第3話 信じられると、ようやく思えたのに…… その8

 元々自分は、そんなに車酔いをする方ではなかったから、エチケット袋になりそうなものは持っていない。次のパーキングエリアでトイレ休憩することは、すでに打ち合わせ済みだったが、まだ時間がかかる。

 ちら、と樹さんの顔を見る。高速道路ということもあり、集中してハンドルを握り、前を見つめている樹さんを、かっこいいと思うゆとりすら私の中には無くなっていた。

 あまりの辛さに、涙が溢れてくる。

 こんな不細工な顔、樹さんには見せたくない。私は窓側に顔を向け、目を閉じ、どうにかパーキングエリアまで眠ることができないかも試してみたが、車の振動がより一層体内に響いてしまい、私の胃を刺激してくる。

 このままでは、高そうな車内のシートを汚してしまう。まだ、恥をかく覚悟でトイレに連れて行ってもらうようにお願いした方が良いかもしれない。

「あの、樹さん……」

 意を決して、私が樹さんに声をかけた、ちょうどその時。

 樹さんは、ナビの指示とは違う道に入り、そのまま高速を降りてしまった。


 その理由は、ほんの1〜2分以内に到着したコンビニの駐車場に樹さんが車を停めてから

「行っておいで」

 と声をかけてくれた時に、ようやく分かった。

 あと数分でも遅れていたら、樹さんの車で大惨事を起こすところだったと思うと……ゾッとする。

 コンビニでトイレを借りて、色々とスッキリさせてから、私は物色していた。

さすがにそのまま出ていくのも忍びなかったので、飲み物をいくつか多めに買おうと思ったから。

 もちろん、飲み物くらいでお礼になるとは思わない。できるなら、水族館代も払わせてもらうようにお願いしよう。そう考えながら、助手席の扉を開けた。

「申し訳ありませんでした!」

 お茶を樹さんに渡そうとしたけど、樹さんはそのお茶を受け取ってはくれなかった。

「え?」

 代わりに運転席から私の手首を掴んだ。

「早く座って」

 そう言った樹さんの声に、ほんの少し険しさが混じっていたのが、少し怖かった。

  予定を狂わせたことで、怒らせてしまったのかもしれない。

「ごめんなさい!」

 私は急いで助手席に座り、もう1度必死に謝った。すると、樹さんは急に、私に覆い被さってきた。

 樹さんの顔が、キスをする程近くなった。数回程、キスをしているとは言え、正直樹さんの顔を至近距離で真っ正面から見るのは、慣れていない。

 私は恥ずかしくなり、ぎゅっと目を瞑る。樹さんの、爽やかな匂いがどんどん近づいてくる。

 体が重なるのかと思って身構えていると、ガクンっとシートの背もたれが倒された。

「え?」

 驚いて目を開けると、樹さんと目が合ってしまった。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、イマイチ感情が掴みきれない表情を樹さんは浮かべていた。

