言論管理法

藤間 保典

第1話

「裕斗、朝ごはんはどうするの?」

 台所から母さんの声がする。僕は玄関に座って、靴の紐を手早く結びながら答えた。

「いらない」

「ダメよ、食べなきゃ」

「食べてたら、遅刻するって」

「だから早く起きなさい、って言ったでしょ。高校生にもなって」

「うるさいな。もう、行くからね」

「待ちなさい」

 何とか靴の紐を結び終えた僕は、通学カバンを担ぐと、母さんの言葉を無視して玄関を出た。

 外に出ると朝日がまぶしい。僕は右手で光を遮りながら道へ飛び出した。走れば、駅には五分くらいで着くだろう。登校時間に間に合う電車には乗れるだろうか。

 確認のため、スマートフォンを取り出そうとして、止めた。画面を見ながらだと、どうしても走る速度が落ちる。今の優先事項は、まず駅に着くことだ。

 僕と同じように駅へ向かう学生服やスーツを着た人たちの間を縫って、僕は昔ながらの店が並ぶ商店街を走り抜ける。この時間、開いているのはコンビニくらいしかない。

 百メートル先に見える信号は緑だ。あれを渡れたら多分間に合うだろう。だが、赤になってしまったら、かなりヤバい。

 幹線道路でトラックやタクシーがビュンビュン走っているからだろうか。赤信号の時間が妙に長いのだ。だからといって、信号無視をする訳にもいかない。道幅は十メートル以上あり、交通量も多いから、渡りきる前に高い確率で車にひかれるだろう。

 何としても渡らなくちゃいけない。僕は息を止めて、手足を大きく振る。だが、目の前を走っていたコンビニの配送用トラックが速度を落として、止まってしまった。

 避けなくちゃ。けど、道の真ん中は自転車が猛スピードで走っている。学生服を着た集団、子どもを前後に載せた母親、イヤホンを着けたスーツ姿のおじさん。次から次へと緑の信号めがけて、突撃していく。それらは一向に途切れる瞬間がない。

 目の前にある横断歩道の信号は既に点滅を始めていた。しかし、自転車たちは歩道を我が物顔で飛ばしていく。道路交通法上は歩行者が優先だろう。そう叫びたくなるが、通り過ぎていく輩には何を言っても無駄だろう。大体、息が上がっていて、張り上げようにも声が出ない。

 あぁ、もう。急がなくちゃいけないのに。だが、無情にも信号は赤に変わってしまった。足を動かす速度が緩まる一方で、今まで不足していた酸素を取り戻すかのように呼吸が激しくなる。

 歩くスピードを徐々に落としながら、僕はスマートフォンを取り出した。乗車案内のアプリによれば、僕がいつも乗っている電車はもうすぐ出発するようだ。もう間に合わない。しかし、そのすぐ後に来る特急に乗れたら始業時間には間に合う。

 どうしようか。僕が横断歩道の前に着いた頃には、周りは人でいっぱいになっていた。この様子では、人に邪魔されて駅まで走ることは難しそうだ。それだと特急には間に合わない。

 他に方法はないだろうか。すぐにスタートできるように、小刻みに足踏みをしながら、左右を見渡して考える。

 そうだ。駅まで行くにはメインの大通りの他にもうひとつ、ルートがある。家が密集しているところにある細道だからだろうか。ほとんど人通りもない抜け道のような場所だ。そっちに行けば、何とかなるかもしれない。

 ようやく信号が変わり、人が動き始める。だが、急いでいる僕のことなど素知らぬように目の前にいたおばさんの集団は楽しそうに話をしながら歩く。

 ああ、邪魔だ。人のすき間を何とか縫っておばさんたちの横へ出たが、今度はお爺さんが現れた。杖をついて、こんな時間にどこへ行く必要があるというのだろうか。急いでいないのであれば、僕に道を譲って欲しい。

