罪の在処

Snow

第1話 罪の在処

 私が人ではなくなったのはもう随分前のことだ。もはや歳を数えることも意味をなさないほど年月が経った。私が殺めた者たちの怨念に囚われ、死ぬことを赦されず、ただこの世界を漂い続けるだけのこの身に生などない。そして私はもうこの世界を見ることも出来ない。この目だけは等の昔に腐り果てたのだ。だが何も見えずとも、感じることはできる。この道は、随分と整えられたようだ。このあたりは獣も多く出る。影も多く、夜は危険だ。

 

 ほら、また影たちがこちらの様子を伺っているようだ。目は見えずとも、影の気配は濃い。この影は、私が殺めてきた者達の怒りや怨念、哀しみなんかの負の感情を煮凝りにしたようなものだ。恨みを以て襲い、死ねない私を傷めつけて嘲笑っている。もはやそこに感情などないが、不愉快だ。


 「失せろ……。」


 剣を引き抜き、影を切り裂く。呻き声にも似た叫びを上げて影は消滅していく。何度倒しても影は毎日何処からともなく湧き出てくる。現れた影を倒していると足元に小さな気配を感じた。影ではない、生きている者の気配だ。影もそれに気がついたようだ。たちの悪い影はその小さな者へ手を伸ばし捕らえてしまった。その小さな者に興味はない。だが胸の奥に少し違和感を感じる。あの日、もう二度と自分のせいで他人の血を流させることはしないと誓ったのだ。暗器を用いた攻撃で小さな者を捕らえている影を倒し、背後に回った影も大きく切り開いた。小さな者は解放され、地面に落ちる音がした。


 影はもういないが、次は獣が現れる可能性がある。付近には街も村もない。なぜこのように小さな者がこの森で倒れていたのかは謎だが、今夜だけはこの者に付き合うとしよう。焚き火を起こし、カバンを枕にしてマントを掛けてやった。小さな者は何も知らずにスヤスヤと眠っている。やがて月が朝に向けて傾き始めると、小さな者は目を覚ました。


「気が付いたか?」


 小さな者が起き上がると、じっとこちらを見ているようだ。何も言葉を発さず、ただ自分を見つめている。


「名は?」


 その問いの答えが得られることはなかった。小さな者に、どのような問いを投げかけても返事が来ることはない。この者は喋れぬようだ。家に帰したくても家が何処だか分からない。そもそもなぜこのような森の中に子供が一人で倒れているのかも疑問だ。救えぬ理由があったか、あるいは……。


「この森を抜ければ街がある。そこで新しい家族に出会え。」


 街に着いたら教会に預けようと考えていた。ただ考えを巡らせていると、この小さな者は突然自分の胸に飛び込んできたのだ。


「は、離せ!」


 小さな者はその手を離さなかった。涙を流しながら小さな手で私の服を掴みかかっている。小さな者に触れると、温かかった。この涙にどのような意味があるのかなど分からない。ただ、自分の知らない感情に惑わされた。悪い気はしないが、過去の罪を感じる。


 影は待ってはくれないようだ。今宵は本当によく現れる。小さな者を抱え、再度剣を引き抜く。


「小さな者よ、ただそのままでいろ。何も見るんじゃない。」


 先程よりもずっと濃い影が何体も現れている。それにこの子供がいるせいで動きにくい。影を倒していくが、久しぶりに傷を負った。その傷が新たな傷を生む。これは、死の痛みだ。だが死ぬことは出来ない。痛みに耐え、剣を持ち直し、暗殺者として名を馳せたかつての自分を思い出す。全ての情けや感情を捨て、自分の持てる全ての力で影を切り裂いた。そしてやっと、全ての影を倒した。


「無事か?」


 小さな者は震えながらも、未だ私の胸に張り付いている。


「強い子だな。だが、私から離れてくれ。私のもとにいては危険だ。それに、私は君が思うような人間ではない。」


 引きはがそうとしたが、なかなか離れなかった。それどころか影に付けられた傷が痛む。少し声が漏れた。そしてその傷を小さな者に見られてしまった。小さな者は驚き、私の胸から離れた。そして速足で私のもとを去って行った。


