第三十五話 小料理屋 た恵 1

 先輩のお母さんがいとなんでいる小料理屋さんの屋号は『た」というそうだ。これは先輩のお婆さんの名前なんだとか。


「『た』がひらがなで『恵』が漢字って、珍しい組み合わせですね」

「祖母の名前はひらがなで『たえ』なんだ。だけど『え』を漢字にしたほうが縁起が良いと言われて、店の名前はそっちにしたらしい」

「へー、縁起が良いとか悪いとか、そういうのあるんだ……」

「まあそのおかげか、今のところ潰れることなく続いているわけだけどね」


 市内に戻ってくると、先輩は細い道を迷うことなく、車を走らせる。信号のない四つ角も慣れたものだ。


「最初の頃、このへんの一方通行には本当に苦労しましたよ。道一本ずつ東西南北違うんですもの」

「一度覚えてしまったら、それこそ簡単なんじゃ?」

「簡単じゃありませんよ。細い道が多すぎてどこがどこなのか、さっぱり覚えられなくて」


 実は今もそうなのだ。今どのあたりを走っているのか、大体は想像つくのだが、では今の通りはなに通り?と質問されたら、正解する自信がない。


「まあ郵便屋さんでも迷うっていうからね。うちはまだわかりやすい方だけど、隊長の自宅なんて郵便番号だけじゃわからないから、今まで通りに通り名を書いてくれって、郵便屋さんから頼まれるらしい」

「七桁の意味ないじゃないですか、それ」

「本当にそれ」


 一軒のお宅の前で減速すると、そこの駐車スペースに車をバックで入れた。


「ここが先輩のご実家なんですか?」


 古い町家まちやのたたずまい。だが、私が今まで見てきた町家まちやタイプのお宅より、間口が広いように思う。


「ウナギの寝床ねどこってやつじゃないんですね」

「あー、それね。さすがに自宅と店が同じ敷地内だと狭いんで、隣を買い取って増改築したんだよ。実はこっちが裏口で、表側に店があるんだ。俺たちはいつも裏口を使うけど、今日は店に来るのが目的だから、入るのはあっちからで」

「あ、はい」


 先輩の後について行く。


「もしかして先輩のご実家、いわゆる鉾町ほこちょうの中?」


 地図を思い浮かべながら質問をした。


「よく知ってるね。学生の頃はよく手伝いに出てたよ。今は仕事の都合で難しいけどね」

「本当に京都人なんだ」

「ちなみに隊長の家もだ。あの人の家は四条通の向こう側だけどね」

「隊長も本当に京都人……」


 長きにわたり、伝統的な行事を町内総出で担っているというのは、本当にすごい事だと思う。


「でも、そういうのって、東京でもあるんじゃ? 三社祭さんじゃまつりとかあるよね」

「まあそうなんですけどね。でもほら、こっちのほうが、歴史もめちゃくちゃ長いじゃないですか」


 表に回ると、暖簾のれんがかけられた入口があり、足元行灯あしもとあんどんが置かれていた。引き戸には『準備中』とある。


「ちょっと早すぎましたかね?」


 時計を見ながら先輩を見あげる。


「いや、かまわないよ。本当はもうとっくに営業時間なんだけど、常連さん達が来るのが遅いから、そのままにしてるんだよ。準備中の札はいつも、一番最初に来た常連さんが回収してくれるらしい」

「そうなんですか」

「俺は常連じゃないから、そのままにしておくけどね」

「え? いいんですか? あ、ちょっと?」


 先輩は準備中の札をそのままにしたまま、お店に入っていったので、ワタワタしながら後に続いた。


「ただいま」

「おや、珍しいこと。いつもお盆と年末年始にしか、顔を出さへんのに」


 奥のカウンターにいた女性が、こちらに顔を向ける。


「あら、お連れさんがいるん? ますます珍しいこと」

「れっきとしたお客さんだよ。おかみさん、接客よろしく」


 店内は、その場で靴を脱いであがるお座敷タイプだ。靴を脱いで靴箱に置く。


「おじゃまします」

「好きなところへどうぞと言いたいところやけど、こちらにどうぞ」


 そう言って、自分の前のカウンター席を手で示した。先輩はあきらかにイヤそうだ。


「カウンターの大皿、いろいろありますよ。見たいですから、あそこの席がいいです」

「今日は馬越まごしさんがメインだから。好きにしていいよ」

「じゃあ、あそこに座ります!」


 先輩的には、一番離れたお座敷が良かったのだろうなと思いつつ、そういう空気は読まないことにした。お座布団の敷かれた席に座ると、改めて先輩のお母さんにあいさつをする。


「はじめまして。騎馬隊で牧野まきの先輩にお世話になっています、馬越と申します。今日は先輩に無理を言って、こちらにつれてきていただきました」

「牧野の母です。こちらこそはじめまして。今日は来ていただいて、ありがとうございます」


 そう言ってから隣に座った先輩に目を向けた。


「やっとカノジョさんができたと思うたら、後輩さんやったん? お母ちゃん、ガッカリやわ」

「うるさいよ。ほら、お茶を出して。おしぼりも。それからメニューください」


 いつもの先輩とは違って、めちゃくちゃ無愛想だ。だが自分の弟も母親にはこんな感じだし、息子というのは例外なくこんな態度なんだろうと納得した。


「そんな言うんやったら、自分で出してあげたらええやん」

「僕も客なんですが」

「おやおやまあまあ」


 お母さんは笑いながら、お茶の入ったお湯呑みとおしぼりを出してくれた。


「馬越さんは、京都のおばんざいに興味があるみたいなんだよ」

「あら、そうなん?」

「私、東京からこっちの大学に来たんです。でも大学の四年間では、そういうのに出会えなくて」

「学生さんやったら、おしゃれなカフェとかやもんねえ」


 お母さんは笑いながら、カウンターにある大皿からいくつか小鉢に取り分ける。


「おばんざいって特別なもんちごうて、うちらが普段食べているものばかりなんよ? 適当に見つくろってそっちに出すわね。お口に合えばええけど」

「一応、解説しておくと、右から白和え、フキとしいたけ、焼き豆腐を炊いたやつ、肉のしょうが煮。ちなみに京都で肉と言えば、だいたいは牛肉のことかな」


 説明を終えると、先輩は自分が食べたいものをお母さんに伝えた。そしてお皿の一つに目をとめる。


「唐揚げなんて前はあったっけ?」

「若いお客さんは、脂っこいもんを食べたい言う人もおるやん?」

「じゃあそれも。馬越さんと俺どっちにもください」

「はいはい」


 お皿が前にならんだ。


「では、いただきます」

「いただきまーす!」


 二人そろって手を合わせ、いただきますをした。

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