第13話

「待ってたよ」

 トオルはそう言って迎え入れた。五街第三高校、その玄関口。特別に、と、土足のまま上がらせてくれた。

 休日の校舎は熱気不足。はしゃぎ声も、友の名を呼ぶ声もなく、ただそこに満ちる静寂。長く伸びる廊下には、三人の靴音がこだましていた。

「ライはまだここが似合うな」

 不服そうに口を尖らせ反論が飛んでくる。

「どういうことですか?」

「初々しいって意味だよ」

 トオルが楽しげに混ざってきた。

「誰が言ってるんだか」

 今度口を尖らせるのはこちらの番。

「どういうことだよ?」

「若々しいって意味だな」

「同い年だぞ。ライ、笑ってんの聞こえてる」

「ふふふ。すみません」


 屋上へと続く階段を一列で登る。あの頃みたいだと思った。ふと踊り場で立ち止まるトオル。

「カイト」

「ん?」

「俺は共犯者になるのか」

「共犯も何も、誰も罪など犯していない」

「だけど、教員が居なくなったって、騒がせたろ」

「いいんだ。個人的に追っていただけで、誰も迷惑してないから。公務執行妨害とか、そんな大ごとにはならないし、させない」

「先生、どうぞご安心ください。先輩はハイパー優秀な方なのでどんな案件も」

「ライ。少し黙っとけ」

「あい」

 そこで弾けるトオルの郎笑。灰色の階段が、心地よく反響させた。続けてこぼれた本音は意外なものだった。

「懐かしい」

「何が?」

「いや。カイトは変わったけれど、変わらないんだなあって、思って」

「哲学的だな」

「単純なことだよ。俺たちは大人になった。抱える責任も、身を置く居場所もあの頃とはまるで変わった。義務とは違い、自分で選んで変わってきた。だけど、本質は君のままだ。カイト、優しい君がそばにいる。それが嬉しい」

「今後も優しくあれって戒め? それともこの後俺が死ぬって思ってる?」

 トオルならそんなこと嘘でも言わないって分かってる。だけど、気恥ずかしくて抗わずにはいられなかった。

「ハハハ。そういう素直じゃないところも変わらないな」

「うるせえよ」

「それに死なれちゃ困る。白髪になるまで、友達でいてくれるんだろ」

「……言われなくとも」

「先輩は白髪になる前にツルツルになる気がします」

「だからお前なあ!」

 それがトオルのツボに入ったことは言うまでもない。


 屋上の扉を押し開く瞬前に振り返るトオル。

「先客がいる。だが彼は、教員失踪お騒がせ事件とは無縁だ。自分の意志でここに来た」

 驚くことはなかった。予期していたことだった。

 柔らかな光さす屋上、青空の下。強めの風が揺らす襟足。欄干に身をもたせかけ、空の中に待ち人を探す君。こちらの足音に気づき、振り向いた。

「兄貴」

 心配されるのが嫌いで、下手くそな微笑みを浮かべる様子が彼らしかった。

「タクト、こっち来い」

「なんで?」

 瞬時に崩れるタクトの強がり。一気に深まる眉間の皺。いつもの反応だった。

「いいから来い」

 渋々、嫌々。そんな四文字が似合う足取りで進む彼。目の前で相対しても視線は外れたままだった。それでよかった。抱きしめるには、丁度いい。

 強ばった細い指が、俺の背を撫でる。

「頼んだからね」

 目元を隠すよう俯いて、腕の中を抜け出ていった。階段を降りる音を背に受けながら見下ろす肩口には、落涙の跡が残っている。

「世話の焼ける弟だ」

「可愛いって意味だろ」

 そのトオルの言葉には、答えずにおいた。


「先輩」

 端的に告げられるライの警報。トオルは「見届けるから」とその場に残った。


「そのうち翅も消えるのかしら」

 どことなく張りを失った危うい翅。欄干に手を預けてようやく着地。そっと翅を格納しつつ彼女は言った。

「風を強く感じるようになったわ」

 風の読み方を忘れぬよう、時折闇に紛れて羽を広げているのだと続けた。そう話す姿は、この先に待つ答えを逡巡するようにも見てとれた。

 だけど、俺たちは、立ち止まるわけにはいかないから。


「フレイア。もう終わりにしよう」

「何を?」

「夢を待ち続けることだ」

「諦めろと言うの?」

「違う。もうわかっているんだろ。幸せに手を伸ばす時、誰の許可も要らない。そうしたいならすればいい。俺の視点と君は関係ない」

「でも……」

「俺は誰かに言われて手当てしたわけじゃない。君の傷を治したくて、少しでも痛みが消えればと思って、望んでそうした。たとえ今どんな影響を受けていようとも、後悔なんかしていない。それでも、君から見て不幸だと言うのなら、俺はそれを全力で否定する」

