遁走ヒーロー

結城濤子

新ヒーロー誕生?

1

「○○地区に怪獣出現、住民の皆様は直ちに避難してください。繰り返します―」

サイレンが唸り、アナウンスが響く。喧騒をバッグミュージックに防護服を身に纏う。そして、それが判らぬようオーバーサイズの服に袖を通し、メガネを模したモニターを装着する。

「こちら塩谷、準備できました。どうぞ。」


塩谷が避難補助員の職に就いたのはつい3か月前だ。

避難補助員といういかにも事務職的な響きと裏腹に、この仕事は命懸けである。なにせ囮なのだから。

いつからだったか、この世界は怪獣が突如として出現するようになった。原因は不明で、生態系の破壊による突然変異ではないか、宇宙からの侵略者ではないか等、多くの説が飛び交っている。

一口に怪獣と言っても、恐竜、宇宙人、妖怪等を想起させるもの、人や動物の形に近いものなど様々である。とはいえ、見た目など存外どうでもよくて、どれも人間の命を簡単に奪ってしまえる危険な生命体である。

 しかし流石というべきか、人類は怪獣に対抗する手段を素早く整えた。身体能力強化スーツや特殊な武器を用いて戦う部隊、いわゆるヒーローが誕生した。今では怪獣の襲来は軽い災害扱いである。

 しかし一般人にとって怪獣が脅威であることに変わりはない。すぐにヒーローが到着するとは限らず、避難所までの道のりで運悪く命を落とすこともあるのだ。

 そこで創設されたのが避難補助員だ。怪獣の注目を一手に引き受けることで一般人が避難しやすいようにする。ヒーローが来るまでの時間稼ぎ、大変単純で大変危険な仕事だ。そのため給料が良い。

そして塩谷は金に困っていた。未来より今が大事な自分には天職ではないかと思い立ち、応募したのだ。断っておくが、塩谷は決していい加減な男ではなく、仕事は真摯に取り組むし、加えて正義漢なのだ。少々お人好しなだけで。

そして今日、研修期間を終え、一人で現場へ向かう初めての日なのだ。


「やあ、塩谷君。ナビゲーションを始めるよ。そうそう、危ないと思ったら本気で逃げるんだよ。」

イヤホン越しに聞こえる朗らかな声はナビ担当の谷岡だ。30代半ばとは思えない若々しい見た目で、塩谷をかわいがってくれている先輩だ。

「はーい。でも、案外その方が注意を引きそうですね。」

「あはは、かもね。さて、まずは怪獣のところへ向かってくれ。場所はモニターに表示するよ。」

 周辺の地図がモニターに映し出され、そこには自分と怪獣の位置が点で表示されている。塩谷はそれを見ながら現場へ向かって走り出した。


「一つ、周囲の状況を把握せよ!」


研修で習った教訓だ。現場へ向かう際、周囲の状況をできる限り記憶するのだ。なぜなら道の広さや建物の密集具合、車や鉄柱、立看板等々、使えそうなものは仕事を達成するのに重要不可欠になってくるからだ。

「工事現場か、ビルでも建つのか?こっちは細い路地、緊急避難できそうだな。」

 工事現場はなかなかに広く、銃器や建築材料が豊富に置いてある。商店街もあり、店同士の間に狭い路地が存在している。簡易的な護身用武器等が搭載された自動販売機も何台か設置されているようだ。

そろそろ現場へ到着するかと思われたとき、甲高い悲鳴が響いた。


「塩谷君!」

「急ぎます!」

全力で道を駆け、交差点へと侵入した。

見ると躓いてこけたのか、路上に座り込んだ若い女性がいた。その視線の先にはティラノサウルスのような怪獣がいた。


「二つ、怪獣のタイプを把握せよ」


 大抵の怪獣は見た目と性能が一致する。今回は肉食獣らしく、目の前の獲物をただ本能のままに追いかけていくタイプだろう。つまり塩谷がこの際取るべき行動は単純明快。

「うわぁあああああああ!怪獣だぁああああああ!」

大声を出してこちらに注意を向ければいい。そうすれば対象は女性から塩谷へと移る。

ちなみに若干裏返り気味の絶叫はリアリティがあって最高だったと、塩谷は心の中で密かに自画自賛した。

 思った通り、怪獣は塩谷の方を向き、唸りながら姿勢を低くして構えた。

 (来る!)