「これで……、良かったのだ。」


 夜の森は危険だが、もうすぐ朝になる。そうすればあの者も帰るべき場所を知るだろう。明日にはこの傷も消えている。ただ少しの間耐えればよいだけだ。今まで漂ってきた時間に比べれば一瞬ですらない。少しだけ横になろうと身体を土に預けた。しばらく動かず、そのまま全ての情報を遮断していた。そのまま休もうかと思っていたころ、地が小さく振動し何かが近づいてくる気配を感じた。またあの小さな者だ。戻ってきたのかと痛む身体を起こし、傷を抑えた。小さな者の気配はゆっくりと地を踏みしめながら迫ってくる。やっとの思いで、私のもとにたどり着いたようだ。


「なぜ戻ってきた。」


 小さな者は相変わらず返事をしない。小さな者は何も言わずに近づいてきた。次の瞬間、影に穿たれた傷が唸りをあげた。あまりに痛んだが、小さな者の手によって鎮められる。私の傷に水をかけたのだ。そして、森で集めたであろう薬草を擦り込まれる。


「なぜ……。」


 言葉を紡ごうとしたが、不可能だった。痛みもあるが、それが原因ではない。理解が出来なかった。


 ふと気がつけば朝になっている。眠ってしまったのかと、驚いた。傷に触れるが、既に存在しなかった。小さな者もそばで眠っている。その身体を揺らすと、目を覚ました。何も言わないが、また私のもとに飛び込んでこようとする。


「私に構うな。」


 小さな者の突撃を阻止し、立ち上がった。それでもまだ私の足に纏わりつこうとする。火を消し、小さな者を無視して先に進もうとした。小さな者はその後を追おうと、小走りでついてくる。来るなと言っても、その足を止める事は出来なかった。街に置いて行こうにも、きっといつまでもついてくるだろう。あの時、この者を助けた自分を恨みそうだ。


「ついてきたいのか?」


 小さな者は大きくうなずいているようだ。全てを諦め、連れていくことにした。これも何かの縁か、それとも罰か。私に子供を育てるような事は出来ない。ただ、連れるだけだ。


「私は冷酷で残忍な人間だ。遅ければ置いて行く。」


 とてもはしゃいでいるようだ。小さな体で、嬉しいという感情を全力で表現しているように見える。私と共に行くことの何がそれほど嬉しいのか理解に苦しむ。だが、悪い気はしないな。


「小さな者よ、行くぞ。」


 小さな者は元気よくついてくる。だがこのペースではすぐに疲れてしまうだろう。仕方ないと思い、少しだけ歩みを緩めた。次の目的地をどこにしようか考えたが、やはり一度大きな街に行くべきだろう。ここからでは少し遠いが、この小さな者の旅支度をしなければならない。今思えば、名がないというのは不便だな。


「君には本当に名がないのか?」


 よく分からず、不思議そうな顔をしている。名は無さそうだ。ならば、新しく名づけるべきか。


「私は、君が男なのか女なのかも分からん。そうだな……。リュンヌというのはどうだ。」


 小さな者はその名が気に入ったのかまた嬉しそうにはしゃいでいる。その様子を見て安心する自分がいた。自分の中で何かが変わろうとしているのか。久しぶりに人になれた気がする。私の罪を忘れたわけではないが、少しだけ今この時を過ごしたい。


 森を抜け、更に東へ進んだ。しばらく歩くと街が見えてくる。リュンヌはよくついて来たと思う。あまりに長い時間死ぬことが出来なかったせいで、食事など忘れていた。腹をすかせたリュンヌに食べられる木の実や草、更に動物の得方などを教えた。リュンヌにだけ食べさせればいいと思っていたが、この者は私にまで食事を差し出してくる。久しぶりにものを口にした時は、生きているように感じた。私が殺めた者達も、その家族や友人も、もはや誰も生きていない。私が暗殺者だったことなど、誰も知らない。それでも、私が死ねない限り、忘れられることはないのだ。