「……カイト……」

「人でも獣人でも、好きな姿で生きたらいい。どちらか一方しか選べないなら、その中で最大限自由にすればいい。俺の中に失う世界が残ってもいい。気にするな。見えなくなっても、会えなくなっても、思い出までは消せないだろ」

「……」

「それが俺の答えだ」


 彼女は泣いた。泣いて泣いて、泣いた。


「カイト。私はこのまま、私でいていいのね?」

「ああ」

「力が暴走して何か消しちゃっても、怒らないでね?」

「安心して消せ。そこまで器の小さい奴じゃない」

「……」

「タクトのこと気にしてるのか? そのときはそのときだ。見えなくなるだけで、無事にしているならそれでいい。トオル、面倒見てくれるだろ?」

「任せろ」

「だってさ」


「……うん」


 流れゆく涙をそのままに、黒の右手を太陽にかざした。


「よかったあ」


 顕現する翅、徐々に広がる彼女らしさ。だがその刹那、突風に煽られ体がぐらつく。華奢な羽は制御を失い、風に押し倒され宙に浮いた。

「フレイア!」

 人生一の速さで駆け寄り、流れるように欄干から身を乗り出して掴む細腕。翅は既に姿を消していた。

「カイト離して。あなたまで落ちちゃう」

「馬鹿言うな! トオル!」

「言われなくとも!」

 あっという間に駆けつけた彼は、俺の体を引っ張り体重をかけ、確かに支えてくれた。

 無論、ここで黙って見ているライではない。

「先生! 体育準備室は何処です?」

「はい?」

「授業とか部活で使う体育道具しまってるとこです!」

「ああ、ええと。あそこに見える青い扉のプレハブ。鍵が閉まって」

 そこまで聞いたところで駆け出すライ。遠ざかりつつ返答する。

「鍵壊させていただきます!」

「カイト、あれは許可願いか?」

「修理費は出す。だが今は冗談抜きにしてもっと重心下げてくれ」

「ほらよ!」

 安定感を増した体勢で、素早く準備を整える。

「フレイア。そっちの手も貸せ」

「だめよ。こんな状態で触れたら、あなたまで消してしまうかもしれない」

「こんな時に何の心配してんだ」

「ねえ離して」

「やめろ」

「離して!」

「ふざけんな!」

 トオルの腕の力が強まった。

「ふざけんな。俺がそんな諦めのいい男に見えるかよ」


「先輩!」

「兄貴!」

 二人同時に呼ばれ軽く視線を移す。大きな緑色のゴールネットを携え運んでいた。フレイアの真下でネットを広げてピンと張り、真顔で叫んだ。

「先輩、落ちてください!」

「はあ?!」

「兄貴、早くしろー!」

 その立ち位置から階下の様子が見えないトオルは相当混乱しているらしい。

「カイト、早まるな頼む!」

「おう」

「先輩!」

「兄貴!」

「……ったくどいつもこいつも」

 彼らの意図は掴んだ。だがこちらにもタイミングがある。


 覚悟を決めて、トオルに告げる。

「トオル。その力抜いてくれ」

「気は確かか」

「ああ。タクトたちが守ってくれる。大丈夫だ、助ける」

「助ける、じゃない。助かる、だ」

「わかった。助かる」

「約束したからな。いくぞ」

 重しを失い一気に前のめりになる体。簡単に足が浮いて、あっという間に空の中。風を切り落下しつつ、フレイアを抱き寄せる。地上を眼前にして、地に背を向けた。

「せーの!」

 ライの合図でさらに張られるネット。その中央で受け止められ、体を地面に強打することは避けられた。が、勢い余ってそのままバウンド。気づけばそばの砂場に不時着していた。

「痛ってえ」

「カイト!」

「先輩!」

 こちらを見下ろす顔が二つ。せめぎ合って、不安がって。何故か急に込み上げる笑み。

「ひどい顔だな」

 もちろん反論する面々。

「先輩、砂だらけの姿でそう言われても説得力ありませんからね」

「兄貴さあ。その前に言うことあるよね? それよりフレイア大丈夫?」

「うん」

 そしてそこに加わるトオルの声。

「おお。盛り上がってるな」

 さすがの俺も、卑屈にならずにいられなかった。

「俺を心配してくれる人はいないのかよ」


そして弾ける笑い声。皆で一緒に味わった。飽きることなく、ずっと。





 あれから二年。いつもの慌ただしいフロア。捜査に追われる日常。

「先輩、この後の捜査会議ですけど」

「ああ、ごめん。少し抜けるな。午後には戻る」

「了解です。珍しいですね。体調不良ですか?」

「いや。タクトから連絡あって。姪が産まれた」

「おめでとうございます! 伯父さんに昇格ですね!」

「……何かその言い方は複雑な気持ちになるからやめろ」

「おじさま〜!」

「うるさい〜!」

 そしてひとしきり笑って送り出された。


 俺はこの街のガーディアン、キノシタ・カイト。

 今日も守るべきものを守る。

 守りたい人々の、笑顔を想って。

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