 怪獣とほぼ同時に、塩谷は地面を蹴り走り出した。


「三つ、適宜煽れ!」


 仕事においても最も大事なことは、注目を集めること。現場にいる誰よりも、何よりも。最高の囮に徹するために。

「いいね、しっかり釣られているみたいだよ敵さんは。付かず離れず、だよ、塩谷君。」

 谷岡が怪獣の様子について実況を始めた。接近されたり、離れすぎたりすると知らせてくれるので大変ありがたい。カタカタとキーボードをたたく音が聞こえる。

「周辺の監視カメラ映像を調べた。民間人がいない道を示すから、これらの中でうまく逃げてくれ。」

 言い終わるや否や、地図上の道が淡い桃色に染まる。塩谷はそれを走りながら確認し、注意を引きながら、かつ安全な逃走経路を考える。

 「今回は図体のでかい奴だから2車線以上の道路がいいか。身を守れるものはあったっけなぁ。」

 塩谷は商店街に緊急避難や護身用自動販売機があったことを思い出し、地図を確認した。どうやら逃走経路に含まれているようだ。

「谷岡さん、商店街を中心に逃げます。サポートよろしくお願いします!」

「任せてくれ。民間人の避難は完了したそうだよ。ヒーローの方は到着まで10分程かかるそうだ。頼んだよ。」

「分かりました。」

(さて、と。)

 塩屋は商店街へ向かって走った。



 商店街へ向かった塩谷は、ます自動販売機に近づいた。怪獣が出現した地区の自動販売機は護身用の武器が取り出せるようになる。販売中の飲み物が表示されていた電子版は武器一覧へと変容する。欲しい武器のボタンを押せば取り出し口から出てくるのだ。

 「今回は単純な道具で時間を稼げそうだね。捕獲網なんてどうだろう。きっとそのまま追いかけてきて、網が絡まった末に動きが鈍くなるんじゃないかな?」

 谷岡が提案する。確かに良い案だ。塩谷は捕獲網を入手し、怪獣に向けて放った。

 予想通り怪獣は避けもせずまともに網にかかった。勿論取ることもせず塩谷を追ってくる。やがて手足や首に絡まり動きが鈍った。

 「上手くいったね、そのうち引きちぎられるだろうけど、かなり時間が稼げそうだよ。ただ、分かってはいるだろうが、引きちぎる際に網に注意が行くだろうから、その後、再度怪獣の目を自分に向くよう、アクションするようにね。」

 これが結構難しい。なぜなら同じアクションでは怪獣も飽きてしまうからだ。そして怪獣によって好みもあるようで、反応の示し方も違ってくる。

(俺にできるのは「悲鳴あげる」ことと「怒声をあげる」こと、「馬鹿にする」こと、そして「近づく」ことか。)

塩谷は足の速さに自信がある。だから怪獣に近づいて攻撃を誘発してから逃げる、という芸当が可能である。これは怪獣の好みや興味に関係なく引き付けることができる。しかし一歩間違えれば命を落としかねない危険なアクションだ。武器や道具と組み合わせて安全に行うのが理想だろう。

 しばらく走った後、怪獣が足を止めてブチブチと邪魔な網を引きちぎった。

「さっき悲鳴を上げたし、次は怒鳴って注意を引いてみようか。」

「分かりました。おい!怪獣!どこ見てやがる、こっちだぁ!」

 自由になった怪獣は思い出したように、ゆるりと塩谷の方に顔を向けた。そして、唸り声と共に再び追いかけてきた。

「よし、しばらく走ったところにまた自動販売機があるね。今度は空気砲でも使ってみようか。」

 空気砲は怪獣を倒す威力こそないが、重量のあるやつでも力ずくで後退させることが可能だ。撃てる回数に制限はあるものの上手く使えば結構な時間を稼げる。

 塩屋は素早くそれを入手し、怪獣に撃ち込んだ。空気弾が見事に直撃し、怪獣は強制的に後ろへ下がる。距離を一定に保ちながら、あくまで弱った獲物のように弱々しく少しずつ前へと進む。砲弾は見えない、故に怪獣は目の前の塩谷をまだ獲物だとみている。逃げられないためにも演技は大事だ。

