雑想集

山本楽志

第1話 専門書店


 思いもよらず早く手が空いたので、ぶらりと普段は入らない路地を折れて、町の様子を眺めながら駅に向かうことにした。

 通りから一本奥に入ればこのあたりは古い町並みを残していて、平屋の家々が軒を連ねている。瓦屋根が道の間際までせり出して日陰になっているので、茶屋や食器店といった店々を軒先からひやかしていると、殊更に立派な白壁が唐突に現れてぎらぎらと陽射しを照り返しだした。

 よほど大きなお屋敷らしくずいぶんと長い壁で、まぶしくて目の奥で緑や赤や黄といった原色がちらついてくる。しかたなく眉をしかめながら進むと、やがて壁の途切れる十字路が見えてきた。

 やれやれと一息つこうとしたところが、道の向こうからやってくる一人の女性が目に留まった。

 眉間を寄せて、目を凝していたのがかえって功を奏したらしく、どうやらそれが古い友人のように見えてきた。

 思い切って会釈をしてみると、相手もそれに気づいたらしく、しばらく私の方をじっと見てやにわに顔をほころばせてこちらに駆け寄ってきた。

 その笑顔と走り方で私にはもうQ女史と知れていた。

「わーっ、Lさんじゃないですか! おひさしぶり!」

 Qさんは躊躇もなく私の手をとるなり、ぶんぶんと上下に振るのだった。

「こんなところでどうしたんです?」

「時間があまったので、駅までぶらぶらとね。Qさんこそ」

 確か実家は広島と聞いた記憶があったので、こんなところでという意外の感は私の方こそ強かった。

「実は前からお邪魔したいって思っていた本屋さんがありまして。とうとう来ちゃったんです」

「本屋?」

 町の景色とはそぐわない答えにやや面食らってしまった。

「わたしたちからすると、あこがれのお店なんですよ。よかったらLさんもご一緒しません?」

 遠路はるばる訪ねてくるほどの店舗が、この町にあるということにも興味がそそられ、申し出に遠慮なく応じさせてもらうことにした。

「やった! じゃあ行きましょう行きましょう!」

 満更お世辞でもなさそうに喜んでくれるのにほっとしつつQさんの後に従った。

 角を曲がりやはり片手に見ながら、ただし通りの反対側に渡ったので、もう目を悩まされることもなかった。

 よほど嬉しいのだろう、Qさんの歩みは大股で早かった。

「ずいぶんと急ぐんだね」

「えー、そんなことありませんよ」

 私の息が早速上がりだしていたが、Qさんはけろりとしたものだ。

「もしかして、前にも来たことがある?」

「初めてですよ。あれ? いいませんでしたっけ?」

 奥二重のつぶらな瞳をくりくりと丸くさせる

 確かにそう聞いたが、白壁を後にして曲がりくねる路地に入るとあたりは民家ばかりで、商店の看板もほとんど見当たらなくなり、特にこれといった目印もないようだった。にもかかわらずQさんはスマートホンや地図を取り出すでもなく、それでも足取りがゆるむこともなかった。

 期待に気を逸らせているのかとも考えたが、それにしては横顔に浮かぶ笑みは涼しげだった。

「あれからLさん、どうされてたんですか?」

「あれから?」

「学校出てからですよ」

 ああそうか、Qさんとは同じ大学での同窓生だった。

「いろいろだよ」

 卒業後職を二つほど変わったこと、ひょんな縁で入った職場で手ひどい裏切りに会ったこと、以来妻との間がうまくいかなくなってきたこと、もらい事故で長年の愛車を廃棄しないといけなくなり足代わりも今は持っていないこと。話せば長いし、久しぶりに再会した相手に話すようなことでもなかった。

