星間異民

小林勤務

第1話 永遠

 少女が生まれるより遥か昔――人間の社会において神話と呼ばれる領域。


 あまりにも古く、歴史上どの書物、壁画にも記録されていないが、確かにこの地を彼らは訪れていた。超新星爆発によるガンマ線の拡散はこの星の雲を厚くさせ、氷期を到来させた。永遠にも等しい程、生命の誕生と絶滅を繰り返す惑星。彼らはここにひとつの種をしのばせた。


 その種は時を経て、着実に大気に浸透していく。

 大気にひそませた小さな粒子は、荒れ狂う溶岩と塵、灰と混じり合い、未だ名も、支配者もいない境界線がなき大地へと降り注ぐ。やがて熱は冷え、大地に芽が咲き、約束された地と化した。



 それから約1万7千年後。



 寒月が照らす夜に、少女はこの地に生を受けた。少女は惜しみない両親の愛を注がれて、すくすくと成長した。ときには理由もなく反抗することもあった。そのどれもが、傍からみれば大したことではなかったが、当時の少女にとっては全て重要であった。


 少しばかり容姿が人より優れていたこともあり、少女は夢をみた。歌と踊りで人々を熱狂させる――眩い存在になりたいと強く願った。


 だが、少女の夢は叶うことなく現実だけが圧し掛かる。まともな賃金は支払われず、逆に授業料として借金を背負わされ、その返済と未来への切符という甘い囁きによって、夜の帳へと誘われた。


 長い年月は待たずに、少女の夢は破れることになる。


 少女はすでに大人の女性へと成長して社会を知った。生まれ育った地に戻り、小さな職を得た。人間の活動時間における大部分が仕事に追われる毎日。たまの憩いを求めて、この約束された地を挟むように流れる二つの川――多摩川と命名されたほとりを歩いていたときだ。


 そこで少女は彼らに出会った。


「すみません、場所をお尋ねしたいのですが――」


 彼らはこの地で生計を営むものたちと、外見においてなんら異なる点はなかった。


「――ここはムサシノ、ですか?」


 少女は答えた。


「いえ、ここは府中ですよ」

「おかしいな、この辺はムサシノって聞いているけど。それにしても随分と話と違うな」

「武蔵野市は三鷹より北の方なので、乗る路線を間違えたんじゃないですか。京王線ではなく、どちらかといえば中央線ですよ」

「市?」


 少女は一瞬とまどった。そして、なんとなく理解した。

 ああ、この人は広い範囲での武蔵野という場所を私に訊いてるんだわ。ここでふと思い出す。そういえば、この一帯は武蔵野と呼ばれていたっけ。

 ぎこちなく、丁寧に、そのことを伝えると彼らは微笑んだ。


「ありがとう。あなたはとても親切な人だ。わたしたちも安心してこの地で暮らすことができる」


 そして、彼らは川の光に溶け込むようにすっと消えていった。


 それが最初の邂逅であった。


 月日は流れる。


 街路樹のイチョウが散り、遠い異国から流れてきた寒気は街を白く染め上げ、春の突風が冬の終わりを告げる。


 少女は職場で出会った同僚と結婚して、ひとりの男子を授かった。少女は子の誕生を祝い、どんなに些細な出来事でも、その成長を記録して、メモリーは膨大な量に膨らんだ。ときに行き違いから叱ることもあったが、どれもがかけがえのない宝物であった。惜しみない愛によって子を見守っていたが、やがて別れが訪れる。


 少女の子は小児がんに罹っていた。人間の社会において、その病は発症率からみて珍しいわけではないが、少女から希望を奪う。


 小さな棺。冷たい骨壺に収められた遺骨。人間にとって生命とは可視化されるものであった。死は肉体の終わりであり、肉体の温もりを補うものは、いまの少女にとって何もなかった。ただ、時の流れが残酷に積み上がっていく。それだけしかなかった。


 癒えることのない悲しみは少女に暗い影を落とす。


 そして、最悪な決断までもさせてしまう。


 生きる希望を無くした少女は、川に飛び込んで死のうと決意する。約束された地と不可侵の地を分かつ多摩川にかかる橋の上。暗雲が異常な速度で流れていき、この地への光を閉ざす。柵に手をかけて半身を宙に乗り上げたときだ。


 少女は水面にきらきらしたものを見つけた。それは光を川が反射する、ただの現象ではなく、どこか不可思議なものとして少女の目に映った。


 水面から浮かび上がったその光は、泡のように不規則に膨らんだり縮んだりを繰り返して、少女の目の前へと近づいてきた。生命のように変化する光の泡のなかに、かつての光景が映し出された。


 それは――


 少女が生まれた日の朝のこと。


 少女が両親に抱かれて眠りにつく夜のこと。


 夢破れて、生まれ育った家に戻ってきた雨の日のこと。


 喜びと挫折を繰り返して、少女は伴侶となる男性と出会い、恋に落ち、やがて子を授かり。


 自らの半生を映写する光景に、暫し驚き、瞳から涙が溢れて、少女は諦めたように柵から降りた。


 ふたたび月日は流れる。


 少女は皺が増え、中年へとさしかかる年齢になっていた。その後、少女と夫の間に子が生まれることはなかった。命を繋ぐことは生命の原始的な欲求だが、たとえそれが叶わなかったとしても、時として別のかたちで新たな未来に繋がっていく。


