監獄の秘密の場所

@karanosara

第1話

 トントン……トントン……

 機械のように規則的に、というよりは脈動のようにリズミカルに、杖が石の床を叩く音が耳朶をノックする。

 壁に添えた左手に伝わる、ザラザラとした表面の冷たく少し湿った感触。

 滞留する冷たく湿った空気の中には、意外にもカビやホコリの匂いは混じっていない。

 立ち止まって耳を澄ますと、僕の背丈の倍ほどの高さから外の音が聞こえる。

 僕は壁から手を離し、歩数を数えながら壁から離れていく。左手を軽く挙げて、肌に感じる温度に注意を払う。

 やがて手の甲に僅かな温もりを感じる。振り返り顔を上げると、顔にも温かさを感じた。

 陽光が差し込んでいるのだ。

 僕はしばらくの間その場に立ち尽くし、外の温かさを感じていた。

 外の昼はどんな感じなのだろう。

 この温かさを、全身で感じられるのだろうか。

 

 静かだ。

 随分遠くに来てしまったのかもしれない。

 この監獄には誰も寄りつかない区画がたくさんある。囚人も看守たちも生活に必要なだけの区画に固まって暮らしていて、滅多に他の場所に行こうとはしない。だから少し歩けばこんな風に静かな場所に辿り着ける。

 みんな諦めているのだ。囚人も、看守も。誰もどこかに行けるなんて思っていないから、看守でさえ囚人がどこへ行こうと気にも留めない。

 どこだろうと『ここ』でしかないからだ。

 ここでないどこかなんてどこにもないと諦めている。

 一歩、特に理由もなく足を動かすと、つま先が何かを蹴った。それほど重くはない。

 僕はしゃがみ込んで床の上を手探りする。指先に、石とは違う手触りのものが触れた。

 両手で形を探ると、それは厚い板のような形をした紙の束だった。

「本だ」僕は思わず声に出していた。「すごい、図書室のものじゃない本だ」

 僕高揚する気持ちを抑えながら本の頁をめくった。頁の左上から横に指を這わせてみる。紙の上をなぞる指先の感覚に集中する。

「すごい、何か書いてあるのがわかる」

 紙の上のインクを、僕の指はきちんと感じることができた。

「やった。これで文字を勉強することができる」

 僕はその本を抱き抱えて立ち上がると、急いで帰り始めた。

 トントン……トントン……トントン

 窓から差す陽光に別れを告げ、冷たく湿った壁のもとへと歩いていく。杖の先が壁に当たる。壁への距離は予想していた歩数とぴったりだった。同じ歩幅で歩く練習は確かに身を結んでいるようだ。

 壁に手をついたままの姿勢で、歩き出す前に帰り道を頭の中に思い浮かべる。

 五歩、五歩、部屋を出る。右一五歩で四つ角。直進三十で左に曲がるので左側の壁に移動。三歩で木の扉。開かなかった。七歩で次の部屋……

 壁の感触、歩数、杖が床を叩いた音の反響具合を思い出して遡りながら、自分の部屋への道を歩く。

 木の靴や蹄が石の床を踏む音や静かな話し声などが聞こえてくると、自分はちゃんと今日歩いた道のりを記憶できていたことを確かめられて安心した。

 僕は他の囚人たちがいる場所に出る前に本を服の中に隠した。

 木の扉を開けて食堂に入ると、近くの数人から聞こえる音が一瞬止み、すぐにまた元に戻った。誰が入ってきたのかとこちらに目を向け、僕だとわかって興味をなくしたのだろう。

 誰も並べ直したりしないから乱雑に置かれているテーブルや椅子にぶつからないよう、部屋の壁際を通って厨房の方へと向かう。

 聞こえてくる話し声の感じから、誰も僕を気にかけていないことがわかる。僕がすぐそばを通っても声の調子が下がったり言葉が澱んだりしない。

 だけどこれは僕に限ったことじゃない。みんな、いつも話をしている数人以外はいないも同然なのだ。多くの他人を気にかける気力はもうないけれど、誰にも気に留められない孤独には耐えられない。だから数人の仲間同士で互いを認め合って生きている。

