on my way

面川水面

第1話

 店番を任されすでに2時間立つけれど、誰も訪ねてくる人はいなかった。

 三方の壁の大窓から時々通り過ぎ行く人は見えても、急ぎ足で砂埃の舞う道路に去って行ってしまう。

 チックタックと時計の針が、ごちゃごちゃ道具や小物が置いてあるせまっ苦しい店を余計にせまっ苦しくさせている気がして、椅子が高くて床に届かない足を無意味にバタバタ動かすが、退屈なことに変わりはない。

 あと3時間か。

 親父はいつもの薄汚れたワイシャツの一張羅で会合に出かけている。ここらへんの店の店主が集まる話し合いの内容は、いつだってこの町をいつ捨てるかで、2か月前から一向に答えが出ないで酒ばかり飲んでいるのを、自分を含む子供たちはみんな知っていた。

 自分はここの前の前の町で生まれた。どれも4年くらいで引っ越しているが、ここに来てまだ1年も経たない。砂と風ばかりのこの町に永住しろなんて酷い話はきっとこの先一度だって出ないだろう。だけれど僕は3つの町では一番好きだ。

 両手ほどのそろばんを弄り回すのに飽きてカウンターに突っ伏していると、空気の振動を感じた。ドッドッドと低くて規則的な音。昔絵本で読んだ怪物の心臓の音のようなそれに、びっくりして顔をあげる。

 カウンターの下にある外掃き用の箒を手繰り寄せて、観葉植物の奥にある出入口の曇りガラスから様子を探ろうと前かがみになったが、音はピタリと止んでまたチックタックと時計の音が聞こえてきた。現実そっくりな悪夢かな、なんて拍子抜けしているとドアにくくりつけた乾いた竹のチャイムが鳴って、男が一人入ってくる。

「店番か?」

 男はぼろきれの一歩手前のマントとあちこちにポケットのついたチョッキを着ていた。大き目のリュクには陶器の鍋が結わえてある。黒髪は伸ばしっぱなしでしばらく整える機会もないらしく、雑に後ろでくくっていた。濃い眉毛の下にある目はくまがひどい。その旅人らしい風貌に、ぱっと心の隅から隅まで歓喜の光が広がって、箒を放り出し、椅子から飛び降りてそばに駆け寄った。

「廃墟狩り? お客さんで今月二人目だよ。大丈夫、まだ攻略されてない。先月も来たけどさ、しっぽ巻いて逃げ帰ったよ。あれはだめだね。ここらにいるのはでかいんだ。なんたってこの町まで羽音が聞こえてくるくらいなんだから」

 息継ぎなしで一気に話し一度息を吸い込んで、それで、と続けようとして男が手のひらを見せてそれを止めた。言外に黙れ、と意思表示されて吸い込んだ息を全部吐き出す。

 よくよく見れば男のズボンもつぎはぎのボロボロで、木製の膝宛も古く黒ずんでいる。稼ぎがないのか、金遣いが荒いのか。冷やかしにくる客に似た、無欲そうな気配を感じてこいつはただの旅好きの変態かと期待が下がる。

 男は突き出した手をそのままに店内を見渡している。

「木刀は、買ってこう。あと丈夫な革の袋。それにあれば2輪用エンジンオイル」

「木刀ならそこに立てかけてるのが全部6000円。革の袋は2000円。オイルは町の端だけど、にりんようエンジンオイル?」

「バイクっていう金属の乗り物を動かすのに使うオイルだ」

 ほら、と男はドアを開けて店の前にある変なものを指さした。それは鉄の塊で、図鑑で見た狼より大きい。まっすぐだったり曲がったりした金属の棒や、小さい部品が組み合わさって迷路みたいになっていた。人が四つん這いになってその骨とか内蔵をすべて鉄で作ったらこんな風になるのかもしれない。

「はじめてみた、かも。動くの?」

「動くは動く。でも道中あちこちを交換したりしてなんとか動くってとこだ。あんまり元の形から離れさせたくはない」

「じゃあ、その部品を探しに行くってこと?」

「そうなるな。虫退治はついで」

「ついでで済む相手じゃないと思うけどなぁ。大きいと人を食べるって噂あるし」

 あくまで噂だ。虫は金属を食べるけど、人間まで食べるわけない。でも邪魔をすれば襲ってくるし、あちこちを食べられた建物は近づくだけでも危険だ。

 本業でないと知って脅かしてやろうと持ち出した噂話。それを聞いて彼は口をあけて笑った。

「なんだ、子供でも知ってるか」



 それが宇宙から来たとか海から来たとか、誰かが発明したとか昔からいたとか好き勝手に言われたのが5年前。そしてそれからなんの打開策を打てないまま今日まで虫の被害は続いている。

