シュクコとオチカ

@315azibell

シュクコとオチカ

 6年間皆勤賞だったわたしが学校に行かなかった今日、千夏ちゃんはわたしのことをものすごく心配してくれていたらしい。

 ドアを開けるとあの千夏ちゃんが膝に手をついていて、肩で息をしながら汗を拭っていたからビックリした。「ちょ、ちょっと待ってて」慌ててクロックスを履き、綺麗な千夏ちゃんに汚い玄関を見せないよう、急いでドアを閉める。まぶしい。今日初めての外だ。先週よりはずいぶん涼しくなったけど、それでもまだ若干の蒸し暑さは続いている。

「ど、どうしたの、ち、千夏ちゃん」

「どうしたのって、走ってきたんだよっ」

「し、新体操クラブは?」

「休んだよ! シュクコがっ、学校来てないっていうから……」

 おおきな声に身体がびくっと震えてしまったわたしのことも気にせず、千夏ちゃんはまくしたてる。『髪質改善トリートメント』とやらを毎晩お手伝いさんにやってもらっているというつやつやな黒髪が、頭のてっぺんあたりでボサボサと乱れていた。高価そうな服をパキッと着こなす千夏ちゃんの白黒チェック柄ワンピースが、太もものあたりでくしゃくしゃに折れ曲がってしまっている。まっすぐ伸びているはずのチェックがギザギザに歪まれているのを見て、わたしは押しつぶされそうになった。足が冷たい。

「先生が電話しても出ないって言うしっ、なんの連絡もないって言うから……ホント、心配したんだからね!」

「う、うん。ほんとにごめんね……。えっと、千夏ちゃん」

「なに!」

「ランドセル、フタ開いてる」

 わたしと千夏ちゃんの視線の先で、薄紫色のランドセルがぱかぱかと口を開けたり閉めたりしていた。千夏ちゃんは何か言いたげにわたしを睨んで、後ろ手でフタを閉めた。

「ま、シュクコが元気そうでよかった。ていうか、あっつい!喉渇いた。麦茶もらってもいい?」

「あっ、いいよ。ちょっと待……」

 わたしは「あっ」と声をあげた。

「ごめん、今ちょっとウチにはあがれなくて……」

「え?あ、いやいや、さすがにリビングまではいいよ。玄関までで十分だから」

「いや、でも……。今日は玄関も、ちょっと……」

 今、千夏ちゃんをウチにあがらせるわけにはいかない。いつにも増して歯切れの悪いわたしに、千夏ちゃんは眉をひそめる。

「やっぱり今日、何かあったの?シュクコのママさんとパパさん、今いる?」

 つま先が冷えきっていくのを感じた。

「…………。いない」

「いないの? はぁ……。なんていうか、シュクコには悪いけどさ、ホントに困った人たちだね。学校休んだ子供置いて、平日に出かける?フツー」

「……」

「『布教活動』だかなんだか知らないけど。人んちピンポンして周ってる暇があったら、自分たちの子供の方を優先すればいいのに。私なんて、ミントが家にいるあいだは習い事のとき以外一切部屋から出なかったし、ずーっとピーピー話しかけてたよ?あの子がいなくなってからの数日は、毎日不安で仕方なかったっていうのにさ……」

 ミントは千夏ちゃんの飼っているセキセイインコだ。先々週の金曜日、突然いなくなってしまったらしい。弟の麟太郎くんがカゴを開け、窓を開けた隙にひらひらと飛んでいってしまったという。わたしが最後にミントに会ったのは春だったから、だいたい三か月前だ。晴れた夏の空みたいに綺麗なターコイズブルーのインコで、ぷにぷにしたおなかのかわいい鳥。とってもいい子で、今まで家から出ようとしたことなんかなかったのに。

「ま、いいんだけどね。どうせどっかで元気にやってると思うし。気弱な子だったけど、鳥にとっては自然の中のほうがやりやすいこともあるだろうし、大丈夫でしょ」

「……ごめんね」

「……? なんでシュクコが謝るの?」

「千夏ちゃんの、力になれなくて……」

「いやいや、シュクコはちゃんとミントのこと探してくれたじゃん! それもあんな一生懸命に、真っ暗になるまでいろんな公園まわってくれてさ。あんなにちゃんと探してくれたの、あんただけだったよ」