 10発くらい撃ったところで空気砲は力尽きた。怪獣はこちらを訝しんでいるのか、それとも単に疲れたのか、じろりとこちらを見ながら唸るだけだ。

「怪しまれたかな。近くに自動販売機は……戻らないと無いのか、困ったな。」

「谷岡さん、任せてください!」

 塩屋は怪獣へよろよろと近づいていった。怪獣はそれをじっと見て、ゆっくりと構える。そして、塩谷の頭の高さまで怪獣が頭を下げた時、動きが一瞬止まった。

 塩屋が反転して地面を蹴るのと同時に怪獣も牙をぎらつかせ嚙みついた。紙一重で恐ろしい顎は虚空を喰うこととなった。

「あぁもう!塩谷君!危ないことは駄目だって言っているだろう!班長が怒るよそれ。」

「そん時はそん時です!それより、ヒーローはまだですか!」

「はーーー、きっと後で説教だよもう。ヒーローならそろそろ着くはず。10、9、8……」

カウントダウンが始まる。

5、4、3、2、1……

「そこまでだ、悪しき怪獣よ!レオンマン参上!観念しろ!」

 赤と黄を基調としたコスチュームに身を包んだヒーローが空から降ってきて、怪獣に向かって行った。そして、あっという間に捕獲し、無力化した。

避難補助員の仕事はこれで終了だ。




2

「いやぁ、皆さん、お疲れ様です。おかげで今回も大きな被害は無く、市民も無事とのことです。ありがとうございます。」

 そう言って深々と頭を下げるのは、この地域の避難補助協会事務長の有馬だ。腰が低く穏やかな初老の男性で、いつもこうして報告会前にねぎらいの言葉を述べるのである。

「ところで塩谷君、研修後初の実戦はどうでしたか?」

「はい、うまく立ち回れたと思っています。そんなに緊張もしませんでした。勿論、谷岡先輩のサポートがあってこそですが。」

「ははは、そうかいそうかい。結構!今後も頼みますよ。」

有馬は朗らかに笑いながら言った。ふと、谷岡が後ろを振り向いて、小さく短い悲鳴を上げた。塩谷たちの背後に班長の間宮が立っていたのだ。

「上手く立ち回れていたのは私も確かだと思っています。しかし、塩谷の最後の行動は目に余るものがあるかと。」

怪獣相手に近づいたことだ。間宮は低く重たい調子で言葉を続けた。

「これについては厳しく注意すべきです。」

 ギロリと実際に音が鳴りそうな程に塩谷を睨みつけ、口をへの字に曲げる。

「無事だったのだから、いいじゃないですか。それに、あれが最善の判断だと思いますよ。」

有馬は間宮の怒りなどどこ吹く風でにこにこと笑いながら言った。

「初めて実戦で、この成果ですよ。今日は、褒めてあげてください、ね?」

「有馬さんは甘いんですよ。はぁ、反省文5枚で許そう。……よくやった。」

「あ、ありがとうございます!」

塩谷は背筋を伸ばし、素早く一礼した。それを一瞥し、フンと鼻を鳴らして間宮はデスクに戻っていった。

「全くさっきも今も、無茶するよなぁ、塩谷さん。あ、谷岡さんいつもお疲れ様です。」

そう言いながらこちらへ歩いてきたのは、山川といって、丸眼鏡にくしゃくしゃの髪の毛の男で、前髪だけヘアバンドで上げている。事務作業に邪魔だからとのこと。切れよ。

「でも格好良かったです!なんだかヒーローみたいで!」

 興奮気味の声の主は湧井さんだ。頭の先から爪先まで、”かわいい”に余念がない若手の事務員だ。

 「ちょっと二人とも、私たちの仕事はこれからなのよ?仕事に戻ってくれないかしら。雑談なら仕事の後にすればいいでしょ。定時までに終われば、その分話せるんだから!」

 パソコンを叩きながら、猪瀬さんがわざとらしく口を尖らせて言う。仕事と家庭を見事に両立させている、とても頼れる係長だ。厳しいようで、実のところ優しのだ。

「えぇ~!今がいいんじゃないですか!鉄は熱いうちになんとやらっすよ。」