 鉄、銅、銀、金、とにかく金属という金属を食べる虫は世界各地にほぼ同時期に発生して文明を襲った。最初は雪虫の様に小さく、そして金属を接種するにつれて指先、手のひら、両手に抱えるくらいと大きくなっていく。手のひら大が成虫のようで、固い金属の殻をもつ卵を産んで、その中からぞろぞろと小さい虫が生まれてくる。小さい虫たちは金属の殻を食べて成長し雪虫の大きさに育つ。

 発展が進んでいない町で見かける分にはすぐさま潰してしまえばいいが、ビルの多い都会、工場地域は巨大な巣となる。とてもじゃないが人間が住める環境ではない。 

 また生まれたばかりの虫が地中の石に含まれる、彼らの可食部を狙うようになってから自然環境も壊れた。

 建物は木造に逆戻り、自動車はめったに見かけない。金属製の品物は虫が入りこまない専用のケースにしまわれて、価格が高騰した。工業製品もだ。最近では自然環境の破壊により森林までも失われ始めている。

 国は虫の巣と化した廃墟、主にビルや工場に懸賞金をつけて虫の退治を促したが、木刀などの木製の武器しかない中でそれは難しい。火をつけて退治しようにも工場内に取り残された化学製品に引火して爆発し、よくて死傷者、悪くて遠くの人里に有毒ガスを運ぶ。

 ようはにっちもさっちもいかない状態だ。

「ここが噂の元浄水場か」

 浄水場の近くはおあつらえ向きに巨大な水路がある。そのギリギリにバイクを止めた。

 門田はバイクの後ろに括り付けていたシートをとった。ロール状に丸めたシートはカーキ色の迷彩柄で、すべて広げればバイクを余裕で覆うことができる。その上からもう一枚布を被せ、上から水をかけて布全体を湿らせた。

 虫は水を忌避する傾向がある。実際川や海、湖の近くの町の被害は少なく、今最も栄えている。こうして湿った布で覆えば金属の塊があったとしても小さい虫ならば近づかない。何にも代えがたい愛車だが、移動手段でもあるためこうして危険にさらさなければいけないのが心苦しい。

「すぐもどってくるからな」

 さっきの店で買った木刀、それに投げやすい大きさの石が1袋分、それとガラスのナイフ2本が装備すべてだ。門田にとって目的は虫の退治ではない。バイクの部品、今回は数日前に虫に食われたフロントフェインダーを補強できるものを入手できればいい。だが金属があるところに虫はいるため危険なことに変わりはない。

 門田は国が懸賞金の紙に添付している施設の地図を見たが、外見はまるで変わってしまっているため意味がない。出入口は分からないが、入れることは入れる。そこがもしかしたら立ち入り禁止の危険地帯かもしれないのが不安なところだ。

 門田は鉄柵をまたいだ。すでに大半が食べられていて、地面から膝までの数十センチしか残っていない。

 扉があったであろう四角い穴から中に入った。

 中は今まで巡ってきた廃墟の例に漏れずに荒れ放題だ。壁に埋まっていたであろうパイプ、ケーブルはむき出しで、その先端はかじられて断面がギザギザだ。壁は自然に崩壊したのか、それとも大きな虫が崩したのかは分からない。人の手が入らない建物は思っている数倍の早さで痛んでいく。

 最初の部屋から廊下へ出ると、耳元をフーンと鼻歌に似た羽音が通り過ぎた。そうしてまっすぐ続くリノリウムの廊下の奥へ、ボロボロの壁から入ってくる日の光を浴びながら、おとぎ話の森にいそうな姿が自由に飛んでゆくのが見える。

 指一本分の大きさの虫だった。

羽の形は蝶に似ている。翅脈の一筋一筋が銀でできた絹かのような光沢を持っていて、光で透かすと夢が現実に現れたようだ。胴体は稲穂の黄金の毛で覆われて、クマバチを思い起こさせる。金属を砕く頑強な顎の上についた大粒のスカイブルーの目玉は、トパーズより澄み切っていた。