「うん……」

「……。ありがとね、シュクコ」

 ぎゅうっと抱きしめられる。千夏ちゃん家のシャンプーの匂いだ。石けんとローズの香りに体が包まれると、私まで綺麗な子になったと思い込みそうになるから毎回怖いけど、千夏ちゃんにそれを言ったことはいままで一度もない。これから言うつもりも、ない。

 自分だって辛くて仕方がないはずなのに。ほんとはその薄い背中に腕を回したかったけど、わたしはどうしてもできなかった。ありがとうなんて言われる資格も、こんなふうにやさしく抱きしめてもらえる資格も、わたしにはないのに、千夏ちゃん。

「ま、とにかく。ママさんとパパさんのことで他の連中からなんか言われたって、娘のあんたが責任感じることないんだから!あんたはちゃんとフツーに学校来て、フツーに勉強すればいいんだよ」

「ん……」

「なにか困ったことがあったら、いつでもうちに来ていいんだからね?うちってホントならパパとママの知り合いぐらいしか入れないんだけど、シュクコは顔パスだから。管理人にも言っとくし」

「……ん。ありがとう、千夏ちゃん」

「よし!今日、塾来れそう?もし都合悪いんだったら、べつに無理して今日じゃなくてもいいよ。麦茶ならコンビニでも買えるしさ」

 そう、今日は千夏ちゃんの通う塾の体験授業に行く約束の日だった。だからこそ、ほんとは学校も休みたくなかったんだけど。

 麦茶のことで気を遣ってくれる千夏ちゃんのやさしさに感謝しつつ、わたしは首を横に振った。

「ううん、大丈夫。行けるよ」

「よし。じゃあ、ちょっと早いけどもう向かっちゃおうよ。うちの塾、朝8時から開いてるんだよね。中学受験生だけじゃなくて、高校受験生もいるからさ」

「うん、わかった。じゃあ、準備してくるから、ちょっと待ってて」

「はーい」

 ガチャンとドアを閉めた途端、日の光が閉めきられ、薄闇に身体ごと包まれる思いがした。目がちかちかする。ドアノブを握る手も見えない。

 壁に手をついてリビングへ向かう。しかし、大量のゴミ袋をよけながらたどり着くまでの一瞬のあいだに、だんだんとどこになにがあるかの輪郭が浮かびあがっていく。家中の電気が点かなくなってからの数ヶ月間で、わたしの目はすっかり暗い中でもものが見えるようになってしまったのだ。