「山川君何言ってるの?リアルタイムで散々騒いでたじゃないの。十分よ。」

「山川さんがんばってくださぁい!私はここで応援してまぁす。」

「湧井さん?あなたもよ、戻ってらっしゃい。」

「熱いうちに打ちたいんです!」

「リアルタイムで雄叫びあげてたじゃない。十分よ。」

「そんな~!」

 山川と湧井は落胆の色を隠そうともせず、肩を落とし自身のデスクへと戻っていった。

「え、いや、雄叫び?」

「雄叫びは雄叫びだよ。湧井ちゃんの応援はアツいよ。」

 頷きながら谷岡は言った。塩谷は華奢で可憐な湧井さんが雄叫びをあげるようなイメージはどうも湧いては来なかった。

「塩谷君、今日は本当にお疲れ様。報告書と……反省文、まとめたらゆっくり休むようにね。」

「はい、お疲れさまでした!……反省文はやっぱり書かないと駄目でしょうか。」

ため息交じりに谷岡に訊けば、「書け!」と間宮の怒号が飛んできた。



「ここ数日平和ですねぇ。」

山川が書類を弄りながら不満そうに呟いた。

「平和ならいいじゃないですか?」

 湧井が首を傾げながら訊く。

「や、まぁそうなんだけどさ~。なんか嫌な予感がするんだよ。」

「勘ですかそれ?」

「俺の勘はよく当たんの!ばあちゃんの姉ちゃんの旦那の妹がめっちゃ当たる占い師だったらしいし?」

「全然関係なくなってません?それ。」

 とはいえ山川の予感も分からなくはないのだ。ここ数日、いや半月ほど全くと言っていい程、怪獣の姿が見えない。まるで、示し合わせたかのように。

「谷岡さん、怪獣って群れたりしないんですよね?」

「うん?まあ彼らにそこまでの知能はないはずだよ。そこまで賢ければ護身用の道具なんか通用しないよ。」

 谷岡の言うことはもっともである。しかし、群れる、つまり集団で行動するといった概念がただ今までなかっただけならどうだろうか。塩谷はふと、そんな考えが浮かんだ。それを察したらしい声が背後から飛んできた。

「教えればできるようになると思うか?フン、そんなことはとうに試している。奴らには対等以上の他者を認識できやしないんだ。動くものは皆、獲物でしかない。」

 習っただろ、と間宮は呆れながら言った。研修では怪獣の特性や習性等を教わるのだが、もしかしたらその中に含まれていたのかもしれない。残念ながら塩谷にその記憶は無い。

「でも、不気味よね。小さい奴らもさっぱりだし。」

 猪瀬が言った小さい奴らとは、小型の怪獣である。鼠に似ていて、犬や猫ほどの大きさがあるもので、食料を求めてか、よく繁華街や住宅街に現れる。弱いうえに動きもさほど早くはないため、一般人でも道具さえあれば対処できるのだ。それすら最近出てこない。塩谷が思考に沈んでいるところを掬い上げるかの如く、けたたましいサイレンが鳴った。

「○○地区に怪獣出現、住民の皆様は直ちに避難してください。繰り返します―」


3

塩谷は兎が跳び上がるが如く身を翻し、2階のロッカーへと走った。上着と眼鏡を取り出すと、窓から飛び出した。谷岡も同様にナビルームへと急いだ。機材の電源を入れ、椅子に座る。間宮は谷岡の後ろに座り、有馬たちと共に近隣の状況を調べ始めた。

「こちら塩谷!谷岡さん、怪獣はどこですか!」

逃げる人込みの流れに逆らって塩谷は走っていた。半月とはいえ、平和だった日常が崩れ去ったのは住人達にとって予想外の事だったのか、慣れていたはずの避難でパニックに陥っていた。誰も彼もが我先にと他者を押しのけて逃げている。

「こちら谷岡!塩谷君聞こえる?怪獣のポイント、映すね。ただ、君が一番わかると思うけど、避難が完了していないどころか、いつもより遅いんだ!これじゃあこちらが逃げたところで意味がない!」