 人類をここまで追い込んだとは思えないほど、その姿形は優雅で美しい。実際この虫を標本にすると高値で売ることができる。しかし獰猛な性格と骨さえ砕く顎のせいで傷つけずに捕まえるのは至難の業だ。それだったら蓮のつぼみのような虫の卵を持ち帰ったほうがコストパフォーマンスはいいと言えた。虫である以上、冬には抗えないらしく大きな個体以外は卵を残して死滅する。大きな個体が卵を守っているが、建物の隅を探すと集め損ねた卵がいくつもあるのだ。

 門田は虫を追った。金属を見つけるには虫の行く先へついていくのが手っ取り早い。

 虫は滑るように廊下を進んでゆく。鼻歌のような羽音が2つ重なり、左手にある部屋から1匹の虫と合流する。さらに音が重なると曲の様に聞こえるが、それは危険な証拠だ。増えれば増えるほど大きな個体と遭遇する確率は上がる。

 3匹の虫は廊下の突き当りの部屋に入った。そこも他の部屋と同様にドアはなく。中の様子がはっきりと見える。

 中は制御室のようだ。大き目のコンピューターが壁一面にあったようで、その表面を手のひらサイズの虫が集まって噛んでいる。床に転がったパイプ椅子を、赤子ほどの大きさの虫が前足を器用に使って抱え込み、ガジガジと噛り付いていた。

 ざっと見て20畳ほどの部屋に大き目の虫が5匹、小さい虫は無数。門田の経験からしてこの中を探索するのは難しくない。人間の子供くらいの大きさでなければ自分から人間を襲うことはないため、触れることさえしなければいい。しかし出入口が一つで窓もなく、逃げ出すのは厳しい。

 門田は出入り口から見える範囲で部屋の中を物色することにした。目ぼしいものがあればさっと入ってすぐに出てしまえばいい。

 廊下のほうに向けた左耳に注意しながら出入り口に頭を入れる。椅子に噛り付いていた虫が門田を見つけて口を止めたが、入ってくる気はないことを確認するとまたもくもくと嚙み始めた。

 金属の薄い板状のものが望ましい。フロントフェンダーは前輪を覆うパーツだ。なくてもさして走行自体に問題はないが、雨の日の水しぶきがダイレクトに直撃してその日は走れたものではない。7割ほどを虫に食べられてしまっており、さらにそこからヒビが入ってしまった。もう交換するほかないだろう。修理はまだ無事な町にある小さな町工場でできるとしても、金属類はすでに手の届かない額にまで高騰している。

 懸賞金の30万があればパーツは手に入るかもしれない。

 門田の中に邪念が沸いた。やれるかもしれない、なんて危険を軽んじた気持ち。それに大事なバイクだ。不格好な形でいさせるより、ちゃんとしたパーツを付けてそのままの姿を保ったほうがいいに決まっている。

 それにあの人だってそのほうが嬉しいだろう。

 4年前に会ったきりの先輩の姿が浮かんだ。なんの装飾もないバイクの鍵を出して、タバコを加えた男は乗れよと自分に握らせた。

 頭の中で装備を確認する。普通の賞金稼ぎならまずこの軽装で挑むはずがない。巣のボスの体は固く、毛の奥にある金属の外殻を通すには日本刀、もしくは銃弾が必要だ。

 その時、ウォーンと角笛のような音が建物を振動させた。ビリビリと壁についていた手から心臓に伝わり脳みそまで震える。一瞬で腕から足まで鳥肌がたち、玉の汗が額にじわりと滲む。限界まで見開かれた目の瞳孔が大きくなる。

 この巣の王の羽音であることに間違いない。音の大きさから推測するに体長はよほど巨大だろう。この町まで羽音が聞こえると、少年の言うことは本当だった。

 音が大きすぎてどこから鳴っているのか分からない。しかし壁から伝わった薄い膜のような振動はたしかに自分が歩いてきた廊下のほうから来ていた。つまり引き返すことは危険だ。それに廊下の突き当りで、これ以上先の部屋はない。

 門田は廊下を振り返った。もうすぐ奴がここに現れるかもしれない。ロッカーなどの収納類は食べつくされて隠れる場所はない。できることはここから離れることだけだが、うかつにもまっすぐの廊下を進んできてしまった。

