第七話 ハイド・アウト
──肩に冷たいものが触れる感覚がして、意識が戻る。
空を見ると、虹彩を焼く
俺は一人、大きな建物の前に立っていた。
全体がコンクリート張りの無機質な建物で、窓が一つもない、真四角の建築物から出てきて、ここに今立っている。ということで良いのだろうか?
全く状況が整理出来ない。
あの手術の後、どうなった?覚えていない。
マックスやリンダは無事なのか?
頭の中が不安でいっぱいになって、ひとまず俺はまだ眠ったままの街を歩く事にした。
すっかり静まり返った朝のサッポロの空気は新鮮なものだった。
排煙や下水の香りも勿論するが、何よりも人が少なく、品のないネオン光も照っていない。
先程まで血みどろな騒動に巻き込まれていたとは思えないほど、澄んだ空気に身を委ねて歩き、いつの間にか辿り着いた場所は古めかしい商店街。高層ビルや自動販売機が立ち並ぶ無機質なこの街に、風情のある場所を見た俺は少し驚いた。
その店の店主らしき人々がシャッターを開け、開店の準備をしているのを俺はぼうっと眺めながら歩いている途中、ふと地面を見ると深い水溜まりがあり、朝の澄んだ空を朧げながら鮮やかに映し出している。
何となく、その水鏡を覗き込む。
そういえば、記憶を無くしてから一度も自分の顔を見た事がなかった。
今どんな服を着ているのか、どんな瞳を、どんな髪色をしているのか。全くわからない。
俺はお前の為に命をかけてやったんだ。せいぜい男前であってくれよ。
覗き込む。
ああ、綺麗な空…。
は?
水溜まりを上から屈んで覗き込む形だが、俺の姿が無い。
今気付いたが、それどころか地面に影すらない。
「ハァ!?どういうこった…」
頭によぎった一つの"ありえない"はずの可能性。
俺は、死んだのか?
取り乱す。
手術は実は失敗で、俺の骸は今もあの天井がはがれたスクラップ確定トラックの中にあるってことか?
頭を抱え、取り乱す。
まさか、そんなことはありえない。
もう一度水面を確認する為身を屈めようと試みる。
突如鋭い痛みが全身に走り、刹那視界が真白に揺らぐ。
いつの間にか俺は地面と平行に、仰向け。
空は眼前にあった。
身体が動かない。
ひどい筋肉痛によく似た苦痛が身体全体に響き、酷い耳鳴りと頭痛も襲ってくる。
瞬きすらままならない状態のまま、しばらくが経った。人通りは多くなったが、誰も俺を気にかけない。
顔に冷たいものが当たる。
ああ、また雪か。今気付いた。
なにかが変わる気がして、現状を打開するために色々やったが、結局このザマ、この大地は冷たいままだった。
助けを求めようにも、声が出ない。
素人が息を吹き込んだトランペットみたいに掠れた空気が声帯を揺らすことなく通り過ぎて行くばかりだ。
「ァ──…」
「やっと見つけた」
一人の女性が、朝日を遮り俺の前に立っていた。
腰まで伸ばした癖毛交じりの綺麗な白髪に、蒼天の様なターコイズブルーの瞳。
美しい女性だということがわかる容姿をしているが、どこか引っかかる。見覚えがある。
「ラッキーでしたね。アーサー」
ああ、コイツは。
"参謀"か。
加工を通した音声でのやり取りのみだったが、何故かほんの一フレーズ聴くだけで理解ができた。
「少々お待ちください、今身体を楽にします」
彼女の瞳が一瞬、妖しく光る。
手足の感覚が戻ってきたことに気がつき、立ち上がろうとする俺に、参謀は手を差し伸べた。
「"参謀"改め、"カレン"です。賭けに勝ちましたね?アーサー」
差し伸べられた手を、俺は掴んで立ち上がる。
いつの間にか、水面には俺の姿があった。
無精髭がワイルドな黒髪のイケ…ハンサム…かな?