「もうすぐ街に着く。そうすればもう少しマシな食事が出来るだろう。」


「ン……あ。」


 リュンヌは声を発した。言葉ではなくても、その振動は確かに伝わった。


「君は、声が出せたのか。」


「きみ、なまえ……」


 出会った頃はただの一言も話せなかった者が、旅をして声を発する事を覚えた。幼い者の成長の速さには本当に驚かされる。


「話せない訳ではなかったのか。それなら良かった。自分の名前を言えるか?」


「りゅ、ぬ?……りゅぬ!!」


 あぁ、胸が昂ってくる。自分の子ではない、拾ってからもわずかな時しか経っていないはずだ。親とは、なんと幸せなものなのだろうか。子とはなんと愛おしいものだろうか。


「少しずつ、言葉を覚えていこう。君が正しく生を歩むことが出来るように、私も力を貸そう。」


 この腐った生に、意味などない。だが、永遠のその中に、たった一度くらい誰かを護る道があっても良いではないか。生まれて初めて、そう思えた。


 街でリュンヌに旅支度をさせ、宿で食事を取った。リュンヌはパンや肉を両手に抱えながら勢いよく食べている。私も何年振りかのコーヒーを貰うことにした。


「リュンヌ、食事は落ち着いて取りなさい。ゆっくり食べても逃げはしない。パンはちぎって少しずつ、肉はナイフを使って切って食べやすくしてから食べるんだ。」


 リュンヌにナイフとフォークを握らせ、切り方を教えた。それでも難しかったらしく、肉を切ってやることにした。食事を終え、今夜泊まる部屋に入るとリュンヌはすぐに眠ってしまった。ゆっくりと休ませてやろうと、すぐにろうそくの炎も消した。月明かりが差し込む部屋の中で、また次の目的地を考えていた。





 あれから旅を続けリュンヌも成長していた。リュンヌが目となってくれたおかげで、今まで行くことが出来なかった場所にも行けるようになった。この場所は大陸の東部に位置する高山地帯だ。高い山が立ち並び、崖の道も多い。一足踏み間違えれば谷底に落ちてしまうような険しい道のりだった。


「父さん!見えてきた!もうすぐ高山の村に着くよ!」


「父さんと呼ぶのはやめてくれ。何度も言うが私は……」


「じゃあ父さんの名前を教えてよ!何て呼べばいいのか分からないじゃない!」


 リュンヌは明るく、話すことが大好きな女性に成長した。彼女と共にいることで、煩わしい時もあるが、きっと無くなったら寂しいものだ。既に夜が更けている。ここは影が濃い。ここで襲われたら、少々面倒だ。


「早くこの道を抜けよう。ここは危険だ。」


「そうだね、もう少し行けば広場みたいなところがある。そこまで行こう。」


 リュンヌが先導し、広場までたどり着く事が出来た。崖に囲まれ、そこに月の光は届かない。影達はやはり我々を襲いに来た。リュンヌもこの影を認識し、戦えるほどに強くなっている。広場を大きく使い、影を倒していく。昔に比べ影も濃く強くなっているように感じるが、リュンヌに助けられ十分に対処できている。リュンヌは器用で、私が教えた武器はほとんど使いこなせるようになっていた。彼女は自分の身軽さを大きく活用し、ナイフでの近距離攻撃が得意だった。壁すら走れる彼女は影を次々に倒していた。


「父さん!倒した数勝負しようよ!!」


「ふざけていると怪我をするぞ!」


 二人で戦うことが出来るのはやはり効率がいい。リュンヌも私の動きをよく理解しているし、私も彼女の動きを邪魔しない。影を全て倒し、広場に火を起こした。光があれば、影はあまり襲ってこない。リュンヌは汚れた服を着替え、明日たどり着く村への準備をした。


「あの村は世界で一番天に近い村って言われてるんだって。一度行ってみたかったんだ。」


 彼女が眠りにつくまで話は続いた。あの村でどのような文化が興っているのか、人々はどうしてその地を居住地に選んだのかなど、明日行けば分かることを自分の想像した村について次々想像を膨らませている。彼女が眠った後の静かな夜は、かつての一人旅を思い出す。 


 やがて朝日が昇り、彼女も大きく伸びをしながら起き上がった。村まで残りの道のりを進み、遂に天の村へとたどり着くことが出来た。人々は確かにそこに暮らしており、豊かに日々を営んでいる。


「お兄さん誰?」


 突如少年に声を掛けられた。村の人間以外の人は珍しいのだろう。この村の存在を知る者も多くはない。地上で噂程度に知っている者は多かったが、本当にあるのかなど誰も気にせず、リュンヌだけが興味を持ち、この村を目指した。