「Qさんこそ……」

「あっ、着きましたよ!」

 いいかけたところで、うれしげな調子に遮られた。

 その店は唐突に現れた。

 二階建てだったが、平屋の民家の密集するなかで、道幅が狭く近づくまで周囲からまったく姿がうかがえないのでその印象が余計強まった。

 一階部分にまで切妻屋根が伸びて、正面はガラス張りのとても開放的な店構えで、大通り沿いにでもあればさして突飛とも映らなかったろうが、旧風な町並みにはアンバランスに思えた。

 それでも、店内は来客数も多く十分ににぎわっているように外からでもうかがえた。

 おかげで取り扱っている本はよく見えず、マンガが多いようでもあったが、はっきりとはわからなかった。

 不思議と店名はどこにも見当たらない。開きっぱなしのガラス製の玄関扉には営業時間が書かれているばかりだ。

「ここは……」

 砂利の敷かれた駐車場も兼ねた玄関先で――前の通りが車が走れるのかあやしいほどの道幅しかなかったのでそれも不思議でもあった――たずねようとすると、

「ここはシッソウシャ専門の本屋さんなんです」

 私の言葉にかぶせてくるようにQさんは先んじて教えてくれた。

「シッソウシャ?」

 けれどもその勢いを前にして、咄嗟には頭の中で意味のある言葉に結びつかず、私はそうくり返すしかなかった。けれども、Tさんはそれ以上はこらえきれなかったらしく、背を向けて店に入っていってしまった。

 おまけでついてきている身としては引き留めるわけにもいかず、私もやや遅れて玄関をまたいだ。


 店内は非常に明るかった。

 正面のガラス窓からさんさんと陽の光が入り込んでかなり奥の方まで照らしているばかりでなく、床や壁、天井も掃除が行き届いてくすんだ雰囲気がないのも大きかった。

 スタッフは服装こそ思い思いなものの、淡いクリーム色で統一されたエプロンをつけて、きびきびと動きまわっているのも爽やかな印象を強めた。

 外から見て想像していたのに反して、店の中はとても静かだった。

 入ってみれば客数はさらに多く、どの棚を見渡しても熱心に物色する人々でひしめきあっているのに賑わいは薄い。会話はもちろんあるのだが、それらは決まって遠く、どこか私とは縁のないところから響いてくるような距離を感じて、周囲からは衣擦れの音ひとつ、それどころか呼吸する声さえしていないように思えた。

 それだけみんな熱心にお目当てを探しているということなのだろう。

 私はそう納得して、ちょうど近くの本棚の前が空いたので、そこに身を滑りこませてみた。

 背表紙をざっと見渡してみる。このあたりはマンガ専門らしく、似たようなサイズの単行本がずらりと収められている。

 どうやら著者名で並べられているらしいが、どれも覚えがないものばかりだ。出版社もばらばらでこちらもあまり知らない会社が多く、なかには同人誌も混ざっていた。

 先ほどのQさんの言葉から、どこかの出版社の専門店かもと考えていたのだが、あてがはずれた。

 本棚の最上段と二段目では一部が表紙をこちらに向けて陳列されている。

 けれども、その表紙にも見覚えのあるものはなかった。

 私は急速に自分のマンガ知識への自信が揺らいでくるのを感じずにはいられなかった。

 本棚の前には膝の高さくらいの台が準備されていて、店舗として推し出したい人気作らしき作品群が平置きで並べられていた。

 それぞれに内容を知らせる手書きのポップが添えられていて、二重にされた保護用の透明の袋の合間に印象的なシーンをコピーしたものが挟みこまれ、人目をひくための工夫が凝らされていた。

 それでも、やはりそこにあるのも、私の記憶を刺激しないものばかりだった。

 何気なくそのうちの一冊を手に取ってみた。

「《大伽藍》シリーズ注目のスピンオフ現状の最新刊! 三宝事件での不可解な不在の謎! 柊と蘇鉄の足取りがついに語られる!」

 表紙を邪魔しない程度の小さな用紙に、文字のサイズやデザインに拘って、さらに何種類かのカラーペンを使ってボリュームや立体感をあおり、見事に客の関心を集めるための力が尽くされている。