 厨房のカウンターにつくと、厨房内から聞こえる音で彼がいることを確かめてから声をかけた。

「こんにちは」

 僕の声に厨房内のケムトルが反応したのがわかる。足音が近づいてくる。迷いなくほぼ一定のリズムと歩幅で歩く彼の足音は聞いていて心地良かった。しかし、血と獣の匂いが鼻に触れ、無意識にスンと一度鼻を鳴らすと、彼の歩幅がぎこちなく短くなり、そこで止まった。蹄が床を擦る音がした。

「お前か」ザラザラとした唸るような低い声で彼は言った。「食事か」

「はい」

「待ってろ」踵を返しケムトルの足音が厨房の奥へと離れていく。歩幅は変わらなかったが、速さは少し速くなっていた。

 戻ってきたケムトルはカウンターの上に弁当箱と水筒を置いた。僕にわかりやすいよう、ドンと音を立てて。

「あの……」僕は指先で弁当箱の表面を探り引き寄せながら言った。「僕は何か、あなたの気に触ることをしてしまいましたか?」

「どうしてそう思う」

「なんとなくそんな気がして」ぎこちなく短くなった歩幅のことは話さず僕は答えた。

「お前のような、弁当一つ受け取るにも手探りでモタモタしてる奴が、俺になにができるつもりだ」

 言葉ほどにはケムトルの声には怒りや苛立ちはこもっていないように感じた。

「さっさと部屋に戻れ。他の連中はお前を避けちゃくれない。面倒はごめんだ」

「はい」

 僕はこの話をこれ以上続けても無駄だろうと考えて、素直に頷いた。ケムトルはそれを聞いてフンと鼻を鳴らして厨房の奥へと帰っていった。厨房には彼の他に誰の気配もなかった。

 

 監獄棟はまだ静かだった。他の囚人たちは食堂や図書室などにいて、残っているのは誰とも会いたくない気分だったり眠っているものだけだ。

 僕は自分の房を扉の傷で確かめて、小さく開けた扉の隙間に滑り込むようにして中へ入った。

 杖でテーブルの位置を確かめてから、弁当と水筒をその上に置いた。膝の裏が寝台に当たると、手をついてそのまま座った。

「それで」僕は杖を脇に置かず両脚で挟んで言った。「なにか用?」

「なんだ気づいてたのか」息を殺していたイギーが溜息混じりに言った。「つまんねーの」

「こっそり忍び込みたいならせめてテーブルの位置くらい動かさないようにしないとね」

 本当は抑えた呼吸や微かな身じろぎの音でもわかっていたのだけれど、それを教えてやる必要はない。

「ふん」イギーは僕から距離をとって寝台に腰を下ろした。「どこに行ってたんだ?」

「別に」僕はイギーの匂いから鼻を遠ざけるように首をよじりながら言った。「その辺を歩いてただけだよ」

「誰もそんなことはしない」イギーの匂いが近くなった。寝台が軋む音がした。イギーが身を寄せてきたらしい。「みんなここと食堂だけで暮らしてる。扉が開いてたって風が入ってきて寒いって閉めるだけだ。その先を覗いてみようとさえしない」

「図書室に行く人もいるよ。君は行かないだろうけどね」

「お前も行かないだろ」イギーの体温が遠ざかった。体を少し離したようだ。「文字がどんなものかだって、お前は知らないクセに」

「そうだね」

 僕は服の中の本を意識しながら、気取られないよう静かに返事をした。

 僕が何度も図書室に行っていることをイギーはしらない。

 本というのがどういうものなのか見てみたかった。しばらく硬い表紙を撫で回してから、それが開き、中に何百枚もの柔らかい頁を綴じていることを理解した。その紙の表面に「文字」というものがあるらしい。僕はそれが触感でも感じられないかと頁の上を指先でなぞってみた。確かにそこになにか規則的な形を感じられたけれど、近くにいた囚人から「頁が汚れるだろうが、やめろ」と言われた。

 その囚人は僕の手から本を取り上げて言った。

「ここにある物はてめぇには勿体ねぇ。二度と来んな」

 でも、僕は食い下がったが。

「僕は文字が覚えたいんです」

 僕は彼、イシュナックに頼み込み、一枚の木の板をもらった。そこにはイシュナックが文字を刻んでいて、彼の指導の下で僕はそれらの刻まれたものがどういう意味なのかを教わった。