「我々は旅人だ。外の人間は初めてか?」


 少年は答えず、走り去ってしまった。しかし少年は大人を呼びに行ったのだろう。すぐに背の高い男が対応してくれた。


「地上の者か。よくぞここまでおいでなさった。良ければ地上の様子を教えて欲しいと長が呼んでいる。」


「もちろん。歓迎されてない訳じゃなくて良かった。」


 リュンヌが笑顔でそう言い、男も微笑みを返した。私達は村の更に奥にある岩壁の中に作られた祭壇のような場所に案内された。そこでは村の長であろう者が祈りを捧げている。リュンヌはその様子を興味深そうに見ていた。どのような儀式が行われているかなど分からずとも、その祭壇には人々の深い信仰があると感じることが出来る。村の長が祈りを終えるとやっとこちらに振り返った。


「やぁ、私はこの村で長をしているファミルという。そなたらは、どうしてこの地へ?」


「地上の国で、この天高くそびえる山の上で暮らしている伝説の民族があるかもしれないと聞きました。まず本当にその村はあるのか、どうしてこのような場所で暮らしているのか、食事は、言葉は。皆さんのことが知りたいから、その好奇心からここまで来てしまいました。」


 リュンヌは長に真っ直ぐ答えた。長はリュンヌの目だけ見て、そうかと納得したようだった。だが長は私の本質を見抜いたらしい。


「なぜ穢れを纏っている。……すまないが、あなたはすぐにこの祭壇を出てくれ。」


 リュンヌは驚き、私を庇おうとした。彼女の悲しい表情はその顔が見えなくても分かる。


「神聖な場所に来てしまってすまなかった。リュンヌ、後を頼む。」


 祭壇にリュンヌを残し、外に出た。待機していた先程の男が休める場所へと案内してくれた。村の者達は私をもてなそうと、茶や菓子を出してくれた。しかし、今は何も口に含みたくはなかった。菓子は頂いて、後でリュンヌに渡そう。彼女は甘いものも好きだ。何をする訳でもなくただ時が過ぎるのを待った。やがてリュンヌが不機嫌そうに戻ってきた。


「話はどうだった?」


「別に。地上のことを色々聞かれただけだよ。」


 彼女は口を噤んでいた。不機嫌なのではなく、悲しいのだとやっと気が付いた。それはこの村の事実においてだけではなさそうだ。


「知りたかったことは、知れたのか?」


「うん……。この村も大変な歴史があったみたい。この村は凄いよ。こんなに高いところじゃこんなに豊かに作物は作れないはずなのに、あんなに生き生きと育ってる。でもそれが、争いの火種になることもあるのね。」


「知れて、良かったな。だが、知っただけでいい。それはこの村の歴史であり、過去がもたらした文化だ。君が悲しむことはない。」


「うん……。」


 リュンヌはそっと隣に座った。先程取っておいた菓子を渡す。村の人がリュンヌに新しく茶を淹れてくれた。


「美味しい……。お茶もお菓子もすごく美味しい。ありがとう。」


 菓子を少しずつ口に含み、静かに茶を飲んだ。その言葉は本心だろう。ただ、もっと深い意味があるようだ。それは直接長と話した彼女だから分かることであり、感じることだ。リュンヌが菓子を食べ終わったころ、長が我々のもとに直接来た。


「先ほどは失礼なことは申した。だが、やはりそなたは穢れを身に纏っている。」


「父さんにこれ以上好き勝手言うのは許さない。」


 リュンヌは私の前へ出て長に物申した。


「リュンヌ、控えなさい。……ファミル殿はこの呪いを知っているのか?」


「知りたくなどない。だが、過去はどうあれそなたが今悪でないことは分かる。……この村より更に上、月が昇る地に仙人様がいる。その方なら、主の穢を払う術を知っているかもしれぬ。道は険しく、辿り着いても無事とは限らぬが、征くも征かぬもそなたの自由だ。」


 永く生きて、世界の変化に対して自分のことはいつの間にか諦めていた。地上の道という道は全て歩んだ。だが何も分かったことはない。全ては、リュンヌを拾ったときに変わったのだ。彼女が居てくれたからこの地に辿り着き、新たな道が生まれた。そっとリュンヌの方に顔を動かし、微笑んだ。