 この調子ではメインの通りを行けば、確実に遅刻だ。やっぱり抜け道に行くしかない。僕は横断歩道を渡りきると、大勢の人が吸い込まれる方ではない道へ走る。

 目的の細道に入ると、やっぱり人通りはなかった。歪んだ木板やペンキの剥げたトタンの外壁の家がすき間なく立ち並んでいる。道は人がひとり通れるくらいの道幅で舗装もされていない。だが、走るには十分だ。僕は自分の背丈よりも少し高いブロック塀の間を駆けていく。

 スマートフォンで改めて時間を確認する。横断歩道でのロスタイムが響いたのだろう。もう少し急いだ方が良さそうだ。手をおもいっきり振る。

 数分でようやく目の前に通りが見えてきた。あそこまで出られれば、駅はもうすぐだ。幸運にも先に見える信号の色が緑に変わった。同じ失敗はしない。

 僕は走るスピードを更に上げてラストスパートをかけた。ブロック塀が途切れ、十字路に入る。

 その時、右目の端にトラックが映った。えっ? 認識した瞬間、身体を衝撃が襲う。目がチカチカして、身体の右半身が燃えているかのようだ。こういう事故の時、物がスローモーションに見えるとは聞いたことがあるが、本当なんだな。吹き飛ばされながら、頭はそんなことを考えていた。


 目を開けると白い天井が見える。ここはどこだろう。身体を動かそうとしたら、右半身に痛みが走った。思わず「痛て」と声が漏れる。

「裕斗」

 女性の大きな声が聞こえる。母さんだ。こちらを見て、涙をボロボロと流している。何で泣いているんだろう。声を掛けようしたら、白衣を着た中年男が割り込んできた。

「橋本さん、会話はできますか」

 知らない人だ。それなのに、なんで僕の名字を知っているのだろう。僕は彼に状況を確認する。

「はい。ここ、どこですか」

「病院です」

「どうして?」

「君は交通事故にあったんだよ。覚えているかい」

 目を覚ます前の最後の記憶が頭にフラッシュバックする。あれは現実だったということだ。

「はい。十字路でトラックにぶつかったんですよね」

 医者らしき男は軽くうなずく。

「ふむ。一週間ほど目を覚まさなかったので心配していたが、どうやら記憶はしっかりしているようだ」

 一週間? そんなにも長い間、僕は眠っていたらしい。身体は大丈夫なのだろうか。僕は医者に尋ねる。

「僕、治るんですか」

「身体の方は全治一ヶ月、といったところかな。遅刻は良くないが、命の方が大事だ。これに懲りて、規則正しい生活をするんだね」

「はい」

「あと、念のために改めて脳の検査をするから。いずれにしても、意識が戻って良かった」

 医者は注意点をいくつか説明すると病室から去って行った。母さんは礼を言って、それを見送ると「父さんに連絡する」と言って部屋を出た。

 僕は改めて部屋を見渡す。四人部屋で隣のベッドにはお爺さんがいた。母親に連れられた幼稚園児くらいの孫がお見舞いに来ているようで、にぎやかに話をしている。

 向かいのベッドは二十代くらいの男性だ。同年代くらいの看護師に介助されながらも、「退院したら、どこか行きませんか」なんて口説いている。看護師はやんわりと断っているが、まんざらでもないといった顔だ。

 残りのひとつは小学生くらいの男の子だろうか。母親にお菓子が食べたい、だのゲームがやりたいとかせがんでいる。

 窓の外には青空が広がっていて、外出するのにちょうど良さそうだ。しかし、身体は少し動かすだけでも痛みが走る。一人でベッドを離れるのは、難しいだろう。

 誰も見ていないテレビにはワイドショーが流れていた。やることもないので、僕は漫然とそれを眺める。つまらない。それにしてもさっきから人を紹介するテロップに書かれている「認」の文字と数字は何を示しているんだろうか。前に見た時は、なかった気がする。

 それにこの番組のMCは物議をかもす過激な発言で有名な芸能人だったハズだ。しかし、実際には好感度ランキング一位の男性アナウンサーが写っている。前から降板するというウワサはあったが、とうとう交代したんだろうか。放送の内容は国営放送のニュースとたいして変わらない。事実を淡々と述べるだけだ。もし、これがてこ入れだとするなら、失敗だろう。