 リビングでは夕方にやっている刑事ドラマ

 ——塾、行かなきゃ。お財布と、ケータイと、ハンカチと、筆箱……あと、通帳も一応。

 冷蔵庫の前に置いてあるお母さんとお父さんのバッグからそれぞれ財布を抜きとり、水色のランドセルにひとつずつものを詰めていくと、背後から視線を感じて振り返る。

 昨日から開かずの間となってしまった畳部屋。この家の——お父さんとお母さんとの思い出が詰まった、わたしの11年間のすべて。閉じきった襖の向こうから、声が聞こえる。

「すくこ」

「育子。育子」

 足先が急激に冷たくなっていく。わたしを呼んでる。あの秘密の部屋が、もう聞こえるはずのない声で。

 わたしは胸元で十字を切った。サッカー好きだったお父さんが「こうすると緊張がほぐれるんだよ」と言って、試合を見る前にいつもやっていたルーティン。

「大丈夫……、だいじょうぶ」

 外に出ると、千夏ちゃんは枝で土にケンケンパを描いて遊んでいた。おまたせとつま先を叩くわたしに、千夏ちゃんは当然のように手をさしだしてくる。

「行こ、シュクコ」

 そして、お互いの手をとって歩きだす。いつもつないでいる千夏ちゃんの手が、今日は何倍も頼もしい。

「ん?なに?」

「ううん。なんでもない」

「ふふふっ。変なシュクコ」

 橘千夏ちゃん。綺麗で、高潔で、わたしにないものをぜんぶ持っている。きっとわたしとは違う人生を歩む、わたしの大好きな人。

 わたしは千夏ちゃんがすきだ。自信に満ちあふれる千夏ちゃんの隣に立つことを許されたこの11年間はとても楽しくて、嬉しかった。

 だけど、ごめんね、千夏ちゃん。わたし、もうここにはいられないんだ。だから、今日でさよなら。

 後ろを振り返る。声は聞こえなかった。遠くから見ると、森育子の生まれ育った家はみすぼらしく、不潔で、数年前にお父さんと塗ったはずのペンキはとっくに剝がれていた。


 鶴喰町に通う生徒なら誰もが名前を知っている『菅野塾』は、東京でいちばん偏差値の高い私立校の進学生を輩出しまくっている。

 優秀な家庭教師を持つ千夏ちゃんが本来ここに来る必要などないのだが、その家庭教師さんが先日、ヘルニアで腰をやってしまったらしい。そのつなぎとして、気まぐれでここに通うことにしたという。

 受付の先生と二言三言やりとりをしたあと「授業を受ける前に書いてもらう書類があるから、ちょっと待っててね」の言葉を最後に待つこと十五分。

「……シュクコ。やっぱり今日、元気ないでしょ」

「え。そ、そんなことないよ」

「ウソだね。何年の付き合いだと思ってんの?あたしになんか隠そうとしたって無駄だよ。そんな風に塞ぎこむくらいなら、今さっさと吐いちゃいな」

「……」

 もしここでわたしがほんとのことを言ったら、千夏ちゃんはなんて言うんだろう。

 千夏ちゃんはわたしのことがなんでもわかるみたいだけど、わたしは不器用だから、千夏ちゃんがどんな言葉を返してくるのかが想像できない。こんな状況ならなおさらだ。

 これで会うのは最後になる、と言えたら、どれだけラクになれるだろう。千夏ちゃんにだけは言いたくない。でも、今いちばん話を聞いてほしい人は。

「千夏ちゃん、あのね」

 その時、ガラスが割れたようなけたたましい音とともに、耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴が響きわたった。

「ぎゃあああ!!」

 なんの音、と口にするよりも先に、勇敢な千夏ちゃんは声のほうへさっそうと駆けていった。のろい足取りで後ろからついていったわたしが見たのは、腰を抜かしている生徒らしき女子に向かってハサミを振りかざそうと構える、真っ黒で太ったおおきな女の人の姿だった。

「やだ!!おねがいオチカちゃん、許して、助けて!」

「オチカ!あんた、またそんなモノ……今すぐ下ろせ!さもないと、」

「うるさいッ!!アタシに指図するな!!」

 入口のドアがびりびりと揺れる。恐ろしいほどおおきな声に全身が震えあがった。まるで餌を横取りされないよう威嚇する獣だ。

 誰?この人は一体、何?

 千夏ちゃんが「オチカ」と呼んだそれの足元に、グレーのリュックサックが転がっている。開いた口から散らばったテキストの表紙には、へろへろの字で『本橋落下』と書かれている。わたしはゾッとした。じゃあ、もしかして。

 乱れた髪の間からぎょろっ、と目玉が向いた。髪は肩ぐらいの中途半端な長さしかなくて、それがまた余計に気味が悪い。

「コイツが悪いんだよ!!」

 オチカは怯える女の子を指さした。

「アタシが話しかけてやってんのに、全部無視しやがる!『本橋さんとは関わっちゃいけないってパパとママから言われてるから』だと!いいよねぇ、あんたみたいに何もしなくたってパパやママからかわいがってもらえる子はさぁ!!」

 ガシャン。ハサミが壁に投げつけられると同時に女の子の髪が無造作に掴まれ、ものすごい音を立てて長机へ叩きつけられた。

 誰も近づけない。誰にも止められない。誰も動こうとしない。みんな知っているのだ。あんな巨体に近づけば、ひとたまりもないことを。

「シュクコ、誰でもいいから先生呼んできて!はやく!」

 千夏ちゃんが呼びかける。しかし、わたしは動けなかった。そんなのも聞いていられないくらい、頭のてっぺんから爪の先まで、ひとつの感情に支配されていたからだ。

 胸糞悪い。

 イライラして仕方がない。

 なんでこの子が、こんなよくわからないヒステリー女に傷つけられなければならないのか。こいつはなんの権限があって、その子に暴力を振るっているつもりなの?

