63.深夜の攻防戦


 はっと目を覚ました時、私は見知らぬ部屋のベッドの中にいた。

 急いで身を起こそうとするけど、異様なだるさに襲われてのろのろした動作になってしまう。


「あ、起きた。水、飲む?」


 机に向かっていたハヤトがこちらを向いた。

 ああ、ここは使用人部屋だ。メイプル男爵家の、住み込み用の使用人部屋。

 彼はラフな部屋着になっていて、そこで勉強をしていたようだ。

 開きっぱなしの本が机に乗っている。


「水……いります。今、何時ですか?」


「んーとね、十一時過ぎたところだね」


「もうそんな時間なんですか!?」


「けっこう寝たねー。慣れない事して疲れてたんじゃない?」


「そうなんでしょうか……。あれ? 私、なんで寝ちゃったんでしたっけ」


「忘れちゃった?」


「うーん……。大奥様のお部屋に行ったところまでは覚えてるんですけど……」


「そっか。まあ、いいんじゃないかな。はい水」


「ありがとうございます」


 冷たい水を喉に流し込むと頭が少しスッキリしてきた。

 いくら疲れていると言っても、今まで生きてきた中でこんなふうに記憶もなく寝落ちしたのは初めてだ。

 いったい、どうしてこんな事に……?


 あっ。

 思い出した。お酒を飲んだんだ。

 だからこんなにだるいのか! お酒、怖っ!

 ジュースみたいだと思ったのにちゃんとお酒だったなんて! なんだか裏切られた気分。


「え、ちょっと待って……大奥様の部屋で寝落ちして……それだけでもじゅうぶんアレですけど、私、ここまでどうやって来たんですか?」


「俺が運んできたんだよ」


「うあー……」


 やらかした。ひどいやらかしだ。

 一度ならず二度までも。決めた。もうお酒なんて飲まない。絶対にだ。

 後悔のあまり膝を抱えてうずくまっていると、彼はポンと肩に手を置いて私の隣に座った。


「大奥様は大丈夫。全部黙っててくれるってさ。んで、早急にアンナお嬢様の結婚相手を決めるって。孫が迷惑をかけて申し訳ないって言ってたよ」


「え!? そんな事を話したんですか!?」


「あー……前に俺の話を男爵が大奥様にしてたみたいでさ。こんな変な体質の人は他にいないから……まあ、バレるよね。俺がアリスの婚約者だって分かれば一緒に来ている女の子が誰なのかも自然と分かるし……。どうして公爵家のお嬢様がこんな事をしているのかって凄く驚いてたよ。それで事情を話したんだ」


「そうですか……。失敗しましたね。まさかお酒で潰れる展開に持ち込まれるとは思わなくて……」


「俺も、アリスが上がる時間までここで休んでていいよって言われて待ってたら急に呼び出されてびっくりした。アリスが潰れてるの見た時はもっとびっくりしたけど」


「ごめんなさい。もう勧められても飲みません。……どうしましょう。今から帰ると言い出すには遅い時間ですよね。皆さんお休みになっているでしょうし……。仕方ありません、今日はこのまま部屋をお借りしてしまいましょう。挨拶なしで帰るより多少マシですから。貴方ももう休んでいいですよ。どうぞご自分のお部屋に戻って――」


「ない」


「え?」


 ないって、何が?