 しかし、覚えたことを実際に本を読むことで試してみることは許されなかった。理由は最初に会った時に彼が言ったこと「頁が汚れるから」だった。

 だから僕は思っていた。一冊だけでいい。好きなだけ触ることができる本があれば、と。

 

「ねぇ、本当に何の用だい?」僕は苛立つ気持ちを隠さずに言った。「君も食堂にでも行けばいい。その方がよほどまともに相手をしてもらえるよ」

 僕の苛立ちに応じるように、イギーも舌打ちをした。

「俺がどこにいようと俺の勝手だろうが。囚人風情が。ここはお前に当てがわれてるだけで、お前の部屋ってわけじゃないんだぜ」

「確かに僕の部屋じゃない」右耳で廊下を歩いてくる足音を聞きながら、僕は言った。「でも君のものでもないし、君に当てがわれた部屋でもない」

 早足で近づいてくる硬い靴音は、もうイギーにも聞こえているだろうか。

「それぞれの囚人は自分にあてがわれた部屋以外の房には入ってはいけない。あの人が言っていただろう? 監内の秩序を守るためだって」

 イギーがぐっと言葉を詰まらせた。足音はもうこの部屋がある廊下にまで来ていた。あの人の足音はイギーでも聞き分けられるはずだ。きっとここの囚人なら誰でもそうだろう。

「早く帰った方がいい。僕は庇わないよ」

「うるせぇっ」

 イギーは吐き捨てて扉の方へ駆け寄った。今外に出れば鉢合わせることになる。どうするのだろうと思っていると、扉に耳を寄せて外の気配を伺っているのか、イギーは急に静かになった。あるいは、覗き窓からの視覚に隠れてやり過ごそうという考えなのかもしれない。

 僕が教えるとは考えないのだろうか。もしかしたら今その可能性に気づいて、必死に口止めしようとしているのかもしれないけれど、音以外で何を訴えられても僕には届かない。

 足音が僕の部屋の前で止まった。

 錆びた蝶番が軋む音がした。覗き窓の蓋を開けて彼、看守のリーモンが中を覗いているのだろう。

「おい」煙草の吸いすぎでガラガラになった声で彼は言った。「何をしている」

「特に何も」と僕は答えた。「食堂で食事をもらってきました。今帰ってきたばかりで、ちょっと休んでいるところです」

 彼はフンと鼻を鳴らし、何の前触れもなく無遠慮に扉を開けた。彼の靴の音が部屋の中に入ってくる。僕はさてどうしようかと思ったが、あくまで他人事だった。

 鼻先に煙草の匂いと生き物の熱を感じる。看守は僕をじっと見ているようだ。

「まぁ、お前には何もできないか」ふぅと吐いた息が顔にかかった。「散歩は自由だ。しかし消灯時間までに自力で帰ってこい。でなければたとえ道に迷っただけだとしてもお前をこの監獄の秩序を乱した罪で罰することになる」

「はい」

 帰れなくなることは、誰もいない区画を歩くときに僕がいつも気をつけていることだ。

「秩序を乱すな。それさえ忘れなければ、後は好きにすればいい」

 鼻先に感じていた温度が消えた。看守が離れたのだろう。

「俺は仕事に戻る。お前は飯を食ったら今日はもう大人しくしていろ」

「お疲れ様です」

 蝶番が軋む音がして、扉が閉まった。看守が歩く度に鍵束のジャラジャラいう音が聞こえるが、彼は部屋の鍵をかけていかなかった。そもそも鍵がかけられている房などここにはない。彼が鍵をジャラつかせているのは、それが看守という特別な地位を表すのに役立つと彼が思っているからだ。

 すべてが弛緩して看守と囚人とがただ役割の異なる共同生活者に過ぎなくなっているこの監獄において、彼の自己主張は滑稽で煙たい。そして彼が自分の滑稽さを内心わかっているであろうことが、多くの囚人たちにとっては余計に滑稽で、いくらかの囚人たちにとっては哀れを催させる。

 だが彼がただの道化であれば、他の看守たちは見逃しただろうが、彼はイギーのような誰からも守ってもらえない者に対しては道化ではなく暴君として振る舞った。彼らが「秩序を乱す行為」をしているのを見つけると、他の者たちに強く言えないことの鬱憤をぶつけるように、彼らを罰するのだ。イギーはだから、表向きは他の囚人たちと同じく彼を馬鹿にしつつも、内心では彼をひどく恐れている。他の囚人たちは、そんなイギーをあの看守と同じくらい滑稽だと思っている。