「シュクコ!聞いてる!?先生を、」

「ママ、パパ……たすけてぇ……」

「泣けば済むと思ってんじゃないわよ!!この弱虫が!」

 そしてオチカが拳を振りあげた瞬間、昨日見た光景が頭にフラッシュバックした。

 晴れた夏の空みたいなターコイズブルー。透きとおった青。

 ミント。

 わたしは巨体へ、ランドセルを力いっぱい振りおろした。後ろから不意打ちで頭を殴られたオチカは机と椅子を巻き込み、派手な音を立てて壁まで飛ばされていった。きゃあ、と誰かが叫ぶ。

「弱虫はお前だよ」

「……は?」

「自分が恵まれてないからって人に当たるな。この卑怯者」

 自分でも驚くほど冷たい声色だった。あまりの怒りに声が震えている。許せない。

 ぐいっと強く腕を引かれる。千夏ちゃんだ。

「シュクコっ、あんたなにやってんの!!」

「誰かを傷つけて、上に立ったような気にならないと生きていけないんでしょ。そのでかい図体と暴力で脅せば済むと思うな、この弱虫」

「……あ?」

 ぐしゃぐしゃに崩れ落ちているオチカを見下ろして、握りこんだ拳をゆるめる方法すらわからなかった。わたし、どうしちゃったんだろう。わたしがわたしじゃなくなっている。千夏ちゃんも同じことを思っているはずだが、あまりの惨状を前にしてそれどころではないようだった。

「ダメだってシュクコ、そいつホントにヤバいんだから!あんたも襲われるよ!」

「……オマエも同じ目に遭いたい?」

 不敵に笑ったオチカが落ちていたハサミを手にとったのと、わたしが周りの生徒に「逃げて」と叫んだのはほぼ同時だった。

「オマエも同じ目に遭いたいかって訊いてんだ!!」

 長机が蹴り飛ばされ、菅野塾はさらなる混乱に陥った。


 お香の匂いで目が覚める。

 起きて数秒間、固まった。見覚えのない部屋、知らない匂いのするベッド。まさか、と思いながらおそるおそる首を触ってみたが、思っていたようなものはそこにはない。よかった、大丈夫。上体を起こそうとすると、ずきりと頭の左部分が痛む。どこかで頭を打ったか、もしくは……。

 一体どこに連れてこられたんだろう。ここはどこ?なにが起きているのかまったくわからない。あのオチカとかいう奴に出会ってから、なんだか気味の悪いことばかり起きている気がする。

 そもそも、なぜこんなことに?わたしはただ千夏ちゃんと同じ塾に通って、最後の日を一緒に過ごしたかっただけだ。あんな凶暴な怪物がいるなんて聞いてないし、こんなふうに誘拐されるなんて——。

 いや、違う。もう一度、自分の首をなぞる。鎖骨の間あたりにボコッと刻まれている、傷。わたしの罪の形。

 わかってる。ほんとはオチカのせいなんかじゃない。ぜんぶ——わたしのせいだ。

 これは、《罰》なんだ。わたしがしたことの。わたしができなかったことの。

「……行かなきゃ」

 千夏ちゃんに会いたい。会って、ちゃんと面と向かって最後の言葉を伝えたい。

 わたしには、まだ、あの子に話さなきゃいけないことがたくさんある。

 

 足音を立てずに廊下を歩く。隣の部屋のドアノブを押すと、かちゃりと前に押しだされた。開いてる。

 おそるおそる中へ入ると、そこには三、四人ほどの大人たちがいた。ベッドに寝転がっている人もいれば、その脇で膝を抱えて座っている人もいる。つんとするような甘い匂いがただよう中で、わたしは閉口させられた。

 ——なんでみんな、裸なんだろう?

