39.眼鏡にトラウマを植え付けられていた人
全クラスへの挨拶を無事に終えて、理事長も私もホッとため息をついた。
「あー、終わった終わった。疲れたー。アリーシャ、お前の婚約者ヤベーな。探すまでもなくすぐに分かったよ。窓側の一番前だろ?」
「そうです。外見もですけど、中身もとっても素敵な人なんですよ」
「だろうね。何て言うか、色気がある奴だな。別に変な意味じゃなくてさ……自立した内面を持ってる奴にしか出せない色気っつーのが、男にはあるんだよ。それなりに色んな奴を見てると、分かるようになる」
女の子はそういうのすぐに分かるらしいけどな、と言って理事長は首をコキコキ鳴らした。
「さーて、俺は理事長室で理事長ごっこでもして遊ぶか」
「それどんな遊びなんです?」
「トロフィーの埃を羽箒で払ったり、クロッケーの練習をしたり、チェス・プロブレム解いたり」
「確かに理事長っぽい」
「そう。俺が求めてた理事長ライフはそういうのなんだよ。断じて、鞭を持って生徒を追い掛け回す事じゃ無い。……じゃ、エリー。後はよろしく」
颯爽と去っていく理事長を見送るそばからさっそく廊下に脱走者が現れた。
「教室に戻りなさーい!」
ダッシュで逃げ出す生徒を追い掛け始めると、その途中でもう一人発見した。
一人捕まえるとまた一人、時には数人のグループが現れたりしてキリがない。
……え? 何でこんなに脱走者が多いの?
そんなに授業受けたくないの?
追い掛け回して教室に戻すより、もっと根本的なところからアプローチする必要があるんじゃないかしら……。
そう感じて、捕獲した男子生徒その一になぜ脱走するのか尋ねてみた。
「どうしてサボるのですか?」
「だってつまんないんだもん。勉強よりエリー先生と追いかけっこしたほうが絶対楽しい」
小学生か。
そう言いたくなるのをぐっと堪え、教室の中に放り込んだ。
確かに、義務教育が存在しないこの世界ではこういった集団生活を十四歳で初めて経験するのだから、慣れるのに時間がかかるものかもしれない。
第一、官職を目指すのでもなければ、彼らは爵位を得たり家のコネで職に就いたり、女子なら嫁いだりする事が既に決まっているのだ。
努力する意味を見出だせないのも仕方ないのかもしれない。
結局、授業終わりのチャイムが鳴るまで延々と鬼ごっこを繰り返したおかげで、私は早くも疲労困憊になった。
これは、ちょっとキツい……!
ひと気のないところで廊下の壁に寄りかかり息を整えていると、背後から声をかけられた。
「エリーせんせ」
ぎくりと体が硬直した。
ハヤトの声だ。走り回っていたおかげで、まだ心の準備が出来ていない。
振り向けない。
コツ、コツ、と静かな靴音が近付いてきた。
ハヤトの足音が私のすぐ後ろでぴたりと止まった。
返事も出来ずにいる私をどう捉えたのか、甘やかすような、優しげな声色で話し掛けてくる。
「こんなところで、何をしているんですか?」
それはエリーに言っているのか、それともアリスに言っているのか……判断に迷う。
「……すこし疲れたので、休んでいました」
ひとまずエリーとして答える。そして、アリスとして謝った。
「ごめんなさい」
「どうして?」
「……色々と」
「別に、謝るような事はしてないんじゃないですか」
「そうでもないです」
普通に考えたら怖いと思うんだ。
いくら婚約者でも、過干渉だと取られてもおかしくない事をしている。
嫌なら止めるけど、許してくれたらとても嬉しい。
「エリー先生には何か事情があるんでしょう? そんな格好で走り回らなくちゃいけないような事情が」
……あれ?
あくまでもエリーとして接するつもりのようだ。
黙認?
……それとも、実は気付いていない?
わからない。
言葉に詰まっていると、コツ、と一歩近付いてくる足音がした。未だに振り向けず固まったままの私の顔の両頬に、彼の両手が少し触れる。
「……それは、いけません。人に見られたら大変な事になりますよ」
なんたって私は今、人妻という設定だ。夫は誰なのかと言えばこの人なんだけど、それはアリスとしての話であって。
「大丈夫。さっき、この廊下の角と角が影で繋がるように魔法をかけておきましたから」
……それはつまり、ここに来ようとすると反対側の角の向こうに出てしまうという事……かな。
大変だ。このままでは学院七不思議誕生の瞬間に立ち会ってしまう。
「もう、何やってるんですか。教師がいない場所で勝手に魔法を使うのは禁止されているんですよ」
「先生はここにいるでしょ?」
彼はそう言うと、私の顔から黒縁眼鏡をぱっと取り上げた。
「あっ」
思わず振り返るとこんどは彼が後ろを向いて私から取り上げた黒縁眼鏡をかけ、じっと自分の腕を見ていて。
「……よかった。普通の眼鏡だ」
ボソッと小さく呟いたのが聞こえた。
普通の眼鏡……?