「その仙人のもとへ行く。また何か、変わる気がするよ。」


 リュンヌも笑っているようだ。彼女の笑顔を見たことはないが、それでも分かるほどに輝いている。その力が、私に進もうと思わせてくれるのだ。


 仙人の住むという、この村の更に上へ行くための道をファミルに教わった。その道は山の中に作られた洞窟を通って行くようだった。洞窟内には未だかつて見たこともないような生物たちが蔓延っている。彼らは穏やかではなさそうだ。そして、洞窟内に光は届かない。影も現れるだろう。道も狭く足元には岩や先の尖った石が転がっている。


「私が先に行くから、同じ道を着いてきて。」


 リュンヌはそう言って先へと進み始めた。彼女が通った道に足を重ねる。ゆっくりと進もうとするが、腹を好かせた生き物が行く手を阻んだ。そして、影の気配を感じる。だが奴らは襲ってこなかった。この地に住む生き物たちに苦戦する我らを見て嘲笑うだけだ。生き物たちを倒しながら上を目指して進んだ。所々登れそうな場所があり、手探りしながら進んでいく。影たちは未だ襲ってこない。それがむしろ気がかりだ。

 

 洞窟内を進んでいくと、リュンヌは遂に長い大きな階段を発見した。その先には光が見えるという。きっとそこが出口なのだろう。リュンヌが階段に足をかけると、背後から大きな衝撃が奔った。私は胸を穿たれたようだ。影の気配を感じなかった。だが、今私の後ろには今まで感じたことが無かったほどに大きな影を感じる。この巨大な影の影響で、他の影は手を出さなかったのかとすべてを理解した。


「リュンヌ……逃げろ……!」


「父さん!!」


 リュンヌはすぐに武器を構え、大きな影に立ち向かった。巨大な影は多少動きが鈍い。だが、その威力は比べ物にならない。傷があまりにも大きすぎて動けない私に、リュンヌは影の気を引きつけながら薬を投げ渡した。


「早く治して!!!」


 薬は小さな貝殻に入っていた。この薬は魔女から受け取った希少な薬だった。『本当に先が見えない時、一度だけ使うと良い。』そう言っていた。震える指になんとか薬をつけて傷に塗った。熱い、薬を塗った部位が焼けるように熱かった。苦しみの代わりに、傷はまたたく間に塞がっていく。動けと自身の身体に呼びかけ、立ち上がる。リュンヌはこの間あの巨大な影をずっと一人で相手していた。すぐに剣を引き抜き、応戦する。影の攻撃を受け流しつつ、少しずつダメージを与えていく。光の方へ逃げられないか目論んだがその道は影達によって塞がれている。さらに巨大な影は小さな影を吸収し、斬った部位を補完していく。


「父さん!キリがないよ!!」


 考えた。ただ斬るだけではもはやこの影は倒せない。一度で仕留めなれば、永遠に終わらない悪夢だ。だが、私には解決できるかもしれない術があった。暗殺術は他のどんな術よりも敵を一撃で仕留める事に長けている。ただそれを、リュンヌの前で使う事に抵抗があった。だが、結論は思っていたよりもすぐに出た。


「私の後ろに下がっていろ……。」


 最後にリュンヌの前でこの術を使ったのは、まだその名がない頃だ。瞼を開き、見えないはずの目が視える。影の大きさも、次の攻撃も、急所の位置も全て視えた。剣を鞘に一度納め、影の攻撃が襲うと共に一気に引き抜く。その攻撃は一寸のぶれもなく影の急所を切り裂いた。影は脳を揺らすような叫び声を上げながら消えていった。


 だが私も、限界だった。最後にリュンヌの叫び声を聞いた気がする。あの薬は、薬であり毒だったのだろう。それに加えた暗殺術の行使により、私の身体も悲鳴を上げたのだった。


 意識が戻ると、目の前にリュンヌの気配を感じた。どうやらどこかの家で寝かされていたようだ。


「目、覚めた!?」


「あぁ。そのようだ……。」


「ちょっと待ってて!!」


 そう言うとリュンヌは軽やかに部屋を出ていった。しばらく寝床に身体を預けた。最近は野宿が続いていたから、柔らかいベッドで眠れるのはありがたい。やがてリュンヌは一人の老人を連れて戻った。


