人欲-12
アイと付き合いはじめてからはほとんど出社するようになった。
わたしの顔を見るたび前沢に「きょうも出社なんですね」とストレスをぶつけられるが、幸福感がすべて無効化してくれる。
家に帰り、誰かが待っていてくれるなんてこと、いままでなかった。悪くないなと心底思った。
アイがいるとき、ぴったりとくっついて過ごした。
「今度のほのちゃんのお休み、どこか行きたいなぁ」
「いいよ。どこ行く? 映画とかいまあんまりおもしろいのやってないよね」
わたしがそう呟くとアイが「あ」と声を漏らした。
「小劇場おもしろいよ」
「小劇場?」
「うん。舞台。行こうよ」
彼女のことばに、過去、彼女の近くに居た誰かの存在を感じてしまう。胸の中に砂嵐が巻き起こる。
「うん、行こう」
アイの耳の裏にキスをした。
過去を塗り替えることができないのであれば、わたしがアイの過去の誰よりも勝ればいい。勝らないといけない。
ゆっくりとアイを押し倒し、彼女の顔を上から見おろす。好きだ。嫌いなところがひとつもない。二重の大きな目だけでなく、少しだけ曲がっている顎も、丸い鼻梁も好きだ。
土曜日に新宿の駅ビルでウインドウショッピングをして、タイ料理店で昼ご飯を食べた。
わたしが奢ろうとするとアイは自分の分は払うと言った。またアイのことを好きだと思った。
それから山手線の池袋・上野方面行に乗り、巣鴨で都営三田線に乗り換えた。
電車の中でもわたしたちは身を寄せあった。裸で体を重ねなくても、呼吸や放っている体温だけで好きなひとの存在を感じるのは幸せなことだ。
高島平の東口改札を出て、最初の信号を左に曲がり少し歩くと劇場スタッフと思われるひとが立っていた。
大きい看板があるわけでもないこの劇場にすんなりとたどり着いたから、やっぱり誰かときたことがあるんだろう。アイと一緒にいるときにこころがギスギスするのが嫌だ。
アイが受付で名前を言い、チケット代を支払った。
渋谷にある大きい劇場なら大学のとき友人と行ったことがある。そのときはコンビニで買ったプレイガイドのチケットだったから、こんな風に名前を言って入るようなものに行ったのは初めてだ。
入場時に配られた別の公演のフライヤー類を眺めるアイに話しかけず、ステージを見た。
大きな舞台装置はなく、長机がふたつ、椅子が四つ並べられていた。
客入りは悪くなさそうだった。土曜日だからだろうか。平日はどうだろうか。
小劇場が好きなひとをターゲットに企画を立てるとしたらどういうものがいいだろうか。こころに隙ができると仕事のことを考えてしまう。
舞台はだいたい90分くらいでオーディションをテーマにした芸能の話だった。内容としてはめちゃくちゃ面白いわけでも、つまらないわけでもない。そこそこに楽しめた。
映画と比べると「無い」ものを想像する楽しさがあるのはいい。そして、役者の熱演を間近で感じ、直接声を自分の耳で感じるのは悪くなかった。
二時間パイプ椅子に座っていた脚で地上へ繋がる階段をのぼるのは一苦労だった。
地上に上がってすぐの建物のくぼみになっている部分に男が二人話していた。向かいの車道からハイライトの車が走ってきて、一瞬何も見えなくなった。目が元通りになるまで何度も瞬きを繰り返した。景雪だ。
わたしの視線に気づいた景雪が目を見開き「ほのかちゃん」と手を挙げた。わたしは縫い付けられたように動けなかった。
彼は話し相手に「ちょっとすみません」と会釈をし、わたしに駆け寄ってきた。
「久しぶり。ほのかちゃんもこの舞台観てたの?」
これはわたしの幻だろうか。いや、最後に見たときより確実に成長している。成長、なんて良いことば過ぎる。
疲れが顔に出ている。目の下の皮膚が少しだけたるんでいる。最後に会ったのいつだ。高校卒業してから会ってなかったんだっけ。ほとんど記憶と変わらないのに、経年劣化ということばが似合う。
「うん。びっくりした。びっくりして、ちょっとわたし、声出なくなったんだけど」
景雪に相手にもすんなり嘘が吐けて営業職やっててよかったなと他人事のように思った。
景雪はアイの存在に気づいて「こんばんは」と笑いかけた。
そういう愛想がいいところも虫唾が走る。
「この舞台、ぼくの小説が原案なんだ」
「え?」
知らなかった。景雪の情報を仕入れていないわたしが知るはずもないし、原作とタイトルが違ったなら絶対に気づくはずがない。
「懐かしいなぁ。びっくりした。高校卒業してから一回も会えてないもんね」
なんでこいつは、こんなにすらすらと嬉しそうにことばを並べられるのだろう。
劇場から出てきたひとが景雪に声を掛ける。
その隙に「じゃあ」と言い捨て、早足で去った。早く、景雪から見えなくなるところに行きたくなった。
「ほのちゃん」
追いかけてきたアイに腕を掴まれるとそのまま、立っていることができなくなって、アイの体に身を任せた。
呼吸がうまくできない。肺が痙攣している。空気がからまわっている。
「ほのちゃん、大丈夫?」
「大丈夫」と大きく息を吸い「ごめんね」と息を吐いた。
それから電車に乗った。都営三田線は、高島平の隣の西高島平が始発だから、高島平から乗るとガラガラだった。
わたしは完全に体をアイに預け、ただ、浅く呼吸を繰り返した。目を開けたまま寝てるようなもの。
巣鴨や大手町で乗り換えたほうがよかったが、そのまま目黒まで乗り続けた。アイはひとことも話さなかった。
目黒駅からなら家までタクシーで15分もかからないだろうが「休んでいこうか」と寝言のように言うとアイは応じてくれた。
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