「だから、ない。今日は俺もこの部屋なんだって。ここ、夫婦で勤めてる人のための使用人部屋で、今は空いてるからどうぞ使って下さいって大奥様が言ってた」


 見ると、確かに大きめのベッドひとつ以外には机と椅子、クローゼットしか置いていないような部屋だった。

 だけど水回りやミニキッチンがきちんとついていて、ちょっといい宿屋のような間取り。

 ――そうだ。うちにもこういう夫婦用の使用人部屋、ある……。


「そうですか……。……なんだか、身分を偽って家を引っ掻き回した私達への意趣返しのように感じますね」


「やっぱり? 俺もそう思う」


 とっても気まずい空気になった。


「……えーと……。じゃあ、とりあえずシャワーを浴びてきますね」


 何をどうするにしてもまずはシャワーだ。

 まだ体にお酒が残っているようで足取りが覚束なく、フラフラと歩いて脱衣場兼洗面所に向かった。

 元々今夜は街のほうの家に寄るつもりだったから、身の回りのものは手元にある。着替えなどは問題ない。

 ペチコートの裏側につけた影収納の中から、夜着などのお泊まりセットを取り出す。

 持って来たのはごく普通の、薄手の絹の夜着。腕が出るパフスリーブで襟ぐりが鎖骨辺りまで丸く開いていて、胸元をリボンで締めて閉じる形。


 ……こんな事になるなら、もっと可愛い夜着を持ってくれば良かったな。


 この期に及んで下心がものを言う。

 彼が異性関係に潔癖な理由を知っているくせに、私はどうしてこうもろくでもない人間なんだろう。

 なんだか気分の落ち込みが止まらなかった。


 全身を洗ってシャワールームを後にし、夜着に袖を通して、置いてあったドライヤーで髪を乾かす。


 もう、何でもいいからさっさと寝よう。そう思ってベッドルームに戻ると、ハヤトはまだ机に向かって本を開いていた。

 手元には筆記具とノートがある。勉強中だったようだ。そうだ。彼はまだ学院生なのだから、課題がある。今はそれをやっているところらしい。

 ベッドに乗って、背後から話し掛ける。


「課題、まだかかりそうですか?」


「んー……どうだろう。かかるような、かからないような」


「どういう事ですか……。あれ? そのページ、来週の授業ぶんじゃないですか。そんなに根を詰めて予習しなくても」


 Ⅱ–Aの授業の進行具合はよく知っているので、教科書を一目見ればそこがいつ受ける授業のページなのかは分かる。

 そこはまだ授業で扱っていない内容のページだ。

 学院から出された課題とは関係ない。

 ハヤトは腕で教科書を覆い隠し、そっけない声で言った。


「いいから。アリスはもう寝な」


「貴方はまだ寝ないんですか?」


「あのね、この状況で寝られる訳ないでしょ」


 彼は椅子に座ったまま振り返る。目が本気だ。

 ここで引き下がったら本当に一晩中起きていそうだなと思う。


「じゃあずっと起きてるか机で寝るって事ですか? そんな事させられるはずがないじゃないですか。いいからこっちに来てください。別に何もしませんから」


 とうてい乙女側が口にするような言葉じゃない事を口にしながらハヤトの腕を引く。


「やだ。行かない」


「じゃあ私もずっと起きてます。黙ってたら寝ちゃうので、一晩中話しかけて勉強の邪魔をしますよ。いいんですか?」


 しばらくにらみ合った末に彼はため息をついて椅子から立ち上がった。

 ベッドに腰掛けて、諦めたように背中から倒れ込む。


「あー……。俺、今夜死ぬかも」


「なんでですか。ほら、ちゃんとお布団かけてください。灯り、消しますよ」


「うん」


 風の魔法でランプの火を消す。ふっと真っ暗になり、横になって目を閉じる。

 すると隣にいる人の気配がよく伝わってきた。

 微かな息遣い、衣擦れの音、温かな体温。意識せずにはいられない。

 感覚が過敏になりすぎて身動きひとつ出来ず、じっと息を殺す。

 その時、体の横に置いた手にちょんと彼の指先が触れて大げさなくらいビクリとしてしまった。


「……ねえ、アリス」


「なんでしょう」


「手、繋いでもいい?」


「いいですよ」


 布団の中で、ぎゅっと手を握られた。

 ドキドキして落ち着かなくて握り返したり指で撫でたりしていると、向こうも同じような事をしてくる。しばらく無言で触り合っていたら、彼は体をこちらに向けて私の頭の下に腕を差し込んできた。