 目の前の部屋は機器類がすっかり食べられているせいで隠れ場所には適さない。左側にもトイレがあったが個室は朽ちてしまっていた。

 焦りで錯覚しているのかもしれないが、音はどんどん近くなっているようだ。蔦の這う壁だけではなく、倒れかかった棚までもカタカタと震えている。パラパラと床に剥がれた天井の欠片が降ってくる。

 右手で顔を覆いながら見上げると、取れかかった蛍光灯のある天井の一部に隙間がある。蛍光灯がゆらゆらと揺れるたびに粉が降ってきた。

 門田が背伸びをして蛍光灯の先をつかんだ。電気はもう通っていないため感電の心配はない。割れたガラスに気を付けるだけだ。

 フレーム部分を引っ張ると降ってくるかけらが大きくなる。隙間は目いっぱい開いた手のひら大にまで広がった。掴んだ右手で揺らしながら天井の穴を広げる。降ってくる欠片が小石大になり、頭を入れられる程度には空いただろう。けれど肩で引っかかるのが目に見えている。

 音はどんどん大きくなり、耳を越えて頭の中までウワンウワンと響くほどだ。直ぐ近くにいると肌で感じる。真っ直ぐ伸びる廊下の向こう、左に直角に曲がった先。この建物に入ってきた部屋のすぐ横だ。

 大きな音を立てれば気づかれる。そう分かっていたが、一か八かのチャンスと絶体絶命の危機は足を踏み鳴らして選択を待ってはくれない。

 門田は傾いた棚によじのぼり、足の裏全体で棚板を蹴って後ろに飛んだ。蛍光灯にしがみつくと、残っていたガラス片が服に引っかかる。成人男性の体重が蛍光灯とそれに繋がった天井にかかり、引きずられるように天井が崩れた。拳大の破片がバシバシと顔を打つ。

 しがみついた瞬間から伸ばした左手は天井の縁にかかっている。しかしその部分も周りの天井もろとも崩れはじめた。

「くっそ!」

 右手で蛍光灯を下に押しやり、無理くり体を上に持ち上げる。見えないが左手が床をつかむと、薄情なほど早く去った浮遊感の変わりに勇み足でやってきた重力に抗うため、有らん限りの力を込めた。右手も加勢し、足を無意味にばたつかせながら両手で体を持ち上げる。

 ミシミシと手の中で悲鳴が聞こえる。叫びたいのはこっちだと門田は思った。

 上半身を持ち上げて乗り上げる。胸を床につけて前に進み、足を持ち上げてようやく全身を引き上げると、転がって崩れ落ちた床から距離をとった。

 真下にいるな。

 床からグワングワンと反響に反響を重ねた振動が背中に伝わってくる。急な激し過ぎる運動に体は肩で息をするほどに疲れていたが、空を跳べる相手だと自分自身で鞭うって起き上がった。虫は目が悪い分、音と振動には敏感だ。手ぶらで帰るのは惜しいが、ボスを目の前にしてさっきまで抱いていた過信はすっかり消え失せている。

 這いあがった穴から見えた姿は成人男性をゆうに超える体長だ。羽一枚がドア一枚分の大きさで、バランスボールのくらいの目玉は興奮で黒く濁っていた。ガラス片で流れた血を接種したらしい。大きい個体が人間を襲うのは本当で、成長により発達した嗅覚は血の鉄臭さを嗅ぎつけるのだ。

 これで30万は安すぎる。だったら倒して売ったほうが金になる。

 羽や外殻は実際に金属だ。それに虫の中核に必ずある金属は虫が分解できない未知の金属で、虫が近づかないことから重要な部品に使われるため、そのほかの金属類とは比べ物にならないほどの値段になる。今回の大きさならばドッチボールくらいの中核が取れるだろう。それを売ればフロントフェンダーの交換やそれ以外の部分の修理をしてもおつりがくる。だが門田は引き返す気にはなれなかった。

 二階の廊下の半ばで白骨化した死体があった。持ち物はすでに持ち去られている。

 門田は廊下の端まで足音がしないように慎重に歩き、さっしのない窓から外へ飛び降りた。



 4年前、門田は九州にいた。地元は東北だが、専門学校を出て就職した自動車整備の会社が九州だった。

こ こ一年で仕事数は右肩下がりに転落していき、たまに来る廃車寸前の車やバイク(それが新車だったりする)にこれはダメだと宣告するだけだ。なんせ修理の仕事道具も1年のうちに食べられ使い物にならない。