 くだらない番組に飽きて、ベッドの脇にあるテーブルを見ると僕のスマートフォンが置いてあった。よっしゃあ。あれがあれば、暇を潰せる。手を伸ばして電源を入れた。

 あれ? 待受は僕が好きなマンガのキャラクターの画像にしていたハズなのに、現れたのは初期設定の待受だ。事故の衝撃で初期化してしまったのだろうか。設定をしなおさなくちゃ。

 操作を始めようとして、僕は気がついた。そうだ。一週間経っているなら、あのマンガの最新話が掲載されている雑誌が発売されているに違いない。病院の売店にあったら、母さんに買ってきてもらおう。僕はメッセンジャーアプリを立ち上げて、母さんへお願いのメッセージを送る。

 ついでに友だちから来ていたメッセージに返信をするため、SNSを立ち上げた。すると、マイページにまた「認」の文字と数字の5が表示されている。

 これ、さっきのワイドショーでも出ていたよな。何なんだろう。僕が意識を失っていた一週間のうちにできたものなのだろうか。

 変な規制だったら嫌だな。最近、ネットでコメント欄が非表示にされたり、ユーザーの言論を管理するような仕様の変更がされるようになった。突然アカウントを凍結された、なんて話も聞く。この文字と数字もその一環だろうか。使いにくくならなければ良いけど。

 まあ、いいや。とりあえず、もらっているメッセージに返信をしよう。僕がスマートフォンを操作していると、母さんが部屋へ戻ってきた。

「裕斗、これで良いの?」

 母さんが差し出してきた雑誌を受け取る。見たことのない絵と作品名が表紙を飾っていた。だが、雑誌名は間違っていない。時期外れの新連載だろうか。

「うん、ありがとう」

 さて、前回はかなり気になるところで終わったんだよな。すぐに続きを読みたい。僕は巻末の目次でお目当ての作品名を探す。

 ない。もう一度見直してみたが、やっぱりなかった。もしかして休載なのだろうか。いや、そもそも目次に載っているほとんどの作品名に見覚えがない。どういうことなのだろう。

 とりあえず中身を読んでみよう。しかし、いくらページをめくっても、やっぱり見たこともない作品ばかりだ。目当ての作品だけじゃなく、心を抉るような展開が売りのダークファンタジーもない。かわいいヒロインたちが続々と登場するちょっとエッチなラブコメもない。辛うじて残っているのは長期連載されているギャグマンガくらいだ。他は絵が綺麗なだけで、幼稚園児向けかと見間違うような内容ばかり。

 流石に一週間でここまで連載作品が入れ替わるとは思えない。ということは、母さんが買ってきたのは、名前が同じなだけの違う雑誌ということだ。けど、そんなことがあり得るのだろうか。わからない。わかるのは、僕が読みたかった雑誌じゃないってことだ。母さんは僕に尋ねる。

「裕斗、どうしたの?」

「この雑誌じゃない」

「けど、あなたが送ってきた名前と同じでしょ。母さん、ちゃんと確認して買ったんだから」

「名前は一緒なんだけど」

「じゃあ、それで良いでしょ」

「違う。僕が欲しかったのは、こんなつまらない作品しか載っていない紙資源の無駄遣いみたいな雑誌じゃなくて」

 その時、大量の物が地面に落ちる音がした。驚いて顔をあげると、母さんが持っていた荷物を地面に落としてしまったようだ。

 まったく、おっちょこちょいだな。だが、その表情を見て僕は言葉を失う。顔は血の気を失って、真っ白になっていた。口はぽかんと開き、小刻みに震えている。

 訳がわからない。さっきまでいつも通りの母さんだったハズだ。なのに、この急変。何かの病気だろうか。だとしたら、周りの人に助けを呼んでもらわなくちゃいけない。だが、僕は部屋の中を見回して、更なる異変に気付いた。

 さっきまで病室内はうるさいくらいだったが、今は物音ひとつしない。母親たちは自分の子どもを守るかのように背を向け、それ以外の大人は微動だにせず、こちらをじっと見つめていた。看護師が通信機らしき物に小声で何かを言っている。

