冷凍睡眠で200年、世界はAR全盛期になっていた

藤浪保

第1話 ブラインド

「これが見えないって言うんだから、不思議なもんだよなぁ」


 俺は眼鏡をかけたり外したりして、デスクのきわ、床のコーヒーの染みを見比べた。


 眼鏡をかけると、灰色の絨毯じゅうたんに茶色く広がった染みが見えなくなる。


 眼鏡を外して手を離すと、ツルの部分につけた紐で、ネックレスのように首元にぶら下がった。


 カゴの中のボトルを取り出し、洗剤を染みにぶっかけて、ブラシでこすった。


 みるみるうちに染みが落ちていく。


 化学の進歩ってのはすごいもんだ。


 バケツの水に浸した布でこすり、洗剤を拭き取る。


 清掃ロボットはいるが、こういう隅の汚れは落としてくれない。


 だからこそ、俺みたいなブラインドが役に立つ。


 清掃員は、俺が就ける数少ない仕事のうちの一つだ。




 瀕死の重症を負った俺は、当時まだ研究段階だった冷凍睡眠の被験者となった。


 目が覚めてみれば二百年が経過しており、世界は大きく変わっていた。


 世界政府ができていたり、宇宙開発が進んでいたり、人体再生技術があったり、車が空飛んでたり、まあ、あの頃空想されていた事は大抵実現している。


 その中で俺が目下苦労しているのが、拡張現実A Rの実現だ。


 簡単に言えば、現実世界にデジタルの世界を重ね合わせる技術だ。


 具体的には、視神経に機械を直接取り付ける手術をする。その機械が通信を行い、見せたいものを視界に重ねるわけだ。


 もちろん仮想現実V Rも実用化されたんだが、人間、体を動かさないと脳が正常に発達しないらしく、すたれてしまったらしい。


 そのほか、脳に色々埋め込んで身体能力を上げたり、視覚じゃなくて聴覚や嗅覚を改変したりってのもあったようだが、定着したのが視覚だった。


 だがこの手術、生後間もない頃にやらないと駄目らしい。


 成人している俺は対象外。やると脳が壊れると言われた。


 っつー訳で、俺にはAR世界を見る目がない。


 先天性の疾患しっかんや事故なんかで手術を受けられなかった人間は他にもいて、そういう者たちはブラインドと呼ぶ。


 正式名称は長ったらしいんだが、医者も上司もこの通称を使っていた。


 公的機関からAR世界を垣間かいま見るための眼鏡を支給されてはいるが、三ヶ月たっても、未だに慣れない。


 この清掃の仕事に就いている人間にはブラインドが多い。


 視界をいじっている普通の人間たちには――どういう仕組みなのかは知らないが――生活に影響のない汚れは見えない。装置が勝手に判断して目隠しをするらしい。


 だからこうして俺が働いていられるわけだ。


 給料は安いが、生死をさまよった俺からすれば、こうして生きていられるだけで儲けもの。十分満足している。




 仕事を終た俺は、一人乗りの自動運転車に乗って帰宅した。


 マンションの玄関ホールも部屋の玄関も鍵は使わない。腕に埋め込まれたICチップが鍵代わり。


 家に入れば勝手にカーテンが閉まって、勝手に電気がつく。便利な世の中になったものだ。


 俺は食事をしながらテレビを見るのを習慣としていた。


 テレビと言っても、物理的に機械があるわけはない。


 白い壁の方を見て、眼鏡を通して見るのだ。


 テレビ番組はチャンネルが大幅に多くなったわけでもなく、バラエティやドラマ、ニュースなど、二百年前と変わらない。


 視線で操作してチャンネルを変え、ニュースを表示させた。


 アナウンサーが着ている服の情報なんかは要らないので全てオフにする。


『昨夜十一時頃、新宿区の空きビルで死体が発見されました。刃物で刺された形跡があり、警察は殺人事件とみて捜査を――』

「げ。この近くじゃん」


 どんなに再生医療が発達していても、死んだ生物を生返らせる事はできない。


 大抵の怪我や病気では死なない今、殺人はさらに重い犯罪になっているが、それでも人は殺人をやめられない。


 ま、俺には関係ないけど。


 眼鏡を外し、容器をゴミ処理装置に放り込んだ時、ピンポーンと来客を告げるチャイムの音がした。


 眼鏡をかけ直してみれば、マンションのホールに女がいた。


『どちらさまですか』


 眼鏡を介してメッセージを飛ばす。


『警察の者です』


 メッセージと共に表示されたのは、確かに警察のマークだった。


 ホールのロックを開ければ、すぐに女は上がってきた。


「何のご用ですか」

「政府からの要請です。入れて頂いても?」

「はぁ」


 俺が一歩引くと、女は玄関に入った。その後ろで、ガチャンとドアが閉まる。


田村太一たむらたいちさんよね」

「はい」

「あなたをスカウトしに来たわ」

「スカウト……?」

「ええ」


 スカウトってあれだよな。仕事に誘ってるって事だよな。俺を? 警察に?


 何を言っているんだこの人は。


「意味がわかりません。俺、ブラインドですよ」

「ええ、知っているわ。当然でしょ。その上で、あなたをスカウトしたいの。私たちはブラインドが欲しいのよ」


 ブラインドだってわかっててスカウト? 尚更意味がわからない。


「役に立てないと思いますけど」

「いいえ。ブラインドだからこそ欲しいのよ。私の目になってちょうだい」

「目に? どういう意味だかわかりません」

「わからなくてもいいわ。あなたに拒否権はないから。これは政府命令よ」


 この国が共産主義になったなんて聞いてないぞ。民主主義のままのはずだ。


 だけど俺には警察に逆らうほどの度胸はなくて。


 俺は女に部屋から引っ張り出された。


 


 


 


 

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