ディストーション
木之下ゆうり
第1話
小学二年生、始業式の朝。寝坊した弟を急かしながら、いよいよ玄関を飛び出る間際、背後に響く母の注意。「車に気をつけなさいね」だったと思うが、今はそれどころじゃない。爽やかな春風も、今日はただの向かい風。
「カイト、ごめん!」
本気の謝罪だったけれど、立ち止まる余裕などない。むしろ更なる反省をしてもらわねば。
「パズルは止まらなくなるからやめとけって言ったじゃん!」
「今日はやならいよ!」
「嘘ついたら針千本な!」
真っ直ぐ伸びた歩道を彩る二つの空色ランドセル。その頭上を、桜の花びらが舞い散っていた。
「カイト待って!」
そう聞いておきながら、振り向いた時には既に、タクトは公園前で足を止めていた。
「よそ見してる場合じゃないよ。早くして」
「誰か倒れてるの」
言い終わらぬうちに、公園の中へと吸い込まれてしまった。
膨らむもどかしさが急かし続けるけれど、独り残して進むほど薄情にはなりきれない。そして何より、その誰かを助けなければという責任感に強く背中を押され、渋々駆け戻る。
狭い公園、その隅に生えた孤独な桜の木の下に、黒いものが置かれていた。距離を置いて見る限り、全容が把握できず、第一印象は「もの」だった。一方のタクトは怖いもの知らず。様々な角度から見て分析している。
「タクト、それ何?」
「獣人の女の子だと思う」
「どこが?」
「あれ、翅だよ。大きな蝶の翅」
ヒントのおかげで定まる認知。あっという間に、目の前のものがヒトに見え始めた。
それは確かに女の子だった。背を向けて地面に座り、左の体側を木の幹に預けている少女。背中には、目を見張るほど美しい蝶の黒翅。背丈とほぼ同じ大きさのそれを静かに閉じ、文字通り、羽を休めている。
正体が判明した途端に、驚きが湧いてきた。
身に纏うもの全てが黒色なのはどうしてだろう。
腰元まで伸びる髪、長袖シャツ。パンツに靴下、運動靴。両手には黒いグローブがはめられ、皮膚以外に彩度が無い。第一印象が「もの」だったのも頷けた。
「カイト、どうしよう。救急車呼んだ方がいいかな」
「獣人の子が行ける病院は、ここから遠いよ。ガーディアンさんか、バランサーさんを呼ぼう。えっと、電話は」
「私がどうかしましたか?」
急に割って入った第三者の声に大きく震える両肩。振り向けば、パン屋の紙袋を抱えた見知らぬおじさんが微笑んでいる。彼はゆっくりと膝を折り、こちらの目線に合わせて話し始めた。
「驚かせてしまってごめんなさい。バランサー、と聞こえたもので。聞き間違いでしたか?」
「え? もしかして、バランサーさんですか?」
「ええ。はじめまして、ですね。ヒラツカといいます」
ミントグリーンのシャツの袖を軽く引き上げ提示される、バランサーの証明たるブレスレット。
バランサーとは、いかなる宗教や権力にも加担せず、公平中立の立場を貫く独立した存在だ。街ごとに置かれた「セキュア」と呼ばれる拠点に駐在し、救いを求める者たちの相談役や保護をするなど、分け隔てない自立支援をしている。
ヒラツカさんは、バランサーとしての経験は長いものの、この街に赴任してまだ二ヶ月だと言った。
「カイト、起きたよ!」
目元を擦り、両腕にシンクロしてストレッチされる翅。ようやく振り向いた顔は幼さを残し、ちょうど僕らと同い年くらいに見えた。しかしこちらの存在に気づいた瞬間、全身を強張らせ、その表情はみるみるうちに恐怖の色に染め上げられていく。
「大丈夫? どこか痛い?」
タクトが手を差し出しても、彼女は怯えて後ずさるばかり。
「こっちに来ないで!」
次第に、銀色に煌めく鱗粉が翅からうっすら溢れ始めた。今にも泣き出しそうな顔で必死に止めようとしているのに、勢いは増す一方。
「これはこれは」
ヒラツカさんが駆け寄り、そっとタクトの肩に触れた。
「君は、少し離れたほうがよさそうですよ」
「はい」
急に不安に襲われたのか、僕の背後に身を隠すタクト。一方のヒラツカさんは彼女の目の前に跪き、柔らかい微笑みを向けている。それでも、彼女の震えは止まらない。
「どこか、体の痛むところはありますか?」
「来ないで!」
そう言って頭を振り、全てを拒む。
「どうぞご安心を。私はバランサーですので、獣能力の影響は受けませんよ。ほら」
躊躇うことなく鱗粉を掬い上げるが、何の異変も示さなかった。
銀色の正体は、重度の麻痺をもたらす劇薬。
数多くの獣人を知るヒラツカには分かっていた。獣能力は、自己防衛本能。これが、生きる術なのだと。
そしてこの年齢で獣能力の自己コントローが出来ていない様子を見るに、普段は発動しないよう抑圧されていたか、コントロール方法を教わることなくネグレクトされていた日常が容易に想像できた。軽く状況観察をする間にも、緊急で保護する必要性が拭いきれない。
「おじさん、だれ?」
「申し遅れました。私はヒラツカ、ここ五街のバランサー。この近くの」
言い終えぬ間に大きく体を揺らす少女。失神し倒れかけた体は、無事ヒラツカさんに抱き止められた。
その拍子に勢いよく舞い上がった鱗粉が、軽く打ち鳴らされたフィンガースナップに呼応して、瞬時にヒラツカさんの手元に集まりサイコロ型に成形され、手のひらに転がり落ちた。
好奇心に突き動かされ駆け寄るタクト。だけど、僕が気になるのは、そこではなかった。
「ヒラツカさん。いま何したの?」