「いや、今だけだろう。そのうちまともに避難できるようになる。ただ、逃げ遅れた奴がでてくるかもしれん、気をつけろ。」

「分かりました!ヒーローはどれくらいで―」

「班長!近隣地区で同時多発的に怪獣が出現してます!」

後ろで山川が叫ぶ声が聞こえた。

「本当だ、もしかして手が足りないんじゃない?逃げるにも限界があるっていうのに!」

「うちは常駐しているヒーローがいないうえ、応援要請したところで到着に時間がかかるだろうな。」

谷岡と間宮が緊張した様子で会話する。それらを聞きながら、ふと塩谷は考えたことを口にする。

「俺たちだけで無力化できるんじゃないですか?」

「戦おうっていうのかい?無茶だ!」

「危険な行動は慎めと言ってるだろう!どうにかできる戦力など、我々には無いんだぞ!」

「いいアイデアだと思う、やってみましょう。いずれにせよ、ヒーローは暫く来やしないでしょうから。」

 割って入ったのは有馬だった。「最悪、私が行きますよ。」と朗らかに笑った。


 大通りへ出たところで、塩谷は怪獣に遭遇した。真っ黒い体毛に覆われた、大きな熊のような姿だ。だが、手足が短くずんぐりしていて、少々ぬいぐるみのような印象を受ける。

「ミッション、スタートだ。」


塩谷の考えた作戦は何も難しいことではない。ただ、逃げるだけである。逃げて逃げて、逃げ続けて、疲弊させたところを狙うのだ。

塩谷は悲鳴を上げて怪獣の注意を引き、逃げだした。

「いくよ、まず近くの自動販売機からとりもちとまきびしを手に入れてくれ!」

塩谷は指示通り2つを入手し、まず怪獣の足元へとりもちを投げた。それを踏んだことを確認し、すかさずまきびしをばら撒いた。怪獣はそれらを踏んで叫び声をあげた。足元のものを払い除けようとするが、とりもちに余計くっつくだけである。これで怪獣の追ってくる速度は落ちるだろう。

「よし、狙い通り!しばらく大通りを逃げた後、空気砲を手に入れて使おうか。」

「空気砲より捕獲網の方がよくないですか?結構キツイじゃないすか、撃つの。」

「山川……網でとりもちごとこそぎ落とされたどうするんだ。」

「え~班長、怪獣がそんなことしますか?いや、そうか。払い除ける頭はあったんだ。」

 賑やかなナビゲーションを聞きながら、塩谷は次の自動販売機へと走った。しかしそこであらぬ事態が起こった。逃げ遅れた子供だ。ガタガタと震えて、腰を抜かしたのか座り込んだまま動けないでいる。

もし追い付いてきた怪獣を目にして声を上げたら。

塩谷は腹の底の方がすぅっと冷えていくのを感じた。

「塩谷!ジェスチャーしろ!口を押さえてろって!その後てめぇは怪獣の注意引け!人間の方ぜってぇ見させんな!もうすぐそっち行くから!」

 誰かの怒声が入ってきた。恐らく女性のものであろうその声に多少聞き覚えがあったが、目の前の状況を優先するためにその思考を無理矢理抑え込んだ。

 指示通り子供にジェスチャーをすると、こくりと頷いて口を押えてくれた。素早く空気砲を取り出し、怪獣に向き直った。

ふと、視界の端に屋根の上を走る何かがちらついた。それは子供の後ろに着地し、抑え込んだ。塩谷は反射的に空気砲を向けると、それは事務補助員のようだった。顔を上げてこちらを見た。その見覚えのある顔に衝撃を受けた。湧井だ。普段の姿からは想像できない口調と運動神経の良さに、そっくりさんではないかと疑ってしまう。

湧井は素早く子供を抱えて電柱の後ろに隠れた。

「逃げ遅れた奴はこっちで誘導してやる、塩谷は自分の仕事に専念してろ!」

 ニヤッと口の端を上げて、インカム越しに伝えてきた。本当に逞しいんだな。いや、誰だよキャラ変わり過ぎだろ。浮かんでは消える湧井に対する様々な疑問やツッコミを消し飛ばすように、獣の方向が聞こえる。すぐそこまで追い付いてきたのだ。