「ああ、てことは、マックスもリンダも無事なんだな。良かった」
「ええ、今は二人とも治療を受けています。マックスの方は、まだかかりそうですが」
「そうか。酷い目にあったが、皆なんとか助かってよかった」
ひとまずの安堵、俺は胸を撫で下ろす。
「それで、アーサー。記憶は戻りましたか?」
脳裏に浮かぶ記憶は、先程あったドンパチばかり。記憶は戻っていないようだ。
「いや、まだダメみたいだ」
「そうですか、それはよかった」
「え?なんで良かった?」
「貴方…記憶が戻ったところでもう以前の生活には戻れませんよ?」
「え…?」
なんとなく理由は察せられるが、ひとまず俺は疑問を呈することにした。
「桜華のトラックを襲って運転手と助手二人を殺害、その後高級な試作品を盗んでインプラントしたんですから。当たり前でしょう」
「……」
まぁ、納得できる。
先程まではそこまで頭が回らなかったから重大な事に思えなかったが、いざ落ち着いて考えてみると本当に、とんでもないことをしでかした。
けれど、きっとあのままマックスについて行かずに街を放浪していたところで、チンピラの餌食になっていただろうから、選択肢はないようにも思える。
後悔は、ない。
「これから貴方は桜華に付け回されることになるでしょうね。素性が知れたら、ヒットマンを昼夜問わず寄越してきて、きっと骨も残さず消されます」
後悔した。
「じゃ、じゃあ俺はどうしたらいい」
「もしかして、脳が無いんですか?その頭骨の奥は空洞?」
「やかましい」
「アルバートの擁護を受けるのが一番良いでしょうね」
アルバート、マックス達に仕事を斡旋した"南区"の大物か。
「"慈愛労働会"の会員には、桜華もその他の企業も簡単には手を出すことができません」
会員になれば、ひとまず脅威から身を守れるということか。だが…
「ええ、私達は彼の命令に背いた。"ハイド・アウト"をインプラントした挙句、まだ報告もしていません」
「マックスもリンダもまだ動ける状況じゃないだろ?」
「ええ」
あの場にいた奴で動けるのは俺とカレンだけ。ってことになるか…。
「と、いうことは」
「私と二人で、ひとまず謝罪しに行きましょう」
時間にして午前11時といったところだろうか。カレンが調達した車に乗り、ナビの指示に従って街中にやってきた。
ここ、南区は区中もっとも栄えていない地域、らしい。
日中でもかなりの人通りだし、そびえ立ついくつものビルを眺めていると、それが嘘の様に聴こえる。
ちなみに、運転は俺が担当した。
「男で、文無し。運転手すら出来ないのならただのゴミ」だそうだ。このアマ!
運転は出来た。記憶を失う前の俺は、ちゃんと車に乗っていたらしい。
ただ、シフト変更がノブでもレバーでもなく、埋め込みの画面インターフェイスで行わなければならないのが慣れない。
随分と高価な車に見える。リンダが乗ってきたのとは大違いだ。
「あそこで停めてください。ここからは徒歩で向かいます」
「路駐にならない?」
「サッポロでは日常茶飯事です」
路上に車を駐車し、しばらく街を歩く。
相変わらず空気は汚い。マックスからもらった煙草の煙の方がまだ肺にいいだろう。
「こちらです」
少し開けた場所に出た。
アルコールと三日洗ってない頭髪の香り、あとは生ゴミ。
レッドカラーの公衆電話ボックスには、粗末な落書きが塗りたくられている。
具合が悪そうに横たわる幾人もの男女から察するに、ここは歓楽街の、特にディープなポイントだということがわかる。
「こんな所に根城があるのか」
「ええ、身を隠しやすいですから」
しばらくすると、路地に行き倒れていた娼婦(推定)が三人、俺達に寄ってきた。
カレンが彼女達と何やら話をして、俺達は娼婦に促されるまま電話ボックスに詰め込まれる。
「どういうことだ?」
「今にわかります。ところでアーサー…臭いですね。近づかないでもらえます?」
電話ボックス内に二人、当然スペースはない。
「匂いは…悪かった。だがこれ以上離れられない」
「はぁ…謁見前にシャワーを浴びましょうか」
電話ボックスは、地下に向かって動き出した。
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