逆に普通じゃない眼鏡なんてあるの?
……あれか。服が透ける眼鏡か。
どうやら私はとんでもない変態行為の疑惑を掛けられていたらしい。
するか!
てか、やっぱり私だって気付いてるじゃん!
「返してください!」
「はい、どうぞ」
彼が笑いながら眼鏡を私の顔に戻して何かを言おうと口を開いた時、廊下の前の角の向こうから女子達の大きな声が聞こえてぴたりと止まった。
「あれー!? 何これ! なんでこっちに来ちゃってるの!?」
「私達あっち側にいたよね?」
「え、ちょっと、ここの廊下無くなってない!?」
今度は後ろのほうの角から同じ子達の声が聞こえる。
影を通って瞬間移動してしまっているようだ。
彼女たちはこの怪奇現象にきゃーきゃーと声を上げて騒ぎ始める。
「……もう解除しないとまずいんじゃないですか?」
「そうだね。やっぱり話は帰ってからにしよっか。ね、エリーせんせ?」
うぅ。笑顔が怖い。
普通の笑顔のはずなんだけど。後ろめたい事をすると、どうしても疑心暗鬼に駆られてしまう。
学院にまで着いて来られるのは嫌だ、って言われないといいな……。
気まずさから上目がちに見上げると、ハヤトはすり、と私の頬をひと撫でしてから踵を返していった。
その数秒後に魔法が解除されたようで、女子達が廊下に出てくるのがハヤトの背中越しに見えた。
異例尽くしの転入生の姿にたじろぐ女子達に、彼は何食わぬ顔で
「どうしたの?」
と声をかける。やっぱり、思っていた通りだ。
あの図太さとソツの無さ。彼は貴族向きの性格をしている。
「えっと、あの、さっきここを歩いていたら、突然向こう側の角に出ちゃったんです。びっくりして戻ろうと思ったら、またここに」
「へぇー。不思議だねぇ。お化けでもいるのかなぁ」
「きゃー! もう、やめて下さいよぉ!」
「もう怖いから、みんなで一緒に教室戻ろ!」
上手いこと話が逸れて、女子達は彼を囲んでキャッキャしながら教室に戻っていった。
……いいなぁ。
私も、もう一回入学して普通の生徒をやりたいよ。
次期王妃みたいなポジションじゃなくてさ。
全てが苦かった学院時代を思い出して、少ししんみりした気持ちになった。
「理事長! お話があります!」
次の授業時間も無限鬼ごっこをする羽目になった私は、八つ当たりも兼ねて理事長室に殴り込みをかけた。
理事長はちょうど宣言通り、羽箒でトロフィーをパタパタしているところだった。
暇か。暇なのか。
「何、どうしたの」
「脱走者が多すぎます! これはもっと根本的なところの改善策を考えないといけません!」
「そりゃ分かってるけどさ。やる気のない奴にやる気を出させるなんて一番難しいよ。人手も足りないし。っていうかそもそもあいつら、勉強自体はもう家庭教師に教わって来てるんだ。習熟の度合いは個人で違うにしても、今さら似たような内容の授業聞いたって復習程度にしかならんだろ」
「学院の存在意義にばっさり斬り込みましたね。確かにそうなのですが、集団生活を通して自分を知るというのも学院の役割の一つではありませんか」
「簡単に言うけどさぁ……。誰もがお前とかお前の婚約者みたいな"出来る奴"になれるとは限らないんだよ。あいつらも何となくわかってるんだろ。自分の天井みたいなやつをさ。それと向き合うのって、クソガキにはまだ辛いだろ」
理事長はそう言ってぱたりと羽箒を置いて、こちらに体を向けた。
「それに、努力したってあいつらの将来が劇的に変わる訳じゃない。頑張れ、なんて励ましが効くのは目標があるとか、元々頑張る気がある奴だけだ。そうじゃない奴に自分と向き合えっつーのも余計なお世話だし、心に響くとは思えない」
「うーん……。気持ちは分かりますけど、それで終わりではあまりにも突き放しすぎですよ。理事長、ちょっと生徒個人の評価をまとめた書類、私に見せてくれませんか?」
「いいけど。どうすんの?」
「ここはひとつ、誉め殺し作戦でいこうかと」
単純だけど、誉められればやる気が出る事もあると思う。
それで全てが解決するとは思ってないけど、ただ鬼ごっこするよりは多少マシなはず。
「本気か? 全部で二百人弱いるんだぞ」
「分かってますよ。別に大した事じゃないです」
でん、でん、と机に書類の山を積んでいく理事長を横に、座り心地の良い回転椅子に掛けて足を組んだ。
「ちょっと、それ俺の理事長椅子……」
聞こえなかった事にして、くるくる回って働き者の理事長を煽りつつ待っていたら
「お前も大概クソガキだな」
という声が飛んできた。
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