 彼らは服をなにも着ていなかった。大人たちはわたしの存在がまるで見えていないのか、どこか一点を見つめてぶつぶつとなにかを呟いている。

 異常な光景に立ちすくんでいると、突然足首を掴まれた。

「うわっ」

 とっさに膝をあげた。思わずおおきな声が出そうになるのを直前で抑える。

 足元に人が落ちている。わたしの足首を掴んだのはこの人のようだ。例によって服を着ていないその女の人は、肋骨が浮き出るくらいガリガリに痩せていた。目ん玉が今にも飛び出そうだ。

「なっ、なに」

「……ぁー」

「え?」

 なにか様子がおかしい。わたしはしゃがみ込んでもう一度聞き返す。

「ぁあ、ああ……ううぁー……」

 突然、女の人は顔を手でおおって泣き出してしまった。足をばたつかせながら子供のように号泣する大人の姿に、わたしは呆然とすることしかできない。

「あーあ、また葵?もー、最近多いなぁ」

 後ろから聞き覚えのある声がして振り向くと、そこにはいてほしくなかった奴が立っていた。

「うう……おぉいあぁあー」

「はいはい、大丈夫よー。ちゃんとオチカいるからね、よしよし」

 オチカは慣れた様子で『葵』と呼ばれた女の頭を自分の膝に乗せ、ぱんぱんに膨らんだ両手で葵の顔をこねくりだした。

 菅野塾で暴れてたときとはあまりにもかけ離れたその姿に、わたしはひたすら困惑する。誰だ、こいつは?

 戸惑いのあまりその名前を口にすると、オチカはぱあっと顔を明るくした。年相応の笑顔だ。

「あ、さっきの!ちょっと待って、今この子の世話してるから」

「なんで、ここに……」

「あははっ!だってここアタシん家だし。アタシがオマエをここに連れてきたのよ。あーこらっ、動かないの!」

 菅野塾で暴れ、わたしやほかの子を傷つけたオチカ。わたしを歓迎し、葵を猫なで声で世話をする今のオチカ。このふたつがどうしても結びつかない。一体、どれが本物のオチカなんだろう?

 「もう大丈夫になるからねー」

 赤ちゃんの世話をする母親みたいな声色のまま、オチカは懐から取りだしたハサミを葵の二の腕に当てる。

「なに……なに、やってるの?」

「《しつけ》よ」

 しつけ?これが?理解が追いつかないわたしをよそに、オチカは定規を当てながら直線を引くように「よいしょっ」と勢いよく刃を引いた。

「こうしないと葵、静かにならないもの」


 わたしは逃げた。ダッシュなんてもんじゃない、全力で足を動かして逃げた。

 頭の中で色がぐちゃぐちゃに混ざっていく。晴れた夏の空。プツプツの血の玉。首に繋がれた赤い管。血の抜けきった土色の肌。

 おおきな誤解だった。わたしは勘違いをしていたのだ。葵に膝枕をしてやさしく頭を撫でる母親のようなオチカを見て、実は、そんなに悪い奴じゃないんじゃないかとか思ってた。しかしそんなことはない、あいつは最初から葵のこともわたしのことも、あの部屋にいる人たちのことも、人間だなんて思っていない。そのへんにあるリモコンや扇風機と同じだ。ボタンを押せばすぐに止まるものだと思っている。それがその人の命を左右するボタンだとしても、あいつはなんのためらいもなく押すだろう。ただ「静かになってほしい」というだけで。

「待て森育子!!」

 オチカの怒号が響きわたる。なぜあいつがわたしの名前を知っているのかなどと気にしている場合ではない。

 曲がり角を曲がった先にはエレベーター、そして窓があった。空は真っ赤に染まっている。

 わたしは焦りのまま窓を開け、逆側の手で「下りる」ボタンを連打した。はやく、はやく、はやく来て!

