第10話
大好きだったパパにはもう会えない。忘れたくなくて、絵に描いて、ずっと一緒にいてもらおうと思った。
鉛筆に手を伸ばす。消えた。
画用紙を引き寄せる。消えた。
青い色鉛筆。消えた。
怖くなって、パパがくれたテディベアを抱きしめた。
消えた。
「ママ!」
ママの甘い香りがした。
ねえ、ママ。聞いて。私の世界から、みんな逃げていくの。
私を残して、消えていくの。ほら見て。
「触らないで」
「ママ……?」
「何にも触らないで。私にも、触らないで」
*
ママとさよならして、知らない街に来た。誰も私を知らない場所。
セキュア。それが私の新しいお家。五街第二小学校と、新しいお友達。不気味なグローブをしていても、誰も怖がったりしない。嬉しかった。手を繋いでくれるお友達。ただそれだけで、ここにいていいのだと、許されている心地がした。
「バイバイ」
学校からの帰り道。友達と別れて、近道をすることにした。でも、未だ慣れない通学路。どこかで道を間違えてしまった。気づけば見知らぬ場所にいて、学校の方角も家への道も検討がつかない。焦って走り、段差に躓いた。膝を擦りむき、赤い血が滲む。
お家に帰りたい。足が完全に止まった。道端に座り込んだまま、涙を堪えた。
「フレイア」
誰かに呼ばれて目を開ければ、綺麗な夕焼けが飛び込んできた。綺麗だけど、目が重い。泣き疲れた証拠だった。
「フレイア?」
声の方へ視線を移すと、オレンジ色の光を受けて瞳を輝かせるお友達。無意識のうちに両手を伸ばした。迷うことなく応えてくれた。しばらくして、気恥ずかしそうに体を離す彼。
「足、大丈夫?」
彼が指差す私の膝。怪我した場所に、水色の絆創膏が貼られている。だけど傷の方が大きくて、赤色がはみ出ていた。
「立てる?」
差し出された手を借りて、立ち上がる。足は全然痛まなかった。解ける互いの手。夕日に向かって歩く君。
「ねえ。どうしてここがわかったの?」
「友達の家が近いんだ。遊びに行った帰りだよ」
少し歩いたところで、見慣れた景色が広がった。
「じゃあね」
そう言って背を向ける彼の手を取った。自分でも驚いたけど、伝えたいことがあったからだと思う。
「ありがとう。カイト」
照れくさそうにする君から、甘い香りがした。それはなぜか、ママに似ている気がした。
*
「迷子のお呼び出しをしまーす。ウエダさあん? ウエダ・ライナルトさんはいらっしゃいますかあ?」
目の前の彼は、パソコンから視線を上げて首を傾げた。
「ウエダでーす?」
「でーす、じゃねえよ。何だこの資料は?」
俺のパソコンで開いているのは、彼からメール提出されたレポート。キャリア形成の一環として、定期的に個人目標の進捗度を確認しているのだが、冒頭の個人目標欄には「先輩みたいになる」とある。前回の報告内容とまるで違う。
「あ。添付資料を間違えました」
そして送付された資料は、完璧そのもの。
「少しは笑ってもらえましたか?」
「え?」
今度はデスクに一口チョコレートが届けられる。
「最近休まらないようでしたので」
「ごめん。無駄に心配かけたな」
「いえいえ。とんでもない。でも、相当お疲れなのでは? まさか先輩がパンツのファスナー上げずにフロアを闊歩するとは夢にも」
「いつ?! どこで!?」
「今さっきです」
「はあっ?!」
即座に確認するも、ファスナーはきっちり閉じられセキュリティ万全だった。ハッタリだった。
「マジで勘弁しろ」
「ふふふふ。……どうしました?」
「今ので思い出した」
「過去のファスナー全開事件ですか?」
「そんなわけあるか。もっと真剣なやつだ」
「え……つまり……もっと変態なやつ?」
「おや? ウエダさんは怒られたいのかなあ?」
*
高校二年の秋。木枯らしの頃。砂埃の舞う校庭でのサッカーは楽しくもあり、コンタクトレンズ着用者には地獄でもあった。体育の授業を終えて、一目散に手洗い場へ。とにかく目を洗いたかった。こうなったら仕方ない、予備で置いてある眼鏡に変えよう。
蛇口を捻ったところで、首元に何かが触れた感覚を覚える。滑らかで濡羽色のそれは、そのまま石タイルの上に落ちた。女性用の下着に見えた。ギョッとして硬直する体。タイミング悪く、追い討ちをかけるように呼ばれる名前。何もやましいことはしていないのに、振り向く勇気が出ない。今すぐここから逃げ出したくなった。
「カイトったらー!」
渋々校舎を見上げ、声の主を探す。ベランダから身を乗り出すフレイアがいた。振っている右手が素手だった。首に触れたのは、彼女のグローブだった。
グローブの水気を取り、何となくそのままタオルで隠して教室へ向かうことに。ちょうど階段の踊り場で合流した。
「ごめんね」
妙に距離を置きつつ彼女は言った。美術の授業中に絵の具で汚してしまい、外して拭おうとしたところ、勢い余って落としてしまったそうだ。
「何でベランダで外したの? 水道で洗えばいいのに」
「誰かや何かに触れたら、大変だから」
「そっか。やっぱりフレイアは優しいな」
差し出された両手にグローブを乗せる。同じ手で握っていたタオルが、偶然彼女の手に触れてしまった。刹那、タオルは無色透明に。完璧な手品を見せられた心地がする。
「おお。消えた」
「え……消えたの?」
「うん」
「あなたも……見えないのね……ああ、あの時」
どうしてだろう。恐怖にも似た驚き顔を浮かべ、後ずさる君。どうにか安心して欲しくて、俺は元気を装った。
「気にするなって。ただのタオルだし。それに、前にその能力のことは聞いてたから、怖くも何ともない」
「……ごめんなさい……」
俺一人が置いてきぼりにされている心地だった。謝ってほしい訳じゃない。その理由も言わなくていいから。
俺のせいで、そんな悲しい顔しないで。
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