03 「三征」の人

 王陽明、この時四十七歳。

 当時の役職は、江西僉都御史こうせいせんとぎょし

 その職務は、監察である。

 後世、王陽明はその生涯において「三征」という三つの武功をてたことで知られているが、この時、正徳十一年のこの時は、江西、福建における農民や匪賊の叛乱の鎮圧――「一征」を成し遂げている最中であった。

 その過程における福州鎮圧であったが、幸か不幸か、嵐により福州への途次、吉安での駐留を余儀なくされる。

 吉安は、王陽明が知事として赴任したことがある、懐かしい土地だ。だけではなく、かつて龍場という僻地に左遷させられてから、初めて復して来た土地でもある。

 知事時代の知り合いと久闊を叙している最中さなか、知府の伍文定ごぶんていが泡を食って飛び込んで来た。


「よ、陽明先生」


「どうした、伍知府」


 伍文定が懐中から書状を取り出すと、そこには「寧王、叛す」と記されていた。


「これは南昌の心ある官人からのふみです」


 そしてその官人とは現在、連絡が取れない状態になっているという。


「先生、これは」


「あわてなさんな」


 寧王のに聞いている。

 それでも相手は王であり、皇族である。

 迂闊な判断は、躊躇ためらわれた。

 ところが今度は王陽明自身の部下が急を告げて来た。


「大将、敵だ」


「何と」


 ちなみに王陽明の率いる軍は、民兵が中心であり、移動手段の船は、商船を供出してもらっていた。

 それゆえの、遠慮ない口調の将兵が多いが、王陽明はその直截的な言動を愛した。


「それで、敵は」


 すぐさま立ち上がって佩剣を握る王陽明に、部下は首を振った。


「実は、福州へ向かう船を集めて置いた場所の近くに、怪しい軍勢が伏せていたようで……」


 それはもう、王陽明の吉安駐留を知って、立ち去ったあとだという。

 ただ、旗が残されていた。

 忘れて行ったらしい。


「こいつです」


 差し出された旗は、寧王のものであることを示していた。


「これは……」


 王陽明と伍文定は顔を見合わせた。

 好意的に解釈すれば、王陽明への援軍、あるいは寧王軍の演習と捉えることができる。

 だが。


「ご謀叛との知らせがあった今となっては……」


 王陽明は沈思黙考する。


「と、とにかく急ぎ北京に知らせましょう」


 伍文定は忠実な地方官らしく、すぐに公文書をしたためて、使いを帝都・北京に発した。

 王陽明は沈黙を解いて、部下に何事かを指示した。


「陽明先生、何を」


「南昌を探らせる」


 王陽明としては、寧王軍が援軍にしても演習にしても、問うべき立場にある。こちらは勅命を受けての軍事行動中にあり、寧王は皇族とはいえ、それを容喙ようかいする立場にはない。


「……だが、無用な軋轢は避けたが良いと判ずる。ゆえに、ようにやれ」


 部下が拱手して去ると、王陽明は次に、伍文定に頼みがあると言った。


「何なりと」


「民兵を募って欲しい」


「民兵」


 今、王陽明が率いている兵もそうだが、民間から有志の兵を募りたいとの頼みに、伍文定としては俄かに諾とは言えない。


「私兵を募る。それでは、寧王と同じ……」


「いや」


 王陽明は厳かに首を振った。


「私は皇帝陛下より鎮定を仰せつかった身。その勅命を果たすために、さらなる兵を募ること。これに何の不都合がありましょうや」


 すべての責任は私が負うと、王陽明は伍文定の肩を叩いた。

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