「みつけたぁあ」

 背後から声が聞こえたその瞬間、わたしは窓枠に足をかけ、考える間もなく飛び降りた。

 心臓が浮かぶような浮遊感のあと、およそ二、三階分は離れた建物の屋上につま先から着地し、両手をついて衝撃を和らげながら前転する。うまくいった!その勢いのままさらに駆け抜け、向かいのマンションの配管を伝って飛び移る。

「遅い遅い!!そんな昇り方じゃ遅いよ!」

 耳を疑った。振り返ると、オチカがすぐ離れたところにまで迫ってきている。なんで追いつかれてるの?しかも、このスピードで!

 その動揺でわたしは足をもつれさせてしまった。まずい、ととっさに受け身をとったものの、その隙に追いついてきたオチカから容赦なく腕を押さえつけられる。重い。痛い。動けない。

「なんで、お、追いかけてくるの」

「なんでって何?オマエが逃げるからよ、森育子」

「わたしの名前……」

「一体どこへ逃げるっていうの?もう帰る場所もないくせに」

 心臓が跳ねる。まさか、いや、そんなわけない。妙に確信めいたオチカの口調に気が動転する。だって、こいつがそんなこと知っているはずが、

「森重明。森風子」

 内臓を槍で貫かれるような痛みが全身をおそう。オチカの口から、絶対に発せられるはずのない名前。

「オマエでしょ?殺ったの。さっき行って見てきたもん、森さん家。今度から住所の書いた紙はランドセルになんか閉まっておかないことね。ウチみたいなロクでもない連中に見つかれば、一発でガサ入れられるわよ」

「ぁ……あ、あぁ」

「しっかしあの死体の管理、どうにかならなかったわけ?あんな状態じゃ、窓割るとか以前に匂いで一発バレるっつーの。まだ気温高いんだから」

 膝から崩れ落ちたわたしの耳にオチカの言葉はひとつも入ってこなかった。

 殺すしかない。でも、どうやって?体格でも力でも知識でも、きっとオチカには敵わない。こいつとまともに戦ったところでわたしが勝てるビジョンなど想像もつかない、その事実がさらにわたしを追いつめる。

「パパとママがオマエのこと見てくれなかった?それで癇癪起こして駄々こねた結果、殺しちゃったわけ?」

「ちがうッ!!」

 わたしはオチカに掴みかかった。

「わたしはっ、お父さんとお母さんに人さらいと人殺しをやめさせたかっただけだ!!生きたまま誰かの喉を開くお父さんとお母さんなんてもう見たくなかった!なのに、」

 去年の秋ごろ。夜中に目が覚めて畳の部屋に入ると、手を合わせながら涙を流すお父さんとお母さんの間に、知らない男の人が何本もの管で繋がれていた。

 その人は口をテープでグルグル巻きにされていたうえに、喉に繋がれている管のせいで声が出せないようだった。その赤黒い管にめぐっているものがその人の血液だということに、そのときのわたしは気づけなかった。

 男の人は目をかっ開き、わたしに助けを求めていた。喉を開かれて血を抜かれているのがこの人の意思じゃないことくらい、幼いわたしでもすぐにわかった。なのに、わたしはみるみるうちに力が抜け、痩せこけて、葉が枯れ落ちるようにゆっくりと閉じられていくそのまぶたを、ただ見ることしかできなくて。

「たくさんの人から愛されて、いっぱい愛情を注がれた人は、人生の早い段階から天国へ行くことができるの」

 お母さんは泣きながら笑った。最後までやりきった人の顔だった。

「これはすばらしい儀式よ。このお仕事をくれた『カズラさん』に感謝しなくちゃ」

「もう貧しくて惨めな思いはしなくていい。大丈夫だ、育子」

 わたしがどれだけ泣いても二人がそれを止めることはなく、どこからか捕まえてきた知らない人たちの喉を夜な夜な切り裂き、大人も子供もお姉さんも関係なく血を抜きつづけた。誰にも相談できないわたしはとうとう家にいることすら恐ろしくなって、夜中に抜け出しては家や建物の上へ昇り、誰もいない空の近くで毎日ひそかに泣いた。