 就職して3年経った秋口、門田は表の縁石に座っていつ来るかもしれない仕事を待っていた。電話が機能を失ってから仕事が入るのは工場の入り口で、事務所にいて電話をとって書類相手に格闘していた事務員はもうとっくに辞めて実家へ帰った。

 門田はその事務員を、ひょろっこくて使い物にならなさそうだと常々思っていた同僚を、まだ被害が仕事に出ないうちに実家へ帰ったのは賢い判断だと、本人がいなくなってから評価を改めた。彼が辞めてから半年もたたずに交通網は失われ、自動車も電車も飛行機も使えなくなってしまったからだ。そのうち終わるものだと行動を先延ばしにして、家族の元へ帰れなくなった人間はたくさんいる。門田も例に漏れずその 一人だ。

 横にある包みからこぶし大のおにぎりを出し、ラップをはがすと大口を開けてかぶり着いた。動いていないけれど不思議なもので空腹にはなる。

「また塩むすびかよ」

 工場は暇を持て余した従業員が来ない限り2人体制だ。今日もシフトの通り4つ上の先輩である忍賀と一緒だったが、忍賀は出社して早々タバコを吸いにどこかへ行っていた。逆に昼休みのこの時間には帰ってきて、門田の隣に腰をかけ勝手に塩むすびを頬張り始める。自由過ぎるだろうと思ったが、言い争う分腹が減るだけだと門田は黙認した。

「俺これしか作れないんで」

「前は弁当に炒め物とか詰めて持ってきてただろ」

「いらないっていってんのに送ってくるんすよ、クール便で煮物とかいろいろ。もったいないし適当に入れてただけです」

「はぁー、いい親御さんだこと。孝行しとけよ、石にゃ布団はかけられねぇぞ」

「石になんで布団かけんすか」

 門田は牛のような巨石に布団をかける想像をして、それがハンバーグの上にチーズがのったファミレスメニューに見えた。急におかずがほしくなる。

「馬鹿な子だよ、お前は」

 大きな口で頬張るせいで忍賀の手にある塩むすびはあっという間に消えた。門田は残った1個を自分の膝の上に置いたが、警戒に反して忍賀は胸ポケットから煙草を出して火をつけた。一口目が大きなため息とともに吐き出されるのを、門田は美味しくなさそうだなと思いながら見ていた。

「実家帰れ」

 煙が空気に溶け切ったのを見送って忍賀が言った。それに対して門田は最後の一口を飲み込んでから返事をした。

「もう新幹線も飛行機もなんもないんで無理っす」

 社長から金出すから一度帰れとこの混乱の中で言われたが、その時にはもう遅く、運休の紙は掲示板に固定されっぱなしだった。電話が使えなくなったのもその頃で、もともとあまり連絡を取らない家族とは戻ることも何も話していない。

「まだ若けぇ奴が諦めの良いこと言ってんじゃねぇよ。気合で帰れ」

「宮崎から岩手までどんだけ距離あると思ってんすか」

 門田は本気にしなかった。ここ数カ月で自分なりに手段を考えてみたことはあったが、車が減少している環境ではヒッチハイクすら難しい。文明の後押しがない状態で1800kmを前にしたら誰だって手も足も出ないだろう。

 二つ目にとりかかった門田だったが、忍賀の来いという命令に逆らえずしぶしぶ塩むすびを置いた。道端においたおにぎりを誰も食べないだろうとそのままにして、工場の奥へ歩いていく忍賀のあとを追う。

 工場の裏手、従業員の乗る自動車やバイク、たまに自転車を止めておく狭い駐車場で忍賀は立ち止まった。荒い砂利道の間からぴょこぴょこと雑草が見え隠れし、建物が密集して狭い空から射す太陽光をむさぼっている。年に何度か草むしりをしているが、門田の自転車はもちろんのこと、従業員の乗り物が使えなくなってからは放置されて伸び放題だ。休日にここでバーベキューなどをやったものだが、今は人もなにもなくなってただの空き地だった。

「これどうしたんすか」

 普段は寂しいだけの駐車場に、区切りのロープを無視して堂々とバイクが止めてあった。

 400ccには見えないデカくて長いスタイリッシュな車体は、獲物を狙う獣のように低く構えて門田を見ている。ヤマハが製造したアメリカンタイプのオートバイ、ドラッグスター400。カバーがないためむき出しの駆動系が生々しく白い光を反射している。