 先日やったような腕枕の状態に緊張が高まる。

 頭を引き寄せられて、体ごと彼の方に転がった。背中に腕が回り、きつく抱き締められる。心臓が激しく動いているのが肌に直接伝わってきた。


「……絶対こうなるって思ったから、嫌だって言ったのに」


「やめても良いですよ」


「無理。もう頭の血管切れそう」


 彼のひざが脚の間に入ってきた。内腿を擦られ、脚が絡み合う。

 うなじのところから手が夜着の中に入り込んできて、じかに背骨の上をなぞってきた。

 くすぐったさに小さな声が漏れて身を捩り、彼の背中に腕を回してしがみついた。

 胸元のリボンがするりと解かれ、襟ぐりが緩んで肩からずり落ろされる。

 彼は体を起こして上から見下ろしてきた。


「アリス、お願いがあるんだけど」


「なんですか?」


「俺に闇魔法かけて。眠らせるやつ」


「え!? 貴方に!? 効くんですか!?」


「分かんないけど俺が抵抗しなければ大丈夫だと思う。早く!」


「私は別にこのままで構わないですけど」


「だからそういう事言っちゃダメだって!」


 口ではそう言いながら手が夜着を捲り上げ、太腿を撫で上げてくる。

 きっとこのままいったら明日の朝落ち込むんだろうなぁ……。

 それは可哀想だ。言う通りに眠らせてやるのが優しさかもしれない。

 そう思って、眠りの魔法をかける。

 私の闇魔法は彼に届く前に弾かれて消えていった。


「全然効いてないよ! もっと力を込めて! もう一回!」


 何だその急な熱血指導は!


「抵抗するからじゃないですか! もう自分でかけたらどうですか?」


 彼は私の上に覆い被さり肩に歯を立ててきた。絶妙に痛そうで痛くない少し痛い甘噛み。

 私は彼に抱き付いて完全にOKのサインを出しているのだけど、たぶん今の私達以上に口と行動が真逆な人達はそういないと思う。


「自分で……それこそ効かないと思う。アリスのなら受け入れようと思えるはず」


「しっかり跳ね返してるじゃないですか。もう一回いきますよ? ちゃんと受け入れてくださいね」


 目一杯魔力を込めて眠りの魔法を掛ける。今度は効いたようだ。

 急に動きが緩慢になり、腕の力が抜けてのし掛かる体の重みが増していく。


「……ありがと、アリス」


 彼はとろんとした目で横に転がり、ゆっくりと瞬きを繰り返した。

 私は体を起こして乱れた着衣を直し、上から彼の顔を覗き込む。


「眠れそうですか?」


「んー……、でも念のためもう一回、掛けて下さい……」


 まるで猛獣使いになったような気分になりながら彼の目元に手を置き、もう一度眠りの魔法をかけた。


「おやすみなさい、ハヤトさん」


 ふ、と彼は笑って闇魔法を受け入れる。


「おやすみ。愛してるよ、アリーシャ」


 突然名前で呼ばれて心臓が爆発しそうになった。

 手を退かすと、彼の目はもう閉じられていて。

 静かな寝息を立てている。

 ほ、本当に人騒がせな人……!