 「イギー?」

 部屋の中に聞こえる程度の声で僕は呼びかけた。看守が僕の部屋の中でイギーを見つけなかった以上、上手く逃げられたらしい。おそらく、彼が入ってきた時に扉の裏に隠れて、僕らが話をしている間にこっそり抜け出したのだろう。

 

 その日はリーモンに言われたからではないが部屋で大人しくしていた。手に入れた本に指を這わせ、そこに書かれていることを読み取ろうとしていたのだ。

 嬉しいことに、それはインクをたっぷり使った手書きの本、日記だったので、僕の指先には紙とインクの凹凸がそれほど苦労せずとも読み取れた。

 それは僕のように監獄内を探検していた者の日記だった。この日記の著者は、探検で見たことをすべてここに書いていたらしい。

 ほとんどは僕と同じ、無人の、誰も使っていないだけで僕らが普段使っているのと変わらない監獄の様子を書いているだけだったが、一つだけ僕が知らない場所の記述があった。日記の著者は、そこを『秘密の場所』と読んでいた。他の場所については詳細にその様子を書き残しているのに、『秘密の場所』については道順だけで、どんな場所なのか一切書いていなかった。ただ、『秘密の場所』について書かれた頁周辺を読んでいると、この日記の著者は目的もなく監獄内を歩いていたのではなく、ここから出ようとしていたらしい。『自由になる』とこの人は言っていた。

 

 夜の点呼の時間になった。

 リーモンがやって来て、一つ一つの房の覗き窓から中の住人がいることを確認して回る。それ自体は鬱陶しいが特になんということもない行為だったが。

「おい」リーモンが僕の部屋にやって来た。「お前の名前は?」

 彼は房を一つ一つ訪ねて回っては、毎晩囚人たちに名前を尋ねていた。

「……イミナです」

 僕が答えると、リーモンは特に何も言わずに覗き窓を閉め、次の房へと移っていった。

 彼は滑稽な人だ。

 僕が毎日デタラメな名前を答えているのに、気がつかないのだから。

 

 翌日、僕は日記に書かれた『秘密の場所』に行こうと廊下を歩いていた。

「おい」不意に肩を指先で軽く叩かれた。「また出かけるのか」

「……ケムトル?」

 廊下で声をかけられることも、ケムトルと食堂以外で会うことも珍しい。

「ああ、うん」僕は少し、なんと答えようか迷った。「どうせ他にやることもないし」

「他の連中と話してればいいだろう。みんなそうしてる」

「そうだね。でも、僕には友達がいないんだ」

「作ればいい。他の連中はそうした」ケムトルの声がいつもより更に低くなる。「できなかった奴らは、『牧場』に行った」

 お前もそうなりたいのか、と言っているのだろう。

「友達がいないと駄目なの?」僕はすぐに問いを返した。「友達を持つことだけが名前を忘れない方法なのかな」

 ケムトルは返事をするまでに少し間を置いた。僕の質問について考えたというより、僕にその答えを言っていいものか悩んだのだろう。

「いつも図書室にいるあの男なら、『牧場』に行くことはないだろう」

 イシュナックのことだ。なるほど確かに彼は忘却とは無縁だろう。そして、ケムトルは彼と同じことは僕には無理だと思ったから、言うべきか悩んだのだろう。

「でも、彼が本で大丈夫になってるように、僕も別のことで大丈夫になれるんじゃないかな」

「この監獄内をあてもなくうろつくことでか?」ケムトルは溜息をついた。厨房で嗅いだ血の匂いは薄れていたが、獣の匂いは変わっていなかった。「そんなことをしても意味はないんだ」