 やがて廊下からバタバタと足音が近付いてきた。さっきの医者と三、四人の看護師だ。事態はよくわからないが、これで母さんを助けてもらえるだろう。

 ホッとしていたのもつかの間、看護師の二人が僕の身体を抑えつけて口にタオルを噛ませようとしてきた。

 は? 訳がわからない。けど、抵抗しなくちゃ。僕は看護師の手を逃れるために身を捩る。身体に痛みがはしるが、そんなものは構っていられない。僕は思わず叫ぶ。

「おい、どういうことだよ。ふざけんな、クソ」

 看護師の僕を押さえ込もうとする力は一層強くなった。医師は叫ぶ。

「危ない。もっと応援を呼んでくれ」

 いや、危ないのはお前たちだ。拘束から逃れようと力の限りベッドを蹴り、看護師の手を逃れようとする。だが、左腕、右足、左足と一本ずつベッドの手すりにベルトのようなもので縛りつけられていった。

 更に看護師たちは体重をかけ、上下運動すら阻むと医者が注射器を取り出す。

「さて、落ち着いてください。動くと変なところに刺さるからね」

 僕は何とかそれを避けようとする。だが、人数が更に増えて、もはや腕はピクリとも動かせない。腕にチクリと何かが刺さる痛みが走った。医者が注射器を押していくと、何かが身体の中に侵入してくるのがわかる。

 僕はせめてもの抵抗に猿ぐつわによって、言葉にならないもがき声を上げ続けた。しかし、徐々に身体に力がこもらなくなっていく。頭の中に白いモヤが増えていき、埋め尽くされる寸前。僕の目は泣き崩れる母さんの姿を捉えた。


 気が付くと真っ暗だった。いや、違う。目隠しをされて何も見えないようにされているだけだ。それを外そうと身体を動かしたが、ほとんど自由が利かない。何かでギチギチに身体を拘束されて、台らしきものの上で寝かされている。封じられていないのは耳だけだ。

 少しでも状況を掴むため、聞こえる音に意識を向けるとエンジン音のようなものが聞こえた。車で移動しているようだ。その証拠に身体が時々、揺れる。

 どうして僕はこんな目にあっているのだろう。さっぱりわからない。遅刻しないために左右確認せず道に飛び出したのがいけなかったのだろうか。それとも医師との受け答えで何か変なことを口走っていたのだろうか。雑誌の悪口を言ったから良くなかった?

 どう考えても、こんな目にあうようなことは思い当たらない。だが、実際には指一本すら自分の意思では動かせない状況になっている。まるで凶悪な犯罪者だ。

 もしかしてトラックに轢かれたことで、特別な能力に目覚めたことが理由だったりして。馬鹿馬鹿しい。それなら、こんな拘束なんてすぐにでも脱出できそうなものだ。

 事故が起きてから、何か変なことはなかっただろうか。思い当たらない。病院にいた以外は変わらない日常だった。敢えて言うなら、僕の好きなマンガ雑誌がくだらないものになりさがっていたくらいだ。いや、待てよ。それを言った結果が、この有り様だ。何か関係があるんじゃないだろうか。

 僕が雑誌の文句を言った時、母さんの反応は異常だった。周りにいた人も同じだ。僕だけが知らない禁忌を犯していたというのだろうか。もしかしたら僕が記憶を失っていた一週間のうちに何かあったのかもしれない。そういえば、テレビやネットで見た「認」の文字と数字。あれは僕が知らないものだ。何か関係があるのだろうか。

 考えているうちに、車が止まったようだ。ドアが開く音がした後、カチャカチャと金属同士がぶつかる音と複数人分の靴音、車輪が回る音がする。頬に風が当たった。僕はストレッチャーに載せられたまま、移動させられているのだろう。

 機械が何かを上げる音が何回かした後に、僕を載せていたものは動くのを止めた。何人かの人間に持ち上げられ、僕は椅子らしきものに座らせられる。

 複数人の靴音が遠ざかり、突然目元を覆っていたものが外される。そこは殺風景な部屋だった。テーブルがひとつあるだけで、土色の壁には一切窓がない。目の前にひとりの若い女性が座っていた。

