第3話 信じられると、ようやく思えたのに…… その7
その日からだった。
会っている時に、私が食べ物をちゃんと食べるかをじっと観察されるだけでなく、平日の会えない時は樹さんからは「ちゃんと食事をとっているか」と確認の連絡が、1日3回入るようになったのは。
好きな人には、少しでもいい姿を見せたい。
そんな私の、ちょっとは取り戻せたなけなしの乙女心が、好きな人=樹さんによって、ことごとく邪魔されてしまう。
幸い、平日の確認はせいぜい文字だけ。最初は罪悪感もあったが、本当は食べてないのに「食べましたよー」とごまかして、平日だけがっつりダイエットをし、土日に備えるという作戦に切り替えることで、どうにか帳尻を合わせることはできた。
その結果、樹さんといる土日にガッツリ食べたとしても、ほんの少しずつではあるが体重を落とすことができた。
そのおかげもあり、樹さんからカフェデート以外を提案された時に、自信を持って「行きます!」とはっきり言うことも、そのために1サイズ小さい新しい服を買えたことが何より嬉しかった。
例え、仕事中頭がぼーっとして仕事に集中できなくなったり、ウォーキング中に目眩で倒れそうになったとしても。
カフェ以外の最初のデート先として、私たちが選んだのは、横浜にある有名な水族館。
好きなテレビドラマに出てきた大きな水槽を、彼氏と見るのが学生時代の夢だった。そんなことを、私が世間話のネタの1つとして樹さんに話したところ「ぜひ行こう」と言ってくれた。
きっと、今までの私だったら、周囲の目を気にして断ったかもしれない。だけど、今は新しい服を着て、少しでも可愛くした姿で樹さんの横を歩いてみたいと思えるようになれた。
そんな自分が、前よりほんの少しだけ……好きだと思えるようになった。
デートの前日は、水だけ飲むダイエットに私は挑んだ。朝から晩まで、ひたすら水だけしか飲まない。最初はできるか不安だったけれど「明日、樹さんどんな顔をしてくれるかな」と考えるだけで、空腹が吹き飛んでいった。
明日樹さんに見せる姿は、今まで樹さんには見せたことがない姿になる予定だった。今まで樹さんの前で履いたことのない、高めのヒールにも挑戦するし、髪のセットも動画で勉強しながら何度も練習した。
今までは、そんなことをしても無駄だと思っていた。私に対してそう思う人も、少なくはないだろう、と。
だけど樹さんは、私が何を話しても肯定してくれる。だから、彼のためならば、前に進みたいと思えたのだ。
彼のためにする努力は、本当に楽しい。こんな自分がいるなんて、知らなかった。
だけど、神様というものは、簡単には私に、完璧な幸せをくれないのだと、当日の朝思い知らされた。
水族館デート当日。
違和感は、朝目が覚めてから始まっていた。
体が、ちっとも動かない。めまいも酷く、何より疲労感がすごく、まるで、1日中フルマラソンでもしていたかのようだった。
横になっていれば、そのうち落ち着くだろうと考えた私は、ベッドの中でスマホの時計と睨めっこし続けた。
刻一刻と、樹さんが家に迎えに来てしまう時間が近づいてくる。めまいは治まってきたが、疲労感は消えない。一方で、冷や汗が身体中から大量に吹き出てくる。後で毛布を洗濯するためにコインランドリーに行かなくてはと思うほど、汗でびっしょりになった頃に、ようやくまともに動けるようになった。
そのタイミングで、タイムリミットはあと30分となっていた。動画を見ながらのマッサージなどを、している余裕はない。せめて汗だけでも流したかったので、急いで浴室へと向かい、シャワーをささっと浴びてから体重を測った。スタートは88キロだったが、もうすぐ70キロ台に突入するところまできた。努力の結果がありありと分かる数字が、辛うじて私の意識を保たせてくれた。
樹さんがインターホンを鳴らす頃には、用意していた洋服をどうにか身につけることだけ「可愛い」
樹さんがドアを開けて早々、抱きしめてくれたので、朝イチの苦労が報われた気がした。疲労感だけはいくらシャワーを浴びても、新しい服に身を包んだとしても、消えはしなかったのだが。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
樹さんは、私を助手席に座らせてから慣れた手つきでエンジンをかける。
シートをセットしてからミラーを調整し、サングラスをかけるまでの樹さんの流暢な手つきに、見惚れてしまう。
それからも、運転し続けている間、私は樹さんから目を離すことができなかった。
「優花」
「何ですか?」
樹さんは、左手で私の手を軽く掴んでから、恥ずかしそうにこう言ってきた。
「そんなに見られると、穴が空くよ」
そのセリフは、そのままそっくりお返しします、と言いたかった。
樹さんは運転中ということもあり、顔こそこちらに向けなかったが、私の手を丁寧に撫でてくる。緊張もあるのか、私の手のひらから、手汗がどんどん出てくるのが分かる。
樹さんに嫌がられる前に、手を離して欲しいと思った。だけど一方で、樹さんのひんやりした手があまりにも気持ち良くて、このまま触れていて欲しいとも、思ってしまっていた。
こんなこと考えてるなんて、樹さんに知られたら嫌われないだろうか。そんな事を思いながら、横の窓に視線を向けてみた。いつの間にか、高速に入っており、景色の流れがどんどん速くなっていくのが分かった。
あ、速いな。スピードを意識してしまったからだろうか。急に胸のあたりがムカムカし始めた。
それから数分も経たないうちに、あっという間に吐き気に襲われた。
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