 そして、昨日の夕方。

 あのとき、わたしは畳の部屋にいたお父さんとお母さんに授業参観案内のプリントを渡したかった。もうひと月はまともに顔を合わせていなかったし、最近背が伸びてきたこととか、千夏ちゃんのインコがいなくなった話、嫌いだったトマトがだんだん大丈夫になってきたことなど、聞いてほしい話が山盛りだったのだ。

「お父さん、お母さん」

 振り向いた二人の手の中にあるものがそこだけ、きらりと煌めく。

 晴れた夏の空。透きとおったターコイズブルーが、真っ赤に染められている。

 ミントだった。


「『もうやめて』って叫んで、目の前が真っ白になって……、気づいたらお父さんとお母さんを包丁で何度も刺してた。動かなくなっても、血まみれになっても、何度も何度も何度も……」

「……。森育子」

 おおきな身体に半ばすがりつくように掴まっていると、穏やかで静かでやさしい声色が降ってきた。葵に語りかけているときの、あの声。

「オマエ、橘のこと好き?」

「……」

「答えなさい」

「……好き、だけど……。もうわたし、そんなこと言える立場じゃ……」

「あっはははは!なーんだ、よく分かってんじゃない!」

 オチカは高らかに笑った。心の底から愉快で仕方ないといった感じだ。

「そう、オマエはもう『こちら側』の人間になってしまった。一度殺しの味を知ってしまえば、もう日の当たる道を歩くことなどできない。——オマエは罪を背負ったの。もう一生、橘の傍にいることはできないし、友達にも恋人にも、他人にすらなれない。会う資格すらない。手を汚すっていうのは、そういうことよ」

 その通りだ。わたしはもう、千夏ちゃんには会えない。心ががらがらと崩れ落ちていく。いくら人の命を嬉々として奪う両親だったからって、わたしの親だった。殺していいはずがない。

 でも、会いたい。千夏ちゃんに。

「——だけど、ひとつだけ。オマエが橘と会える方法があるわ」

「……え?」

「オマエの罪、アタシが全部消してあげる」

 太い指でわたしの涙をぬぐって、オチカは微笑む。そのとき、初めてオチカの瞳の色を見た。

 深い空の色。ターコイズブルー。なんの曇りもない、澄きとおるような青。

「アタシの部下たちにかかれば死体のひとつやふたつ、綺麗さっぱり消せる。パパは警察ともヤクザとも繋がってるし、オマエが森重明と森風子を殺ったこと、ウチに来れば一生隠してあげられるわ。アタシの傍にいれば、オマエをずっと守ってあげられるの」

 この女は間違いなく悪魔なのだろう。罪の意識にさいなまれるわたしの弱みにつけ込んで、心も身体も支配しようとしている。

 しかし無力で弱い子供のわたしは、それに打ち勝つすべがない。悪魔がこれ見よがしに垂らしてくる甘い蜜を無視できるほど、わたしは社会を知らないのだ。

「だからお願い、シュクコ。アタシの友達になってくれる?」

 甘い、甘い蜜を、すくって、食べる。

 わたしは頷いた。数ミリ程度しか動かない、弱々しい肯定だっただろうに、オチカは「やった!」と大げさなくらいに顔をほころばせ、ぎゅううと抱きしめてきた。

「大好き、シュクコ!」

 だいすき。わたしは心の中でくり返しつぶやいた。だいすき、だいすき、だいすき。なんてむなしく、さみしい言葉だろう。オチカのあたたかい胸に包まれたところで、わたしの冷えきった身体はぬるくもならない。

「本橋落下。落ちるのオチカよ」

「……森育子。『すくこ』だから、シュクコ」

「今日から友達よ、アタシたち!楽しみね、シュクコ!」

 わたしたちは両手をつないで、喜びのままぶんぶんと振り回す。太陽が沈み、空に近いわたしたちを月が照らすまでそれは続いた。

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