「おーーーい!こっちだぞぉ!追い付けるもんなら追い付いてみろよ!」

ぶんぶん両手を振ってニヤニヤと嗤ってみせた。どうやら癇に障ったらしく、怪獣は吠えながら走り出した。塩谷もすぐに走り出した。空気砲は子供から離れたところで使用する。万が一、怪獣の足が止まった時に見つかってしまうかもしれないからだ。

 その後も谷岡たちと連携しながら、怪獣から逃げ回った。そして、双方疲弊しきったところで、塩谷は行き止まりにぶつかってしまった。正確には工事現場だが。

 塩屋は怪獣の方を向き、ゆっくり後ずさりする。一方怪獣は、やっと獲物を追い詰めたと舌なめずりしながらじりじりと距離を詰めてくる。塩谷の背中に何かが当たり、それ以上下がることができなくなった。

 勝負は一瞬。お互いの動きが止まる。息をすることを許さぬように、張り詰めた空気が重くのしかかる。

 怪獣の足に力が入り、地面が鳴った。塩谷はそれを合図に素早く横へと跳び退き、その場を離れた。怪獣は勢いよく正面の建設中の建物へと突っ込んでいった。組まれていた鉄骨が崩れ、音を立てて怪獣の上に降り注いだ。ビルでも建つらしく、なかなかの高さまで鉄骨組の足場が作られていた。それらが怪獣を下敷きにしたのだ。疲弊しきっていた怪獣は何度かもがいた後、力尽きた。

そう、作戦成功だ。

「流石に怪獣でもこれは耐えられないんだな。悪いな、こっちも死にたくないんでね。」

 インカムから成功に対しての大きな歓声が聞こえる中、塩谷はぽつりと呟き手を合わせた。


4

「ははは、昨日も大変でしたね、塩谷君。休んでもいいんですよ、無理は良くないですから。」

有馬が眉を下げて申し訳なさそうに笑う。

あの一件は、あくまで偶然であるという事にするつもりだった。しかし運が良いのか悪いのか、遅れて到着したヒーローが目撃していたのである。それによって塩谷は一躍有名人になったのだ。ただでさえ仕事があるというのに、取材やローカルテレビ出演の依頼等がひっきりなしに舞い込んで、慌ただしい日々が続いている

「走ってる途中でぶっ倒れてもヤバいだろ、休めよ。それか外野の依頼は断れって。」

「湧井ちゃん、応援中はこうだったし何も隠せてなかったからね、コロコロ変わるよりこっちのがいいよ、心臓に。」

山川は引きつった笑みで塩谷にだけ聞こえるように言った。本性を曝け出してしまった湧井はあれ以来、取り繕うのを止めたようだ。口は悪いが面倒見がいいタイプのようで、逞しいと言われていた意味がなんとなくだが分かった。

「それにしてもなんで無理して取り繕っていたの?」

「……一度くらいちやほやされたかったら。お姫様とかコワレモノを扱うみたいに丁寧な感じで。このままだと、そういう扱いはしてくれないっていうか、だから。」

 猪瀬の質問に対し、湧井は真っ赤になった顔を下に向け、歯切れの悪い返事をする。どうやら自分で解説するのは恥ずかしいらしい。

「あぁ、これがギャップ萌え。」

 不意に、山川は何か納得したように呟いた。

「お前ら!気を引き締めろ。我々の仕事は避難の補助であって、ヒーロー活動ではない。そのことをゆめゆめ忘れるな。……あれはあくまで緊急時における対応だからな。」

「あれ?禁止しないんですね、班長何かありました?」

「今回のような事が今後起きないという保証はない。退治するまではいかずとも、できる限りの対処は必要になってくるだろうからな。」

「そうですねぇ、今後はそういった事態も想定して動かなければいけません。皆さん、これからもどうぞよろしくお願いします。さぁ、今日も元気にいきましょう!」

 

有馬が言い終わると同時に、警報が鳴り響いた。

「さて、ナビは任せてくれ!」

「情報収集に避難誘導、ははは、忙しくなりますね。」

「無茶はするな、戦略的撤退というものもある。」

「あ~僕は応援してますね、事後処理係なんで!」

「手が足りなかったらまた加勢すんぞ!」

「応援するけど、始末書ものだけは勘弁よ!」

 チームメイトの声を背に、塩谷は外へ飛び出し走り出した。


「ミッション、スタートだ!」

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