 初めて本当の名前で呼ばれた。なんだかすごくびっくりした。

 最初からずっと愛称呼びだったから。


 ――あぁ、そうだ。思い出した。私、アリーシャだったね。

 令嬢だったりBランクだったり教師だったりメイドだったり、色々と迷走してきたけど……どれも全部アリーシャだった。

 色々必死になってやってきたあれやこれは、どれも今の私に必要なことだったのだ。


 なんだか無性に泣きたいような気持ちで彼の横に倒れ込み、眠った彼の腕に自分の腕を絡めてぎゅっと抱き込む。

 目を閉じると、心の底から足のつま先までひたひたと依存性のある毒で満たされていくのを感じた。




 翌朝、目を覚ましたら既にハヤトはいなかった。

 ……いいんだ。どんな顔をして“おはよう”って言えばいいのか分からなかったから。

 むしろこれで良かったのだ。

 ホッとしつつもどこか寂しい気持ちになり、起き上がってベッドを直した。

 とりあえずメイドの制服に着替えて身支度をする。大奥様だけとはいえ身元がバレてしまったので、メイド稼業は今日で終わりだ。

 アンナ嬢はきっともう大丈夫だろう。

 貴族令嬢だって嫌な事には反抗しても意外と大丈夫な事もあると思えたはずだから。

 心が元気になれば、真っ当な生き方こそ良いものだと思い出してくれるだろう。きっとね。


 まだ朝は早く、辺りは静かで薄暗い。

 足音を立てないように気を付けて歩き外に出た。

 箒を持ってきて、玄関扉の周辺を掃き清める。

 少しずつ空が白みはじめ、濃紺から白、金色へと色彩を変えていく天上を眺めながら黙々と掃除をしていると、門扉から真っ黒い人――じゃなくて、ハヤトが入ってきた。


「おはようございます。どちらに行かれていたんですか?」


「おはよ。……どこって訳じゃないんだけど……ちょっと街のほうに」  


 珍しく歯切れの悪い返答。

 ……怪しい。まさか、夜遊び⁉


 私の目付きから不穏な気配を感じ取ったのか、彼は慌てて手を横に振って否定した。


「ち、違う違う! 別にやましい事じゃないよ。ただ……魔物の気配を感じたから」


「えっ? 魔物!? この辺りにですか!?」


「そう。……見つからなかったんだけどね」


 ここは貴族街だ。魔力の流れに歪みが出ないよう水晶を打ち込み完璧にコントロールされている。

 そんなところに魔物が出るなど、あってはならない事。


「どこかの水晶が破損してしまったんでしょうか。調査を依頼したほうが」


「んーとね……。一応、憲兵の詰所には話してきたよ。でも逆に不審者扱いされて大変だった」


「それはそうでしょうね」


 夜明け前に貴族街を歩く黒尽くめの男なんて、不審者以外の何者でもない。


「よく話を聞いてもらえましたね」


「まあ、これがあるからね」


 彼はそう言ってリディル家の紋章の指輪を嵌めた左手を見せた。

 確かに。それを見せれば大抵の場面は切り抜けられる。


「……何事もなかったのなら良かったです。でも、一体どうしたんでしょうか」


「……分からない。今も、消えてない気がする」


「気配がですか?」


 こく、と頷いた。

 私にはちょっと分からない。多少感覚が鋭くなったとは言え、彼ほどには確実なものじゃないのだ。


「憲兵に調査を依頼したのならお任せする以外に無いですね。もし本当に出たら大騒ぎになりますから、そうしたら出動しましょう」


「そうだね。……じゃあ、借りた部屋の片付けでもして来ようかな。まだやってないでしょ?」


「はい、まだ時間が早かったので。お願いしても良いですか?」


「いいよ」


 太陽が完全に顔を出して、朝の新しい光が世界を塗り替えていく。

 それに伴って彼も月夜の色から元の色に戻っていくのが、帽子から僅かに出ている髪の様子で分かった。

 使用人用の出入口から邸内に入っていく彼を見送り、私も掃除を終わらせる。

 それから洗面器に熱めのお湯を張ってガーゼのタオルを用意し、大奥様の部屋に向かった。


「おはようございます」


「あら……おはようございます。もうメイドの真似事などお止めになったら? 私、どう対応して良いか分からないですわ」


 言葉遣いが完全に社交用のそれになってしまった。

 もう気安く本心を話してはくれなさそうだ。

 仕方ない……。彼女は何十年もこの階級社会で生きてきた人なのだ。その生き方に誇りがあるからこその言葉遣いだと私には感じられる。

 少し寂しく思いながらガーゼをお湯に浸し、絞ってベッド上の彼女に渡した。


「何の事でしょうか。私、昨晩の記憶が無いのです。仕事終わりにこちらにお邪魔したところまでは覚えているのですが、何かありましたか?」


 大奥様は苦笑いをしながら顔を拭き、立ち上がって使ったタオルを自分で洗面器に入れた。


「……私がやりますのに」


「わたくし、今はこんなですけど、昔はとある伯爵家の奥様の侍女をしていたのですよ。メイドほどには雑用はしませんでしたが、身の回りの事くらい自分で出来ます」


 そう言ってクローゼットに行き、深い青のベルベットのドレスを選び出す。


「貴女には今日限りで暇を取って頂きますよ。あまり時間が遅くなるといけませんから、お昼には子爵と一緒にご帰宅下さいませ。それと、あのメイドは本日クビを言い渡します」


「あのメイド?」


「貴女に怪我をさせたメイドです。私では家を代表する事は出来ませんが、不在の息子に代わって不始末をお詫びいたします。誠に申し訳ございませんでした」


 膝を折って頭を下げる大奥様。内心慌ててしまい、急いで姿勢を直して頂く。


「お止めになって下さい。私はどこの者とも知れない怪しいメイドです。怪我ももうほとんど何ともないので、どうかお気になさらないで下さい」


「そういう訳には参りません。……アンナの件も含めまして、心から謝罪を申し上げます。本人には厳しく注意いたしますので、今後あの子がまた何かしでかしたらどうぞ私めにおっしゃって頂けますようお願いいたします」