「気分はいかがかね。この子に感謝するんだよ。意識の無い君を背負ってあの階段を昇りきったのだから。」


 そうか、ここは仙人の家なのか。涼しい風と温かい日差しを感じる。身体をゆっくりと起こすとリュンヌが支えてくれた。


「リュンヌ、助かった。危ない思いをさせてすまなかった。」


 リュンヌは首を横に振っている。そして、私を力強く抱きしめた。


「無事でよかった。」


 そして仙人は私に呪いについて少しだけ教えてくれた。やはり影は恨みの姿であり、私がかつて殺めた者だけではなく、その家族や友人、愛する者の恨みでもあった。誰かを殺めれば、その者を想う人々までも苦しみ、恨みの感情を持つ。その恨みを誰かに伝えれば、その誰かもまた負の感情を抱く。その連鎖によって生まれた行き場のない強い思いが私を呪ったのだ。だが仙人は、呪いの解き方を終には教えてくれなかった。それを伝えては意味がない、答えはそれだけだった。


 





 あれから長い月日が経った。私には時間の感覚がない。リュンヌの成長が物差しであったが、彼女も大人になれば大きな成長は視られない。リュンヌは仙人の家で私を抱きしめた後、一切として触れなくなった。初めは怪我でも負ったのかと心配したがどうにもそういう訳ではないらしい。あの巨大な影を倒して以降、影はしばらく大人しかった。リュンヌと共に世界を巡った。リュンヌは新しい世界にいつも目を輝かせていた。彼女と廻る世界は、一人で視る世界とはまるで違って見える。

 

 しかし近頃は影の量があまりに多い。冬の時期で夜も長く、戦闘は朝まで続くほど苦しかった。リュンヌはかつて天の街で食べた菓子をもう一度食べたいと訴え、また険しい山を進んでいる。


「もうすぐ、着くはず。」


 影に襲われるのを恐れ、日が出ているうちに到着したかった。その為かなり急いだ道中で、リュンヌにも疲れが見える。


「少し休まないか?」


「まだ駄目よ。もうすぐ着くから、それまで進みましょう。」


 彼女は足を前へと進めていく。だがその歩みに反して、日は非情にも沈もうとしていた。村まではもう少しかかりそうだった。過去に訪れた際に休んだ広場に辿り着いた頃には月が昇っている。しかしその光もここには届かない。待っていたと言わんばかりにぞろぞろと影が集まり始める。


「間に合わなかった……。でももう一度、私はあの村へ行く。あのお菓子をもう一度食べたい。あの景色を、もう一度だけ見たい……。だから、ここで終わらないわ!」

 

 リュンヌはナイフを両手に持ち、異形の影を倒していった。倒しても倒しても、影は無限に湧きあがってくる。私の術は多数において意味をなさない。ただ、この長い夜を耐えるしかないのだ。互いに背中を預け、目の前の影を切り裂いていく。倒して、倒して、倒して、倒して、倒し続けた。そして倒れたのは、リュンヌだった。彼女に駆け寄ろうとも、影がそれを阻む。リュンヌが地面に崩れると、影はそれ以降現れなくなった。最後の一体を倒し、リュンヌの身体を抱いた。温かい血が彼女の外へと溢れている。そして初めて気が付いた。その身はあまりに老いていた。


「リュンヌ、リュンヌ!!しっかりしろ!」


 リュンヌは涙を流し、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「父さん……。どうして、触るのよ。分かっちゃう、じゃない……。」


「すまなかった。気付いてやれず……。ずっと無理していたのか。どうしてこんな、どうして……。」


 リュンヌはゆっくりと左手を伸ばした。私の顔に触れ、その手を抑える。今にも落ちそうな力のない彼女の手は冷たくなりつつある。リュンヌは最期の声をあげた。


「父さんは……私を暗闇から助けてくれた。だから、今度は、私が……父さんを解放する。ずっと伝えたかった……。あなたがくれた言葉で、ずっと言いたかった。ありがとう、大好きよ。」


 リュンヌは右手に握ったナイフを私の胸に深く突き刺した。驚く間もなく、私は死んだ。




 「ねぇ起きて。」


 彼女の声がする。光が眩しい。ゆっくりと瞼を開けると、彼女がいた。すぐにリュンヌだと分かった。なんて輝かしいのだろうか。彼女に手を引かれ、天の村から…


 「ずっと、見せたかったんだ。」


 彼女が視界から外れて姿を現したのは、青い水平線とそびえたつ高い山々。そしてそのもとで暮らしている人々の創り上げる営みは、あまりに綺麗だった。

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罪の在処 Snow @Silver-Snow

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