「どうして?」

「誰もやってないだろう。囚人はもちろん、俺たち看守だって。あのリーモンも巡回するのは食堂、図書室、監房の周辺だけだ」

「『牧場』は?」

「……あいつは『牧場』には近寄らない。あいつに限らず好き好んで行く奴はいない。お前だってそうだろう。俺は仕事で行ってるが、お前をあっちの方で見かけたことはない」

 確かにそうだ。この監獄にいて、『牧場』が怖くない者などいるだろうか。

「リーモンさんも友達はいなさそうだね」僕は話を逸らした。そして言ってからすぐに、嫌なことを言った自分が嫌いになった。「いや、ごめん」

「あいつも、這いあがろうとしているんだ」諭すようにケムトルは言った。「全部が曖昧なこの場所で、名前以外なにもない俺たちがなれるのは、自分に与えられた役割だけだ」

 だから囚人に対して秩序を守るように言う。その秩序とはこの監獄に必要なものではなく、結局のところ彼が寄って立つ土台でしかないのだろう。だから彼は僕ら囚人にとって横柄で滑稽な存在でしかないのだ。

「どんなに上手くいかなさそうに見えても、彼も這いあがろうとしてるのなら、僕もそうしてはいけない?」

 確かに食堂に集まっておしゃべりしたりカードで遊んだりしている囚人たちは友達をつくることで忘却を免れている。でも彼らは『牧場』に行かないだけで、『這いあがれている』わけじゃない。回避策であって解決策じゃない。

「……俺の名前を覚えてるのは、お前だけだ」

「え?」

「お前がいなくなったら、きっと俺は『牧場』行きだろう」

「そんな、だってケムトルは厨房を一人で切り盛りしてるじゃないか。みんなに必要とされてる」

「前はもっといたんだ」ケムトルは僕の言葉を予期していたようで、すぐに応えた。「俺ももう名前を思い出せないが……いや、ひょっとしたら俺がそいつらの名前を覚えてたことなんてなかったのかもしれないが、確かにもっと他に厨房にいたんだ」

 ケムトルの息遣いが荒くなった。

「毎日食堂に来る奴らに食事を出すだけの作業が何になる。あいつらは出される飯をただ食うだけだ。それこそ『牧場』の家畜と同じように。そしてそんな奴らに飯を作ってる俺も『牧場』行きになった連中となにも変わらない。あいつらはあそこで家畜や畑の世話をして、俺はそこで採れたものを料理してるだけの違いだ」

 ケムトルはそこまで一気に捲し立てると溜息をついた。

「だから俺にはリーモンのように自分の役割で自分を保とうなんて考えることはできない。実際、そんなことできなかった奴らを知ってるんだしな。……だから、お前がいなくなったら俺は自分の名前を忘れちまうだろう」

 僕はなんと言えばいいのかわからなかった。けれど、それでも自分のやろうとしていることを止めることはできないことだけはわかっていた。

「ごめん。僕にはここで曖昧に生き続けることはできない。そんなことをしようとすれば、僕こそ『牧場』行きだ」

「そんなわけ……」

「君は僕の名前を覚えてるかい?」

 その瞬間、ケムトルの時間が止まった。呼吸や衣擦れの音が消え、ただ体温だけがそこに彼がいることを伝えている。

「だから、ごめんね」

 僕はそう言ってケムトルに背中を向けた。

「今教えてくれ! そうすれば、俺が覚えててやれる!」

 ケムトルは叫んだ。僕は申し訳なく思いながら、彼にとって追い打ちになることを言った。

「実の所、僕は自分の名前を知らないんだ」

「そんな……」ケムトルは打ちのめされたように力無く呟いた。「でも、お前はまともに見えるぞ。それにリーモンの点呼をどうやってやり過ごしてる?」

「リーモンには毎日嘘の名前を答えてる。でも彼がそれに気づいたことはないね」

 誰も僕の名前を知らないし、覚えておくこともできないのだから、リーモンは毎日僕に違う名前を告げられていても、それが昨日と違う名前だとすら気づけない。

 ケムトルは獣のいななきのような嗚咽を漏らした。

「それじゃあ、俺からお前にしてやれることはないのか。それじゃあ本当に……俺は『牧場』の連中と変わらない。こんな所で二本足で立ってないで、家畜でいるのがお似合いだ」

「そんなことないよ、ケムトル」僕は振り返って、嗚咽の聞こえる方へと手を伸ばし歩み寄った。「君が僕のために部屋に持ち帰れる形で食事を用意してくれていることに、僕はいつも感謝してる。君だけがそんな風に僕を気にかけてくれてるんだ」