 年老いた人に頭を下げられるというのはなんて居心地が悪いものなんだろう。

 ……あまり長くいるとかえって気を遣わせてしまいそうだ。

 そう思って、一礼して部屋を後にした。


 お昼にはここを出るように言われてしまった。

 ……まぁ、仕方ないか。あとは天の采配に任せるしかない。


 最後に朝食の手伝いくらいはして行くか、と思い厨房に行くと、そこにはなぜかハヤトがいた。

 もう顔に布は巻いておらず、紋章の指輪も外して料理人の白衣を羽織り、椅子に座ってナイフ片手に黙々と芋の皮剥きをしている。


「何してるんですか?」


「手伝い」


「それは見ればわかります。どうしてここに?」


「もう片付けは終わったからさ。ただ待ってるのもなんだしと思って」


 喋りながらしゅるしゅると器用に剥いていく芋の皮の薄さといったら。

 横からマリオさんが感心したように覗き込んでくる。


「なかなかのナイフ捌きだな。ま、俺ほどじゃあないけど?」


 そう言いながら皮剥きの終わった芋を放り投げ、空中でスパスパと乱切りにする達人技を披露し始めるマリオさん。

 切られた芋は水を張ったボウルの中にポチャッと落ちていく。


「すごーい!」


 いや本当凄い!

 町の一発芸大会があったら優勝できるよ!

 パチパチ拍手しているとハヤトはムッとした顔で立ち上がった。


「俺だってそのくらい出来るし」


 するとマリオは挑戦的な笑みを浮かべた。


「へえ? じゃあやってみる?」


 ハヤトは頷き、左手で芋を三個掴む。


「いくよ」


 そう言うと同時に三個、空中に放り投げた。高揚する気持ちの現れのようにナイフが右手の中でくるりと回転した――と思った次の瞬間、右手が残像のようにブレて芋は形を保ったままポチャポチャとボウルに落ちた。


「……?」


 太刀筋がまるで見えなかった。

 ボウルを覗くと、中の丸い芋三個は水の中で徐々に形が崩れ、綺麗なサイコロ状に分かれていく。


「…………えっと……」


 絶対なにか斬撃的なものを飛ばしたよね。

 ナイフだけじゃこんなふうには斬れないよね。

 コメントに困っているマリオをよそにハヤトはじっとこちらを見てきた。

“褒めろ”という圧を感じて私は顔を彼に向ける。


 ――あっ。


 口を開くと、ぱっと彼の目が輝いた。

 違う。そうじゃない。私が言いたいのは、褒め言葉じゃなくて。


 うしろ!


 背後にルイージ料理長が現れた。

 料理長の拳骨がハヤトとマリオさんの頭に同時に落ちて、二人とも調理台に突っ伏した。

 ルイージ料理長はハヤトを叩いた方の拳を見て顔を歪め「いってぇ……」と呟き、じろりと私達を睨み付ける。


「食べ物で遊ぶんじゃねぇ」


「はい……」


「ごめんなさい……」


 三人並んで頭を下げ、しゅんと肩を落とす。

 料理長はフンと鼻を鳴らして手洗い場に行った。 


「クソガキがまた増えたのか。調理台、掃除しとけよ」


「はーい」


 返事をしながら布巾を手に取り、それぞれ拭き掃除を始める。

 周囲には水が結構飛び散っていた。

 確かに今のは私達が悪かった。クソガキと言われても仕方がなかった。

 クソガキが私だけじゃなかった事に安堵しつつ、ハヤトにこそっと話し掛ける。


「思い切り殴られましたね。大丈夫ですか?」


「大丈夫ー」


「そうですか。良かったです。……だけど貴方、姿も見えない魔物の気配を感じ取れるのに、どうして背後の料理長には気付かないんですか?」


 たまにバグってるよね、という本音を隠してたずねると、俯いたまま彼はぽつりと呟いた。


「アリスしか見てなかったから……」


 ああ、もう。

 シュンとしながら言う事じゃないでしょう。

 好き。


 顔が熱くなって黙って俯き、拭き掃除を続けた。



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