「まさかぬす……」

「上司を盗人呼ばわりするな」

「でも今どきこんないい状態の車体どこ探したってないじゃないすか」

 門田は近づいて車体を観察したが、のみで削ったような虫が食べた跡はなかった。カスタマイズされているところや、シートなどの使用感を見るに新品ではない。

「俺のバイクだ。なんでか知らんが無事だ。バッテリーも外してたから十分だし、ガソリンも満タン。点検済みで今からでも走れる。のってけよ」

「はぁ?」

「噂じゃ関門橋が通行止めになるらしい。これを逃したら本州に渡れなくなるぞ。ただでさえあちこちの道路が通れなくなってきてんだ。明日にでも荷物まとめて立つんだな。最後に社長にはあいさつしてけよ」

 まるでおつかいに行かせるような軽い調子の忍賀を前に、門田は完全に置いてけぼりを食らっていた。今朝はのそのそ布団から起きて寝ぼけまなこで白飯を握り、あくびを噛み殺しながら歩いて出社して、ぼけっと工場の前に座っていつも通りの一日を過ごしていたはずなのに、いきなり明日からバイクで旅に出ろと言う。

「そんな急に、いわれたって」

「あ? 前までバイク乗ってただろ。姉の結婚祝いの為に売ったんだっけか。もう一年待てばもっと高値で売れたのに惜しいことしたな」

「そっちじゃなくて、俺だって心の準備っていうか、いろいろあるし。それに忍賀さんのバイクじゃないっすか。それこそ今こんなバイク売りに出したらとんでもない額になりますよ」

「だれがやるっつったんだ。言っとくがこいつは俺がこつこつためた貯金と初ボーナスで買った愛車だぞ。貸し出すだけだ、落ち着いたら高級菓子折り付けて返しに来い。ぐずぐずすんな、あっというまに冬になるぞ。まさかライダージャケットまで売ってねぇよな」

 門田が小さい声であります、と答える。まだ帰るということが信じられずに、ぼけっと立ったままの門田の頬を、忍賀はノックするように右手の拳で軽くたたいた。

「俺の愛車にてめぇの青いけつ乗っけるのを許可してやってんだ。しまらねぇ顔してんじゃねぇよ。もっとましになったら返しに来い」

 右手の中にあった鍵を門田に握らせる。手の中で鍵は乗せてってやるよとばかりに白く光った。



「ここが多分岡山。海沿いにずっと行けばとりあえず下関につく。関門橋は前に渡ってすぐ通行止めになったっていうし、忍賀さんは多分本州にはいない。船は、ないか。でもお前の持ち主は返しにくるのを待ってる人じゃないしな」

 元浄水場から離れ、門田は浄水場からマジックで海沿いに一本の線を引いた。頼みの綱だった山陽自動車道は使えないと関西でさんざん止められている。舗装した道ほど走行が難しく、海辺や完全な山道のほうが安全なのが今の時代だ。町ごと虫の巣と化した場所や、崩れた道路を迂回しながらの日本縦断は過酷で、地元を出てからすでに3カ月が経過している。バイクあってこの日数なのだ、歩きでは半年はかかるだろう。

 門田はもう地元に帰る気はなかった。地元に帰った4年で父は治療を受けられずに病死し、母は強盗に殺された。姉は旦那とつぶれかけた地元を捨てるという。友人たちもより安全な町へと引っ越して行った。門田には自分の居場所よりも果たさなければいけないことがある。

「今日のはだめだったけど、返す時にはちゃんとお前だってわかる姿にするからな」

 宮崎から帰ったとき、4年間の滞在、そしてこの旅でだいぶ姿は変わってしまった。マフラーが変わってうるさくなり、ミラーは明らかにとってつけたように浮いていて、シートはつなぎ目だらけのボロボロだ。見えない部分も正規のパーツが手に入らないせいで無理やり動かしている。もしかしたら恩人に返すときに本来の部品はどこにも残っていないかもしれない。それでも借りたものだ、彼の言う通り高級菓子折りをつけて返さなければ。

 門田は地図をポケットに入れてバイクにまたがった。ゴーグルをつけ、風が運ぶ砂埃を吸わないために靴元をマフラーで覆う。

 低くて規則的な音が管楽器の喚き声のような音に変わり、バイクは乾いた大地を走り抜けていった。

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