第2話 初めて選びたいと思ったのは、君だけだった その2

 俺が小さなクリニックを開業したのは、ほんの数年前。

 駅から徒歩30分という、アクセスが悪い場所にある一軒家を購入し、室内を全面改装して創った。

 建物自体は古いが、日当たりがとても良い。穏やかな時が、過ごせるような気がした。そしてその予感は当たっていた。

 毎日、このクリニックを訪れる人を受け入れ、求められることだけをこなす。淡々と、何度も繰り返す。ぬるま湯に浸かった時のような、中途半端な心地よさだけが、今俺をこの世界に、上手に留めてくれている。

 俺が選ぶことは、もうしない。

 俺は、ただ求められたら答えればいい。

 それが、俺の人生の軸になっていた。

「うわーん」

「大人しくしなさい!」

 運命が動く日の午前中も、いつものように診察をしていた。

 最初の患者は女児。まだ小学校には入学していない。喉が痛がっていると、女児ではなく母親が訴えていた。

「はい、口開けて。あーん」

「やだー!!!」

 ジタバタと全身全霊で拒絶されてしまい、俺には手がつけられなかった。このままだと時間が無駄に過ぎていく。どうするべきか。

「こんにちはー」

 明らかに子供受けがいい、アニメキャラクターのぬいぐるみを持った看護師、吉川悠太が奥から顔を出してくれた。命拾いをしたと、思った。女児が落ち着きを取り戻してくれたから。

 吉川くんは、看護師としてのスキルも優秀。患者……特に子供が気分を害して診察を受け入れてくれない時には、こうしてムードメーカー気質を発揮してくれ、今では非常に頼もしい相棒として、クリニックを支えてくれている。彼がいなければ、俺はどうなっていたことか。そう思ったのは1度や2度ではなかった。

 午前診療をどうにか終えて、休憩室に入った時、すでに吉川くんが菓子パンをかじっていた。

「先生」

「何だ」

「もちろん、気づきましたよね?」

「何が?」

「さっきの泣いてた女の子、風邪じゃないですよね」

「…………そうだな」


 あの女児は、喉の腫れもなく、熱もなかった。

「また来ちゃいましたね。先生目当てで、わざと子供を病気にしたててくる患者」

「そうとは限らないだろう」

「うがい薬しか出さなかったじゃないですか」

「必要ないと、判断しただけだ」

「ほんと、モテる男って大変っすね。俺もそんな思いしてみたいっす」

 俺は、吉川くんの話を聞き流しながら、白衣を脱ぎ、外出の準備を始めた。

「先生、この後外出でしたっけ」

「知り合いに呼ばれてな」

「分かりました、鍵、閉めておきます」

「頼む」

 日曜日は、午後診療はない。いつもならば、医学の勉強のために時間を使うようにしているのだが、今日は知り合いから急な訪問診療を頼まれていた。

「先生さーなんで独身なんですか?」

 出かける直前に、菓子パンをほとんど食べ終わった吉川くんにこう声をかけられた。

「色々思うところもあると思いますが、やっぱり先生、結婚しておいた方がいいんじゃないっすかね?」

 何故いきなり吉川くんがそんなことを言ったのかは、理解できなかった。

「心に留めておく」

 

 それはついさっき。午前診療が終わった直後のこと。プライベート用のスマホの電源を入れた途端、音声通話の着信が入った。

 相手は、高校時代にクラスメイトだった、橘克也。当時はそこまで親しくなかったが、ある時を境に、頻繁に連絡をしてくるようになった。TVのプロデューサーをしている橘は、医療バラエティー番組の解説役として、テレビ出演の依頼をしてくる。何度もしつこく

 断りたいと、何度思ったことか。だが橘は、俺が決して断れない方法を使う。ただ、静かに暮らしたいだけの俺を引っ張り出すために。

『氷室?俺だけど』

「今度は何だ」

『あからさまに嫌そうな声出すなよー。傷つくだろぉ?』

「悪いが、テレビは断る」

『そんなこと言うなよ。お前が出ないと、視聴率下がっちまう』

「俺には関係ない」

『なあ、頼むよぉ、俺とお前の仲だろぉ?』

 何が仲だ。半ば脅しのように引っ張り出したのは、誰だ。俺の過去を使って。

「切るぞ」

『待て待て。要件まだ言ってねえぇ』

「早く言え」

『実はよぉ、俺のダチでイベント会社経営してる奴がいんのよ。そいつが今朝から具合悪りぃみたいでよ。お前、様子見てやってくれねえか。自分で病院にも行けねえほど、辛いらしいんだ』

「救急車を呼べば良いだろう」

『お前が1番、それが無駄だって分かってるだろ?』

「誰か、付き添いできる人間はいないのか」

『みーんな知り合いは出払っちまったってさ』

「じゃあお前が行けよ」

『バカお前、俺はずっと局に缶詰だ。わかってんだろ。暇じゃねえんだ』

 橘が忙しいのは、嘘ではないだろう。

「場所はどこだ」

『お、やっぱりお前は話が分かるな。助かる』

 橘は、目的地の住所だけを言うと、スパッと電話を切ってしまった。その場所は、六本木のタワーマンション。嫌な予感はした。だが、ここで俺が行かないという選択をして、万が一の事があれば、悔やむことになる。

 結果的に見れば、俺は橘に騙されて、婚活の会場にと足を運んだ形になってしまったが、今回だけは橘に感謝をした。

 もし彼に騙されなければ、俺は優花という、失いたくないと初めて想った女性と、出会うことはなかっただろうから。

 「暑いな……」

 外に出ただけで分かる真夏の太陽の凶暴さが、容赦なく俺に襲い掛かる。こういう日に、健康だと思っていた人があっという間に死地へと旅立つ場面をよく見かける。それくらい、熱中症や熱射病は恐ろしい病気であることを、まだ知らない人がどれだけいるのだろうかと、時々嘆きたくもなる。

 人体は汗をかくことで熱を外に逃し、安全な生命活動のための体温を維持しているが、太陽が発する熱を浴び続けると、あっという間に死を引き起こす40度というラインに突入する。特に脳や肝臓、心肺は熱に弱い。ショック状態や、多臓器不全で運ばれた患者も数知れず。

 きっと今頃、救命の現場ではこのような患者がたくさん運ばれているのかもしれない。

 そんなことを、ふと思い出してしまいながら、目的地である六本木のタワーマンションに到着した俺は、まさしくその病で倒れそうになっている女性を入口で見つけてしまった。

 何故、あんなところで1人立っているのだろうか。早くエントランスに入れば良いのに。

 事情があったかもしれないが、事は一刻を争うことは俺の経験上すぐ分かった。

「中に入りなさい、熱中症になりますよ」と、その女性に声をかけようとしたが、その瞬間女性の体がぐらりと揺れた。

 俺は急いで女性の背後に回り、仰向けに倒れそうになった女性の体をどうにか受け止めることに成功した。

 女性は振り向いて俺の目を見た。きょとんとした、アザラシのような目だった。可愛いと、思ってしまった。

 それから女性の髪から漂う、ほんのり甘くて優しい香りが鼻をくすぐってきた。心臓がとくんと跳ねた。

 この身体現象の理由を、この時の俺はまだ知らなかった。

 そして、この女性こそが俺の運命の女性になる、森山優花だった。




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