 その意味においては、既に彼女はその資格を得ていたといえる。


 少女と夫はひとりの養子を迎えることを選択した。子には親がいて、その親にも親がいて、人間は生まれた瞬間から家族を形成するのだが、あくまで社会一般の物差しであり、全ての子が望まれて生れるわけではない。生れてすぐに親から捨てられる存在も確かにいた。


 そんな赤子を少女は家族として迎い入れた。


 少女は亡くした子の時間を取り戻すように愛を注いだ。無償の愛は思春期を迎えた赤子から煙たがられることもあったが、少女の家族はいたって平穏な日々を重ねた。


 赤子は両親の愛を一身に受けて、ときに躓きながらも健やかに成長して、やがて運命の人と巡り合う。


 少女は、ばあばと呼ばれる存在になった。


 肉体は衰えて、日がな窓の外を眺めていた。庭で走りまわる孫たちの嬌声を聞きながら、ふと思い出す。


 昔、多摩川のほとりで出会った不思議な存在を。目の前で溶けるように消えていった彼らを。あれは一体――。


 少女は重い腰をあげて、古き記憶を頼りにかぜのみちを歩く。あれから街は随分と変わった。河川敷はコンクリートで覆われて、僅かに残っていた雑木林は全て住宅へと姿を変えた。月夜に響く虫の音はなく、聞こえるのは社会を前進させる排気音だけ。


 夕陽を背に少女は家路につく。人智の及ばぬ存在によって生き永らえることができた喜びを胸に。





 そして、時は流れ――約300年後。





 少女の死後さらに街は変化した。街だけでなく世界は根本的な理を変えたのだ。太陽系を構成する巨大なガス惑星の収縮は、重力の影響と未来を決定的に変えてしまった。この星は滅亡の危機に瀕していた。


 火星と木星の間に広がる小惑星帯の軌道は激変して、この星を守る引力の盾である木星をかわし、次々と隕石が迫ってきた。隕石による強大な力は、200年前に引き起こした核戦争をも遥かに凌駕する規模であり、人類はこの地を捨て去ることを余儀なくされた。


 だが、人類は自らの限界に直面していた。科学技術は極限まで進み、何万光年先のハビタブルゾーンから居住可能な惑星を特定していたが、余りに途方もない距離に、人類は肉体のままでは到達できなかったのだ。


 絶望がこの星を覆うなか、遠い過去に武蔵野と呼ばれた極東の地で、不思議な現象が相次いで目撃された。


 人――とおぼしき姿形をした透明な存在が街を跋扈していたのだ。


 それは既に確立された光学迷彩ではない。まるで揺蕩う風のような存在であった。

 人類は彼らの声が聞けるもの、姿が見えないもの、この二種類にわけられた。代々この地に生を受けた幼き彼女は彼らが見えるものの一人。


 彼女は聞いた。


――あなたたちも旅立つときがきました。広大な宇宙に自らの運命と可能性を求めなければならない。


 彼らは太古に、この地を居住可能な星へと変えた宇宙を漂流する民の末裔。彼らの文明は既に肉体という概念は終わり、時空の制限を受けない思念体そのものだった。


 だが、人類は彼らの声を理解しなかった。圧倒的多数の見えない権力者によって、見える人間は迫害され、とうとう彼女にも死の影が迫った。


 かつて多摩川と呼ばれた水銀の流れを前に、彼女は四方から銃を向けられた。既に家族は死に、全ての終わりを覚悟した瞬間。彼女の身体がふわりと宙に浮かぶ。なに、と驚く暇もなく、彼らに誘われるように手を引かれ、肉体から意志のみを引き離された。


 眼下には前のめりに倒れた抜け殻の肉体。

 見上げると、太陽の光と流線形の銀色の船が重なる。導かれるように彼らとともに船に乗り込むと、そのまま船は浮上した。


――光速を超える旅には肉体を捨てる必要があります。


 祝福するように出迎えた彼らは微笑む。彼女はこのカラダに慣れていなく、まだ言葉を発せない。


――遥か昔、わたしたちはこの地にある粒子を含ませました。それは時とともに大気に混じり、親しみを表すうけらが芽吹き、歌が詠まれ、共存が果たされ、長い年月を経てあなたのような存在を生み出すことに成功した。


 成層圏を超えて、窓から漆黒の宇宙に浮かぶ月が見えた。


――悠久の時のなかで、わたしたちを認識するものもいた。


 月をかすめるように、音もなく灰色の隕石が地球に降り注ぐ。

 碧き故郷が終焉の時を刻むなか、船は徐々に光速へと近づき、太陽が遠ざかる。


――時を超える過程で、一瞬だけあなたは幻影をみるでしょう。


 視界が一点に集約されるその刹那、どこか懐かしい顔が彼女の目に映る。


 虚ろな目をして橋の上から川に飛び込もうとする中年女性。


 彼女は絶望に沈む中年女性の胸に燻る僅かな希望を感じとるが、手を触れることもできない。ただ傍にいるしかできないが、その温もりに中年女性は気付くと、涙を流して橋の柵から降りた。


 そして、前を向いた。



 ここで幻影は終わる。


 彼女は旅立った。


 未だ見ぬ約束の地へ。



 了




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星間異民 小林勤務 @kobayashikinmu

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