「風の魔法、バランサーの特技です。実際に見るのは初めてでしたか?」
タクトがキラキラ輝く瞳でヒラツカを見上げた瞬間、遠くから響き渡るメロディー。それは授業開始を知らせる学校のメロディーで、つまりは僕らの遅刻確定を意味していた。
一瞬にして瞳がくすみ、喉元まで出かけたであろう質問を消沈させた。代わりに捻り出される懇願の一言。
「ねえねえ。時間を戻す魔法は使えたりする?」
「残念ですが、時間の魔法は使えないんです」
「そっかあ。そうだよね」
魔法はどうあれ、遅刻は遅刻。それでも僕たちには、行くべき場所がある。
「ヒラツカさん。僕たち、そろそろ学校に行かないといけないので」
「ええ、そうでしたね。彼女のことは私にお任せくださいな」
学校帰りにセキュアに寄る約束をして、僕らは再び通学路を直走った。
「さあ。私達も帰りましょうか」
***
少女を保護して二週間が経過。僅かながらも、彼女のことが分かってきた。少女の名はミナヅキ・フレイア。八歳。蝶の獣能力をその身に宿す。鱗粉以外に特異な能力を有しているらしいが、それについてはまだ教えてもらえていない。
推測するに、手のひらがその能力を発動させる鍵のはずだ。何故なら彼女は決してグローブを外そうとしない。特殊な製法でできているらしく、まるで皮膚のような質感のグローブ。光に当たると玉虫色の艶を放ち、美しい。同時に、獣能力の発動を強制遮断する布である証拠だった。グローブ越しなら問題ないと説明しても、両手に触れられることを極端に恐れている。
***
二ヶ月後、薫風の季節。僕たちの通う小学校は、賑やかな朝を迎えていた。ここ、五街第二小学校は人と獣人が席を並べる共学で、在校生の人数が少なく、一学年一クラス。つまり弟も同じ教室にいる。
「おはよう、みんな席に着いて」
ホームルームの時間になり、担任の先生の声が教室に響いた。
「A組に新しいお友達が来てくれました。みんな、笑顔で迎えてあげてねー」
開け放たれたドアの方へ先生が視線を移すと、つられて生徒も一斉に顔を向ける。新しいお友達が、先生の隣に立った。ひどく緊張した様子で俯いている。
瞬時に隣席のタクトの視線が刺さる。応えると、驚きよりも、喜びを満タンに宿した瞳だった。その理由は明白。僕らの新しいお友達が、公園で会った女の子だったからだ。自分たちと同じ制服を着て目の前に立ち、大きな翅の代わりに桜色のランドセルが背負われている。
「お名前を教えてくれるかな?」
ランドセルの肩紐を握る黒いグローブが光った。無言のまま先生を見上げ、どうしてよいか分からない様子。先生はしゃがんで微笑み、小さな肩を両手で包んだ。
「ヒラツカ……フレイア。です。よろしく、お願いします」
「フレイアちゃん、A組へようこそ。今日からよろしくね。じゃあ、みんなも元気にご挨拶をしましょう。せーの!」
「「「こんにちはー!」」」
大合唱に気圧され尻込みする彼女を、先生も笑顔で歓迎している。
「フレイアちゃんは、あの席に座りましょうね」
窓際の、前から二番目。日差しを浴びて待つ空席がひとつ。
「周りの子たちはいろいろ教えてあげてね。後ろのトオルくん、クラスリーダーとして頼むわね」
「はーい!」
一つ後ろの席から、元気よく応えるトオル。大きく手を振り呼んでいる。緩やかなつり目にキャラメル色の短髪。潔く額を出した髪型が、華やかな印象を与える人気者。彼女の着席瞬前、トオルがさっと手を差し出した。
「俺、トオル。よろしく」
躊躇いがちにゆっくりと差し伸べられる黒い手を、トオルは迷うことなく迎えにいった。
「手、温かいな」
「……ありがとう……」
途端に始まる握手会。一向に収集がつかず、いよいよ先生の制止が入る。
「みんな、ごめんね。授業が始まる時間だから、ご挨拶は休み時間にしようね」
「「「はーい」」」
握手会に乗り遅れた僕ら二人は、取り敢えず挨拶だけすることに。何しろ、彼女の席は僕らの真後ろ。そして意図せずシンクロして振り向き、同時に動く唇。
((よろしくね))
**********
トオルとタクト、そしてフレイア。四人で過ごした日々が、思い出に変わって久しい。それぞれの道を歩み、大人になった俺たちは今二十七歳。俺たちはもう、自立した大人だ。
過去を懐かしんで、そこに留まっている暇はない。
皆もそう思っていることだろう。
そうやって、過去と決別していた。とある電話が来るまでは。
仕事を終え、駐車場へと向かう途中、胸ポケットで振動するスマホ。着信画面には旧友の名前があり、いつもの食事の誘いと期待して、気軽に応答した。
「もしもし」
淡々と要件を述べていくトオルの様子が、妙に不気味だった。職業病だろうか、思考が仕事モードに切り替わる。
「同僚が行方不明って、どういうことだよ。捜索願いは?」
彼は続けた。
「それがな、全然進展がなくて。カイト、
「急に言われてもな。でもわかった。調べてみる」
聴取のため、翌日会う約束を取り付けて電話を切った。
「跡形もなく存在を消す、か……」
相当腕の良い誘拐犯、或いは獣人が関係しているのだろう。だが、後者の場合であったとしても、痕跡を一切残さないなど至難の業。もし出来たとして、そのような特異な獣能力を持つ者など、そうそういない。
俺が知る限り、該当者は唯一、フレイアだけだった。
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