 私もそれに引き寄せられたのだった。

 そのまま何気なくひっくり返してみる。裏表紙のあらすじを確認したいくらいの、特にこれといった意図のない行為だった。

 そこには思った通り本文内容のかんたんな解説が書かれていたが、表紙面と同様に店舗側で用意しているらしい印刷された小紙片が挟まれているのに気づかされた。

 それは著者のプロフィールで、略歴にデビュー以来の作品概要と受賞歴などが個条書きで記されていた。上からその文字を目で追っていた私は、最後の行の、

「令和2年8月 買い物に行くと家族にメッセージを残して以降音信不通」

 という文章に目が釘づけになった。

 しばらくは自分でも見知らぬ作家の情報がどうしてそんなに気になるのかわからなかったが、胸騒ぎに思い当たると、隣の平置きになっているポップつきの本を手に取っていた。

 今度は直接裏表紙に目をやる。そこにもやはり著者プロフィールの紙片が入っていた。

「平成25年2月 身分証の入った財布、携帯電話等を自室に残したまま以後消息不明」

 次々に別の本を取り上げては裏表紙を確認した。

「昭和62年3月 実家への帰省を当時の担当編集者に告げたまま以降連絡が途絶える」

「平成10年7月 兵庫県但馬の山中で所有車だけが乗り捨てられた状態で発見される」

「令和元年11月 自宅近くのコンビニで買い物をする姿を見られてからの足取り不明」

「昭和48年12月 旧国鉄寝台特急はやぶさにて食堂車に行くと言い残して消息不明」

 Qさんのいったのが失踪者だとようやく気がついた。

 この店に集められているのは、なんらかの都合により親類縁者からも連絡を途絶えさせて行方が知れなくなった著者の作品ばかりなのだった。

 手にした本を戻すと、さらに建物内の人足が増えたらしく、ひしめく人の波が意思を持つかのように動きはじめた。私はあえてその波にさからおうとはせず、流れるにまかせて歩を合わせて、店の奥に進み、時折立ち止まればそこに並ぶ本を一冊二冊手にするのだった。

 書店は二フロアともに売り場になっていて、同じように平置き台の用意された本棚が整然と並んでいて、どれにも本が、失踪者たちの痕跡というべき作品が詰まっていた。

 種類もマンガをはじめ、小説、エッセイ、料理レシピ、自己啓発本、写真集、学術論文など多岐にわたるが、失踪者という共通点がなければ、むしろ焦点の定まらないぼやけた取り揃えと映りそうだった。

 扱われる一冊一冊の名前や、特に表紙をこちらに向ける上段の棚の一部や平置き台の表紙を見ていると、逆に何処からか知れぬところから私も見つめられているように思えてならなかった。

 それだけたくさんの行方不明の作家がいることにおののいているうちに、そうした著作を求めて店内に入りきらないほどの客が訪れている事実にも気がつかないわけにはいかなかった。

 この人々はいなくなった作家の関係者たちなのだろうか。

 それにしては、だれもが特定の個人の棚に立ち止まるわけではなく、複数の作家を物色しているようだった。

 私はその後も客の波に揺られて店内を行ったり来たりしていたが、やがて玄関近くのレジ前にQさんの姿があるのを認めた。既に会計は終えた後らしく、両手には遠目にもわかるほどにたくさんの本の詰め込まれた紙袋をいくつも提げていた。