 二十代くらいだろうか。ショートカットで警察官のような服装をしている。こちらを見つめる大きな瞳は、まるで新しいオモチャを喜ぶ子どものようだ。と思うのは考え過ぎだろうか。彼女はテーブルに置かれていたファイルを取り、それに目を通す。

「橋本裕斗、十七歳。言管法二百四条違反か。困ったものだね」

 大きくはないが、ハッキリした発音で言った。困った、という単語もなんだか事務的な響きだ。彼女は僕の後ろに目を向ける。

「話を聞きたいから、口枷も外して」

 はい、という男性の声がして、口にはめられたものがようやく外された。すかさず僕は彼女に尋ねる。

「どうして、僕はこんな目にあっているんですか」

「どうしてって。君、言論管理法に違反したでしょ。この期に及んで、そういうのは良くないな」

 彼女はファイルに目を落としながら、答えた。

「言論管理法? 何なんですか、その法律。僕が事故で意識を失っているうちにできた法律なんでしょうか」

「いやいや、君も小学校に入った時に習ったでしょ。見苦しいよ、その言い訳」

「そんな。本当に知らないんです。ウソじゃありません」

 彼女は黙って僕の瞳をじっと見つめた。その眼力はまるで猛獣のようだ。わき上がる「逃げ出したい」という気持ちを抑えて、何とかこちらも目を合わせた。お互いに黙ったままの状況が一分くらい続いただろうか。彼女は腕を組んで、首を傾げる。

「ふぅん。まあ、君が本当に言論管理法のことを知らなくても、何か変わる訳じゃない。一定期間の教育をしなくちゃいけない状態なのは確かだから」

「教育?」

「そう。正しい口のきき方を覚えるまでは、この保護施設からは出られないよ」

 若者が使う日本語が乱れている、なんていう大人の言葉を見たことがある。この施設は正しい日本語を教える施設なのだろか。僕は思わず口走る。

「そんなことのために、こんな人権侵害をするんですか」

 彼女は口笛を吹く。

「ビックリだ。他人の人権を侵害した人間からそんな言葉を聞くなんて」

「僕がいつ、人権侵害をしたっていうんですか」

「君が拘束された時。雑誌に対して、君の認証レベルでは許可されていない侮蔑的な言葉を使ったでしょ。君を保護しようとした人にも暴言を吐いたね」

 あの程度の言葉でこんな目にあわなくちゃいけないなんておかしい。

「暴言って。よってたかって押さえつけようとされたら、文句のひとつも言いたくなるでしょ。大体、認証レベルって何ですか」

 彼女は鼻を鳴らす。

「認証レベルを知らないだって? 狂人を装おうっていうのかい? この国の人間だったら、誰だって知ってる。その人が言って良いことを決めたものでしょ」

「国が何を言って良いのかを決めるなんて、言論の自由の侵害じゃないですか」

「言論の自由ね。けど、自由権が認められるのは、他人の権利を侵害しない範囲だ。適切な規制をしなければ、より多くの人権が侵害される」

「何が適切なのかを決めるのは誰ですか」

「国だよ」

「そんなの言論統制じゃないですか」

「統制? 違うよ。管理だ」

 彼女はわかるでしょ、と言いたげにお手上げのポーズを取る。

「そんなの言葉遊びだ。国が管理すれば、権力者に不都合な言葉を恣意的に制限できてしまう。そんなことは許されない」

「批判を許さない訳じゃないさ。けど、言葉は時に人の心を傷付ける。そんなものを野放しにする訳にはいかないでしょ」

「けど、それは言葉狩りだ」

 自由な言論を阻害する。そう言おうと一呼吸開けた隙をついて、彼女が発言に割り込んできた。

「違うよ。例えば、銃器は所持を規制されているでしょ。扱い方を知らなければ人を傷付けてしまう。言葉も同じだ」

「言葉は違う」

「そんなことないさ。言葉でも人を傷付け、時に命を奪うことがある。一部の言葉はきちんと使い方をわきまえた人間以外に使わせたら、危険だと思わない?」

 SNSの誹謗中傷がきっかけで起きた悲劇のことが頭に浮かんだ。ポータルサイトのコメント欄に攻撃的なコメントが並んでいると、自分が責められている訳でもないのに辛くなることもある。反論が思い浮かばないうちに、彼女は続ける。

