスマホの画面をスクロールさせると一つの記事を見せた。「これ。この大会なんかは二日にわたって行われるらしいぜ。せっかくだったら、二日とも存分に味わいたいと思うのが普通だろ?」
「たしかに」とコウタは腕を組んだ。
「だろ?」とハルキはコウタを指さした。
「言いたいことは分かった。悪くないアイデアだ。で、ちなみに聞くけど、『足』ってなに?」
「コウタさんのゴージャスカー以外になにかあったっけ?」
ハルキの愛嬌のある笑顔に、だよな、とコウタが笑い返した。
孝明は黙って自分のカップを見ていた。
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