 差し伸べた手に、体毛で覆われた肌が触れる。ケムトルがギクリと震えるのがわかった。

「大丈夫」僕は彼が身を引くよりも先に言った。「知ってたよ」

 この監獄で、囚人と看守の関係は意味がない。囚人同様、看守も『牧場』に行く可能性がある以上、彼らもまた囚人なのだ。それでもまだ囚人と看守を分けるものはある。

「俺の姿を見ることがないお前なら、俺を人間として扱ってくれるんじゃないかと思ってた」

「僕にはそういう区別はないよ。君は僕に優しくしてくれてる。他の囚人たちとはこんな風に話せない」

 こうして誰かの顔に触れたのは、記憶にある限りでは初めてだった。


 僕がもう行こうとすると、ケムトルは糸のように細くて丈夫な長い長い縄をくれた。彼はそれを僕の体に斜めにかけてくれた。

「一方の端をどこかのドアノブにでも結んでおけ。そうすれば縄を辿って迷わずに帰って来れる」

 確かにこれなら僕でも辿っていける。

「ありがとう」

「いや、お前の名前を覚えておいてやれない俺にできるのはこれくらいだ」

「そんなことない。本当に助かるよ」

 僕はケムトルの縄を持って誰もいない監獄の探検に向かった。

 

 僕以外誰も寄りつかない区画まできた所で、ケムトルからもらった縄を近くのドアノブに結びつけた。何度か引っ張ってみて、結びが解けたりドアノブが壊れたりしないことを確かめた。


 本に書かれた道順を辿るには、ただ書いてある通りにとはいかなかった。

 僕と違い、この本を書いた人は目で見たものを基準に道順を認識していて、彼が言っているものが僕にはわからないということがよくあった。だから昨日の晩に本の白紙の頁に僕用に言い換えた道順を書いておいた。これがとても役に立ち、僕は心配していたよりもずっと早く道を辿ることができた。

 

 本に書かれた秘密の場所に着いた。

 そこは、日の当たる場所だった。

 そこには窓で切り取られたものではない、本物の太陽の光があった。目で感じられなくとも、全身でそれがわかった。

 一歩踏み出すと、石の床とは違う柔らかい感触があった。しゃがんで手で触れてみると、薄かったり細かったりする柔らかいものが、たくさんの粒が積み重なった地面から生えていた。どちらも、こんなに日が差しているのに湿っていた。

 僕は立ち上がり、前へと足を踏み出した……

 

 その日の夜、点呼の時間にあの盲目の少年が戻ってきていないことに、看守のリーモンが気づいた。彼はすぐに他の看守も集めて捜索しようとしたが、彼の言う「秩序」に関心を持つ看守はおらず、呼びかけに応えたのは厨房係のケムトルだけだった。

 夜、二人だけでの捜索は自分たちも危険だからと、捜索は翌日からということになった。

 翌日、リーモンは少年の部屋へ行き、彼があれから戻っていないことを確認し、他の囚人たちに彼を見なかったか聞き込みをした。なんの収穫もなかった。

 ケムトルとリーモンは捜索を開始してすぐに、ドアノブに結びつけられた細い縄を発見した。

「これは俺があいつに持たせたものだ」ケムトルは縄を掴んでリーモンの方へ振り返った。「これを辿っていけば、あいつの所に行けるはずだ」

 縄を掴んで歩き出した二人は、やがて建物に囲まれどこにも通じていない小さな中庭に辿り着いた。

 二人とも、窓に切り取られたものでない外の光を浴びるのは初めてだった。眩しさに目を細め、顔の上に手をかざす二人の目の前に、ぽつんと一本だけ木が立っていた。

 この中庭にあるのはそれだけだった。人が植えたような花はなく、草花は雑多に好き放題生い茂り、その中で孤独に、どこか腰を曲げた老人のような形で伸びた木が一本、そこにあるだけだった。

 二人はその木の枝に、自分たちが辿ってきた縄が結びつけられているのに気づいた。まるで見つけてくれと言わんばかりに、大きく羽を広げた蝶々結びに結えてあった。

 二人は上を見上げた。暗い天井の代わりに、見たことのない青い空があった。しかし、目を地上に戻せばここは四方を監獄の建物に囲われた行き止まりでしかない。

 あの少年はどこに行ってしまったのか。

 そして、なぜこの木に縄を結びつけていったのだろうか。

 未だ囚われたままの監獄の住人たちには、ただ青い空と一本の木だけが残されていた。

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