「あの……?」

 私が起きあがろうとすると、すかさず樹さんが私の体を押さえつけながらこう言った。

「そのまま寝てて」

 それから、樹さんはナビに目的地の入力を始めた。表示された文字は、行くはずだった水族館の名前ではなかった。

「樹……さん?どこに行こうとしてるんですか?」

 私が聞いても、樹さんは返事せずに運転を始めてしまった。今度の運転は、全く揺れを感じなかったので、私は心地よくなり、眠ってしまった。


目が覚めると、鼻にツンとくる保健室のような臭いがした。

 それから、自分が仰向けで寝かされていることもすぐに分かった。

 周囲を見渡すと、真っ白い壁に天井、カーテン、そして明らかに病院の診察室だと分かる、PCモニターや医療器具が置かれたデスクがあった。

 状況を把握するために体を起こそうとした時、腕に違和感があった。見てみると、右腕が点滴に繋がれていた。

 一体、自分に何が起きているのか。ぽたぽたと落ちていく点滴の雫を見ながら、軽くパニックになっていると、知らない男性の声がした。

「あー……目、覚めたんすね」

 カーテン裏から、白いシャツとズボンがよく似合う、清潔感のある見知らぬ男の子が顔を出した。

 年齢は20代くらいだろうか。

 ネームプレートには吉川悠太、看護師、氷室診療所という文字が綺麗に並べられていた。

「気分どうっすか?」

 そう言われて、自分がついさっきまで吐き気と格闘していたことを思い出した。でも、それは樹さんの車の中だった。

「あの……」

「何すか?」

「私と一緒に、男の人がいたはず……ですが……」

 ふと、ここで嫌なことを考えた。今日までの樹さんとの記憶は全部夢で、樹さんという人間は存在していなかったのでは?

 全部私が、ここで見ていた夢だったとしたら?

 樹さんがいない世界が、私の正しい世界だったとして、私はその世界に戻ることができるのだろうか。

「男の……人……?」

 吉川さんが、不思議そうな表情を浮かべて考え込んだので

「あ、いえ、大丈夫です!」

 私に彼氏がいるなんて、私の妄想が見せた夢だったんだ……!そんな妄想に、看護師の方に付き合わせるのは申し訳ない!

「すみません私、夢を見ていたみたいで」

 大声を出した時、またくらっと目眩がして、目頭を抑えた。

「大声を出さないでください。貧血の症状あるんで」

「貧血……?」

「そうです。血圧も低いし」

「え?そんな事あるんですか?」

「……はい?」

「だって私……デブだし……」

「ああ……はいはい、そう言うことですか」

 この説明で、看護師さんは納得してくれたらしかった。

「それで私は……何でここに……」

 私がそう尋ねる間、吉川さんはじっと、私の全身を観察している。動物園のパンダの気持ちはこんな感じなのだろうか……とふざけたことを私が考えた時、吉川さんから爆弾のような一言が投げ込まれた。

「あんたが氷室先生を落とした女?」

「……へ?」

 今、吉川さんは氷室先生と言った。氷室先生とは、私が知っている氷室樹さんのことだろうか。混乱のせいもあるのか、私の頭はうまく回ってくれない。

「とりあえず先生、呼んでくるんで」

 吉川さんがカーテンの向こう側に消えようとした。

「ま、待ってください!」

 私は急いで呼び止めた。

「どうしました?」

「あの……私……男の人と一緒にいました……?」

「男の人……?」

 吉川さんが、また何か考え込む。それから、ほんの10秒程してから

「もしかして……氷室先生の事言ってた?」

 と、聞いてきた。吉川さんの口角がほんの少し上がってる。

「そ……そうです……けど……」

 すると、吉川さんが急に悪い笑みを浮かべた。

「男の人って言われて、他の人いたっけな……と考えてしまいましたよ」

「何で……?」

「あの人、俺にとっては男の人ってイメージないので」

「……え?」

「面倒な雇い主、なので」

 くすくす笑いながら、私の耳に顔を近づけ、小声で囁いてくるので、私も、釣られて笑ってしまった。

 とにもかくにも。氷室樹という人物は、確かに存在していて、私はその人と一緒にいたらしい。つまり、ここまで起きた事実は、夢などではなかった。それが確認できて、まずは安心できた。

 けれど、そんな安心も、ほんの束の間。

「それにしても、おっかなかったな〜」

「え?」

「先生、めちゃくちゃ怒った顔で、あなた運んできたから」

「……え!?」

「傑作だったわ」

 どういう事でしょうか、と聞こうとした時だった

「何してる?」

 カーテンの向こう側から、樹さんが現れた。先ほどまでの服の上から白衣を身につけていた。

「吉川くん、ちょっと席……外してくれるかな」

「……はーい……」

 美しい顔の人というのは、表情の効果が一般の顔をした人間よりもより効果的に感情を伝えられるらしい。樹さんが放つ怒りの感情が、ダイレクトに伝わってきたので、私は今すぐ正座したい欲が芽生えた。

 何故。樹さんが怒っているのか。心当たりは1つしかない。

「優花」

「申し訳ございませんでした!!」

 私は、樹さんが何かを言う前に勢いよく飛び起きて、全力の土下座をした。

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