「しかも、言葉は多くの人がタダで簡単に利用できる。イカれたヤツもね。そんな奴らが凶器を持って、自由にうろついている世界で暮らしたい?」

 彼女は身を乗り出して机を叩き、僕に迫ってきた。思わず背筋にひんやりとした寒気がはしる。まるで日本刀の切っ先を目の前に突きつけられたみたいだ。僕は辛うじて言葉を漏らす。

「そんなの詭弁だ」

「かもね。結局は価値観の違いだよ。自由の国じゃ、自己防衛の権利の元に銃も言論も全ての人に開放されている。実際に多くの犠牲を払いながら、ね」

 彼女の言葉に違和感を覚える。だが、どんな風に反論したら良いのか。胸の中にあるモヤモヤを上手く言葉にできない。けど、何か言わなくちゃ。

「でも、言葉の規制は議論の抑制につながる。コミュニケーションを萎縮させれば、お互いに理解し合えない。その結果、かえって悲劇が生まれるのでは?」

「だから、適切な議論を促進するために認証レベルの認定制度があるんだよ」

「認証レベルって何ですか?」

「言論管理局が行うテストに合格することで与えられる資格。レベル5の君は侮蔑的な言葉を使えない。だから、ここにいるんだよ」

 そういえば、病院でSNSを見た時にそんな表記を見た。テレビのワイドショーに出ていたのも、それか。けど、僕はそんな制度は知らない。でも、このお姉さんは「小学校で習った」と言った。言論管理法以外にほとんど違いがないからわからなかったが、もしかしてここは事故にあう前とは違う世界なのかもしれない。

「で、僕はこれからどうなるんですか」

「ん。事故のショックなのか、基本的なことを忘れているみたいだから改めて教育を受けてもらう。この様子なら、ケガが治るまでに君は自由の身だ」

 思ったよりも酷い目にはあわないようだ。僕は彼女に確認する。

「じゃあ、僕は帰れるんですね」

「うん。だけど、教育期間中は外出も、外部との連絡も禁止だよ」

「えっ? 何でですか」

「言葉という凶器の扱い方がわかっていない人間を野放しにはできないでしょ」

「そんな。その教育期間、ちょっとでも短くならないんですか」

「ならない。受ける時間数は法律で決まっているんだ。言論特別職を目指すっていうなら、特別扱いもできるけど、」

 彼女は言いかけて、急に笑顔に変わった。何だか嫌な予感がする。

「そうだ、橋本裕斗くん。君、言論特別職を目指してみない?」

「なんなんですか。それ?」

「言葉に関する業務を行う専門職の公務員。私みたいに言論管理法違反者の教育をしたり。外交関係の折衝を専門にしている人もいるよ」

 なるほど。この女性も政府の職員だったってことか。外交の場所で交渉を担当するなんて、格好良い。けど。

「僕に、務まりますかね」

「うん。話をした印象だけど、橋本くんは才能があると思うよ。言論特別職を辞めた後に、キャリアを活かしてメディアで活躍している人もいる」

 そんな有名人みたいになれる可能性が僕にもあるのか。しかも、専門家から「才能がある」って言われると、いやがうえにも夢が広がってしまう。

「わかりました。挑戦してみます」

「オッケー。言論管理法が施行されて以来、才能がある人材が足りていないんだよね。しかも、君みたいな普通の子。受けてくれて良かったよ。それも外すね」

 さっき口枷を外してくれた男性が、僕の身体を拘束している器具をひとつずつ外してくれる。

 全てが取り除かれると、久しぶりに少しだけ自由が戻ってきた気がする。女性が扉を開き、僕に手招きをした。明るく開かれた外へ、僕は松葉杖に支えられながら、一歩。足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言論管理法 藤間 保典 @george-fujima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る