 そしてQさんはそのまま店から出ようとしているようだった。

「Qさん……」

 呼び掛けようとした声が思った以上に店の中に響き、びっくりしてはじめの一音をかろうじて発するだけで残りは口の中でくぐもって消えてしまった。

 それだけでも十分な大きさだったらしく、店内の四方八方にいた客やスタッフを問わず、一斉にすべての目がこちらに向けられた。たった一人、当のQさんを除いて。

 私はその時、ようやく店内に一切のBGMがかけられていないことに気づいた。

 Qさんは私に背を向けたまま、足取り軽く立ち去っていく。私はもう一度声を出すこともためらわれて、玄関を後にする姿を目で追うしかなかった。

 全面ガラス張りの正面玄関からは背中はよく見えて、やがてQさんは私たちがやって来たのとは反対方向へ曲がって姿を消したのだった。

 きらめく陽の光を浴びて、両手いっぱいに失踪者の本を持つQさんの、ほがらかに微笑む横顔がほんのつかの間目に入った。

 その時、やはり大学で同窓だったJ君から、何年ほど前だったか、Qさんと連絡がとれなくなってみんなが心配しているという話をうかがった記憶が不意に蘇ってきた。


 Qさんが姿を消してからも私は人波に飲まれて店内を周遊していた。

 列の前の人は――おそらくは後ろの人も――ひっきりなしに入れ替わったが、流れはスムーズで、だからなおのことそこを無理に外れようとすることが不躾に思えて身をまかしているほかなかった。

 そのうち流れがレジ近くにたどりついたところで、その前に人影の極端にまばらなスペースのあることが目についた。

 本棚が立てられておらず、会議室で使うような折りたたみ机があるばかりで、上には収納ケースが置かれていた。

 人波はその隣を進んでゆくが誰も見向きもせず、心なしか足取りも早くなっているように思えた。

 私はこれをチャンスと思い、なんとか列を離れてそちらに身を寄せた。流れを妨げた感覚はなかったが、それでも私の行動は人目を引いたらしく、背後からこちらを凝視する眼差しを無数に感じた。

 プラスチックの収納ケースには「最終セール品」と書かれた紙が貼りつけられ、のぞき込んでみれば中にはいくらか本が入っている。

「ちょっとうかがってもいいですか?」

 私はちょうど品の補充にやって来ていたスタッフにたずねた。

「はい。どのような御質問でしょうか」

 手を止めて私の方に向き直ってそう答えたのは、快活な笑みをたくわえた、はきはきとした物言いの好青年だった。

「この最終セールというのはどういう意味です?」

「こちらは当店の趣旨とは合致しなくなった先生方の作品を、取り扱い終了までの一ヶ月間置かせていただくコーナーとなっております」

 青年は私の言葉を一切遮ることなく、最後まで聞いたうえで、そう教えてくれた。

「ということは、消息がわかったと」

「はい。そのようにうかがっております」

 行方不明や失踪という言葉を使うのがなんとなく憚られてそういったのだが、スタッフは格別気にした素振りも見せなかった。

「なるほど」

「他に御質問ございましたらなんでもどうぞ」

「いえ、よくわかりました。ありがとう」

「おそれいります。失礼いたします」

 そういってぺこりと頭を下げると、青年は客の作る波にいともたやすく身を滑りこませて、まるで流れを荒立ても留めもせずすいすいと横断していき姿を消した。

 消息が知れては失踪者ではなくなるから、その専門店としては置いておけないということなのだろう。

 私は納得して、なにげなくケースの端に置かれた一冊のポップのつけられたままの本を取り出し、そして裏表紙を確認してみた。

 そこにはやはり二重にされた保護シートにプロフィールがはさみこまれていて、

「平成28年9月 母親と通話中に電話機より離れて以降応答がなくなる」

 という失踪状況の説明の後、最近の日付とともに追補するような文章の印字された小さな紙片が上から貼りつけられていた。

「左手の指三本を失った遺体として発見」

 確かにこの著者は失踪者ではなくなっていた。

 私はその本をそっとケースに戻すと、なんとなく手もとが暗くなったような感覚に襲われた

 正面玄関から外を見やると、いつの間にか日は暮れてしまっていたらしい。あれだけ差し込んでいた陽の光は既になく、かわりに店内の蛍光灯の皓々とした明かりが夜の空気にしみ出して、店外すぐの駐車場の砂利を照らして、ほのかにきらめかせていた。

 私はそろそろ店を出ないと帰り道がわからなくなりそうだと思っていた。

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